寝ても覚めても

織島かのこ

本編

はじめての告白(※ただし、夢の中)

 目が覚めた瞬間、これは夢だな、とおれは理解した。


 実際のところまだ夢の中にいるのだから、「目が覚めた」という表現はおかしいかもしれない。しかし夢の中のおれはたしかに、フカフカのベッドの上で目を覚ましたのだ。そして目の前には、すやすやと穏やかな寝息をたてている女の子がいる。

 おれ、高梨遥人たかなしはるとはこの上なく真面目で健全な人生を送ってきた十六歳の男子高校生である。同世代の女子と同じ布団で寝たのは、保育園のお泊まり会が最後だろう。ゆうべは自室のベッドでスマホゲームをした後そのまま眠った。悲しいことに、もちろん一人でだ。

 おれと彼女は、ひとつのベッドの中で向かい合って眠っている。彼女の顔に黒い髪の毛がかかっていたので、おれはそれをそっとかきあげた。眼前にある女子の顔をまじまじと見つめる。色が白くて、伏せた睫毛が長い。彼女の正体を少し考えた後、すぐにわかった。クラスメイトの浅倉あさくら璃子りこだ。

 浅倉はどちらかといえばおとなしくて目立たないタイプの女子だ。いつも仲良しの女子グループと固まっていて、授業中もあまり積極的に発言する方ではない。中学も同じだが、この四月のクラス替えで初めて同じクラスになった。会話をしたことはおそらく一度もない。というか、部活に打ち込み男友達とばかりつるんでいるおれは、女子と親しく会話することなどほとんどないのだ。

 それにしても、どうして浅倉がおれの夢に出てくるんだろうか。おれだって年相応にエロい夢を見ることはたまにあるけれど、浅倉はそういった夢に登場するタイプではない。それなら同じクラスの塚原つかはらさんとかの方が、目立つ美人だしスタイルも良い。自分では気付いていないだけで、深層心理で浅倉のことを意識しているということなのだろうか?

 そんなことを考えていると、浅倉が「うーん」と唸って身動ぎをする。ゆっくりと瞼が開いて、かちりと視線がかち合う。浅倉はしばらく眠たげにパチパチと瞬きをした後、目を丸くして「え、ええええええ!」と叫んだ。


「た、高梨くん! な、なんで!?」


 その場に飛び起きた浅倉は、勢い余ってベッドから滑り落ちる。ゴン、という鈍い音が響き渡った。


「ちょっ、大丈夫?」


 おれも慌てて起き上がると、床の上でひっくり返っている浅倉を見下ろした。呆然と唇を震わせている彼女は、水色のチェック模様のパジャマを着ている。自分の格好を確認したところ、ゆうべ眠ったままのグレーの上下スウェット姿だった。

 今自分のいる場所を確認すべく、おれはぐるりと周りを見回した。四方を白い壁に囲まれた、ベッドしかない空間だ。窓や扉の類はないが、不思議と閉塞感はない。広いような狭いような、不思議な感覚だ。夢の中なのだから、それほど細部を気にする必要もないのかもしれない。


「高梨、くん」


 床に寝転んだまま、浅倉がおれの名前を呼んだ。その頰は紅潮しており、桃色の唇は半開きになっていて、どことなく扇情的に見える。今まで浅倉のことをそういう目で見たことはなかったはずだけれど、おれは今から夢の中で彼女と行為に及ぶつもりなのだろうか。


「頭とか打ってへん?」

「だ、大丈夫……やと思う」


 ベッドの上から手を差し伸べると、浅倉はおずおずとそれを掴んできた。柔らかな感触が驚くほどリアルで、どきりとする。まるで子どものように小さな手だった。バスケットボールどころか、バレーボールさえ片手で掴むのは難しいだろう。


「高梨くん、あの」


 ベッドに引き上げると、浅倉は背筋を伸ばして正座をした。おれもつられて居住まいを正す。傍から見るとさぞ滑稽な光景だろう。もっとも、これはおれの夢なのだから、誰にも見られる心配はないのだけれど。

