わたしは自転車で火星に行った
小里 雪
わたしは自転車で火星に行った
わたしはこの自転車とずっと一緒にいた。
高校一年生のある日、夢の中でわたしはどこまでも続く丘陵地帯を自転車で走っていた。草は丈が短く、自転車を降りても膝に達しないものがほとんどで、農学を専攻している今になって思えば、あれは間違いなくイネ科の特徴を備えた草だった。
緩やかに上下する地形、大きな木が生えない乾燥した気候と、その乾燥した気候ならではの真っ青な空は、まるで日本ではないようだった。その中でわたしは、大汗をかきながら緩やかな丘を登り、頂上付近でギヤを変え、スピードを上げて丘を走り下りる。それを延々と繰り返していたのだった。
そして、その繰り返しに、たまらない喜びを感じていた。
その夢はあまりに明晰で、丘を下るときに脛に当たる草の痛みとか、草がスポークに当たって奏でる軽やかな音とか、タイヤに踏みつぶされた草いきれの匂いとか、銀色の自転車のフレームに映り込む空の青と草の緑とか、そんなものまでが起きた後になってもはっきりと思い出せた。
その日、わたしは自転車を買おうと決心したのだった。
わたしが自転車を手に入れる日は、思っていたよりずっと早くやって来た。母との関係が冷え切っていた父が、それがどんなものかはよく知らないし、知りたくもないのだが、相場で大儲けし、しかもそのお金をちらつかせてほかの女性と関係を持っていたことが分かったのだ。
それから離婚まではあっという間だった。母は、それまでの父の金銭関係のだらしなさと、そのくせ、わたしに何か買ってやったことが一度もないということを
わたしも父が嫌いだったし、父が稼いだ額についても薄々知らされてはいたため、何の罪悪感もなくそのプレゼントを頂くことにした。今まで父に対して感じてきた怒りと悲しみの対価なのだ、これは。あの夢の日以来、自転車について調べ上げていたわたしは、こまごまと指定をつけ、三十万円近い自転車を仕立ててもらった。そんなふうにしてわたしは苗字を失い、自転車を得たのだった。
わたしは背が一七一cmもあるから、大きな自転車にも乗れる。二十九インチのマウンテンバイクで、サスペンションは前後とも不要。パーツはシマノ製で、フロントはシングルギヤでリヤは十二速。油圧のディスクブレーキに、サドルの上下機構付き。フレームはカーボンではなく、アルミにした。父に遠慮したのではなく、銀色のフレームにしたかったからだ。鈍い金属光沢を放つ銀色の自転車がどうしても欲しかった。
自分で自転車を買うつもりでアルバイトをしてためたお金は、周辺機器や修理工具などに転用され、その日以来、わたしは定期券を買わなくなり、高校への十二kmの道のりを毎日欠かさず自転車で通うようになった。
制服のスカートの下に夏はハーフのスパッツ、冬はタイツを履いて登校し、学校に着くとまずトイレでそれを脱ぐのが日課になった。雨の日も合羽を着て自転車で学校に行っていたので、ただでさえ女子の中で頭一つ大きなわたしはそんな行動でも注目を浴び、校内でちょっとした変人扱いをされていた。
自分で言うのも気が引けるが、わたしはどうも男性の興味を引きやすい外見をしているらしく、そんな変わり者で大女のわたしでも告白してくる男子は少なくなかった。しかし、父のどうしようもないだらしなさを物心ついたときからずっと目にしていたからか、わたしには男子と付き合う気は全く起こらなかった。また、女子のグループの中にも外にも流れているある種の粘りつく空気のようなものも全く肌に合わず、休日、わたしはもっぱらひとりで自転車で走り回っていた。
わたしが住んでいた街は都会で、マウンテンバイクが本領を発揮する不整地になかなか行けなかったため、大学は地方国立大の農学部を選び、一人暮らしをしながら、大好きな自転車と植物に囲まれて暮らし始めた。山が近く、二十kmも走れば林道がたくさんあることも魅力的だった。
地方の農学部をあえて選ぶ女子は、みんなとは言わないまでも、その多くが自主の気風に富み、自分と違う他者の存在に対して寛容だったため、高校のときよりずっと居心地がよく、できればこの土地で仕事を得て、ずっとここで暮らしたいとさえ思うようになってきていた。
そんなときに、彼に会ったのだった。大学二年生のときだった。自転車には全く興味がない人だったし、今でもない。
彼は
「火星探測車の『キュリオシティ』の映像を見たら、あの火星の平原に草が生い茂ってるところを想像しちゃってね。おれ、そのときからずっと火星の草原を歩きたくて研究をしてる。」
ある日、わたしの腕の中で彼は言った。付き合い始めて半月ほどが経った秋の日だった。
「じゃあ、わたしはそこを自転車で走るよ。わたしが見た夢と火星