 浅倉は膝の上で握りしめた拳を震わせながら、ゆっくりと口を開いた。


「……私、高梨くんのことが好きです。付き合ってください」


 ずいぶんと都合の良い夢だな、と我ながらうんざりした。まともに話したこともない浅倉が、おれのことを好きになるはずもない。おれの容姿は平凡そのものだし、「話しかけづらい」「怒ってるんかと思った」と言われる目つきの悪さがコンプレックスだ。身長は高校に入ってから十センチ伸びたが、それでもものすごく背が高いわけではない。女子から一目惚れをされるようなタイプでないことは、自分が一番よくわかっているのだ。

 浅倉はぎゅっと目を閉じたまま、おれの返事を待っている。まったくもっておかしな夢だ。今までに見たエロい夢は、なんの脈絡もなく女性とセックスをしているだけの夢だった。


「……やっぱり、無理?」


 おそるおそる目を開けた浅倉が、上目遣いにこちらを窺ってくる。浅倉の顔を間近で見るのははじめてだけれど、よく見ると顔立ちが整っていて結構かわいい。全体的にパーツが丸っこくて、鼻と口が小さいのも良い。はっきり言って全然無理じゃない。アリかナシかで言ったら、全然アリ。……とはいえおれの夢だから、多少おれ好みに加工されている可能性はあるが。


「浅倉」


 おれは彼女の名前を呼ぶと、腕を引いて抱き寄せてみた。力を籠めると折れそうなくらい、華奢で柔らかい。彼女の黒髪から漂ってくる、果物のような爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。腕の中にいる浅倉の身体が、緊張で強張るのが伝わってきた。


「た、たたたたたた高梨くん」

「……うん。いいよ。付き合お」


 よくわからないが、今回の夢はそういう趣向なのだろう。ならば乗らせてもらおうじゃないか。おれの返答に、浅倉は顔を上げてぱっと表情を輝かせた。うわ、めっちゃかわいいな。


「ほんまに? ほんまにほんま?」

「うん」

「うわあ、めっちゃ嬉しい……夢でも幸せ」


 浅倉はふにゃりと笑うと、背中に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。柔らかなものが胸板に押し付けれるのがスウェットごしに感じられて、下半身が反応する。そろそろいいか、と思ったおれは、そのまま彼女をベッドに押し倒した。


「ひゃっ」


 浅倉が驚いたような声をあげる。黒い髪が白いシーツの上に散らばった。小動物のような丸い瞳に、やや怯えたような色が浮かぶ。……えーと、こういうときは、まずキスからやっけ。おれは浅倉の頰に触れると、目を閉じてゆっくりと顔を近づけた――そのとき。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってー!」


 甲高い悲鳴と共に、おれは力一杯突き飛ばされていた。先程の浅倉と同じようにベッドの下に転がり落ちて、したたかに頭を打ちつける。瞼の裏にチカチカと火花が散った。なんで夢なのにこんなに痛いんだ――そう思った瞬間、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響いた。


「……めっ……ちゃ変な夢見たー……」


 おれは痛む頭をさすりながら、むくりと起き上がる。ここは床にゲーム機や漫画雑誌が散乱した、紛れもないおれの部屋である。手を伸ばして、充電器に刺しっぱなしにしていたスマートフォンのアラームを止めた。時刻は朝の七時。部活の朝練があるため、この時間に一回目のアラームをセットしている。普段ならば二度寝をキメるところだが、なんだか妙に目が冴えてしまった。おれは首をポキポキと軽く鳴らしながら、階段を降りてリビングに向かう。


「あれ、遥人。今日はえらい早いやん」


 洗面所で化粧をしていた母さんが、おれに気付いて言った。おれは「うん」と欠伸混じりに答えると、食パンを一枚取ってトースターに突っ込む。大阪の企業で働いている母さんは、普段はおれが起きる前に家を出て行ってしまう。ちなみに父さんは東京に単身赴任中なので、この家にいるのは母とおれ、弟の櫂人かいとの三人だ。


「ほなお母さん行ってくるわー」

「いってら」


 身支度を整えた母は、慌ただしく出て行った。朝食をものの数分で食べ終えたおれは、顔を洗って部活のジャージに着替える。制服に着替えるのは朝練が終わった後だ。おれが家を出る時間になっても、櫂人は起きてこなかった。遅刻するかもしれないが、自己責任なので無視することにする。


「いってきます」


 スニーカーを履くと、誰にでもなくそう言って玄関を出た。いつもは朝練が始まるギリギリの時刻になるのだが、今日は随分と余裕がある。これなら三年の先輩に怒鳴られる心配もないだろう。

 五月の朝の日差しは柔らかく、空気が清々しい気さえする。変な夢やったけど、そんなに悪くない夢やったな。おれは自転車に飛び乗ると、足取りも軽くペダルを漕ぎ出した。



 朝練を終えて教室に入ると、最前列に座っている浅倉の姿が目に飛び込んできた。彼女はいつものように、バレー部の榎本香苗えのもとかなえと何事か話しこんでいる。挨拶をするような間柄ではないので、当然何も言わずに通り過ぎた。

 今日の夢を反芻しながら、あれは一体何だったんだ、と溜息をつく。どうせなら最後までやらせてくれればよかったのに、と思うのは男として仕方のないことだと思う。


「ハルト、見て見て〜今回のイベントめっちゃランク上がってんけど」


 席につくなり、友人の綿貫翼わたぬきつばさがバシバシと肩を叩いてきた。反応が芳しくないおれの顔を覗き込むと、「どしたん、寝不足?」と尋ねてくる。


「いや、めっちゃ寝てんけど変な夢見て」

「エロい夢?」

「そんなにエロくはない」

「なんや、おもんね」


 翼はすぐに興味を失ったらしく、「それよりこれ見て」とスマホ画面を見せてくる。おれは適当に生返事をしながら、視界の端っこに浅倉の姿を捉えていた。彼女はいつも、髪の毛の上半分を後頭部でひとつにまとめるような髪型をしている。昨日の夜は下ろしてたな、と思ってから、いやいやあれは夢やろ、と自分で自分に突っ込みを入れる。


「ハルト、今めっちゃ浅倉さんのこと見てたやろ」


 さっきまでスマホゲームの話をしていた翼が、突然話題を転換した。ぎくりとしたおれは、「え!?」と裏返った声をあげる。翼はニヤリと笑うと、声をひそめて囁いてくる。


「おまえ、浅倉さん狙いやったん? 意外なとこやなー。あ、それか榎本の方?」

「いや、ちゃうちゃう! 別に、なんとなく視界に入ってただけやって!」

「ほんまにー? ハルト、ムッツリやしなー」


 おれがムッツリスケベであることは否定しないが、教室で言うのはやめてほしい。一応、学校では硬派で通しているつもりなのだ。モテないから硬派を気取るしかない、と言われると辛いところだが。


「ハルト、浅倉さんと中学一緒なんやろ?」

「いや、でも一回も喋ったことないし」

「ゆうて、オレら浅倉さんに限らず、ほとんど女子と喋らんやんけ」

「やめろや。なんか虚しくなってきたわ」


 おれと翼は揃って溜息をついた。そのときちょうど担任教師が教室に入ってきたので、翼は自席へと戻っていく。朝のショートホームルームが始まっても、おれはまだぼんやりとしていた。

 ――高梨くんのことが好きです、か。

 自慢ではないが、おれは生まれてこのかた一度も告白をされたことがない。しかし、中学三年の頃、机の中にラブレター紛いのものが入っていたことがある。可愛らしいハムスターの便箋に、「このあいだの引退試合、かっこよかったです」とだけ書かれていた。差出人の名前はなかった。女子の字のようにも見えたが、おそらく誰かのイタズラだろう。それでもその手紙は、今も自室の机の中に大切にしまわれている。

 おれだって人並にモテたい願望があるし、かわいい彼女ができたら楽しいだろうな、という気持ちはある(部活でそれどころではない、というのは置いといて)。しかし、何の関係もないクラスメイトを夢の中にまで引っ張り出してくるとは。しかも告白されたのをいいことにいきなり事に及ぼうとするなんて、夢だからいいものの現実だったら最低だ。

 ――ごめん、浅倉。もし次に同じ夢見たら、今度はもっとちゃんとした順序踏むから。

 しかし、もうあんな夢を見ることは二度とないだろう。それならもう少しいろいろと堪能しておけばよかったかな、などと不埒なことを考えてしまって、おれはもう一度心の中で浅倉に謝罪した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る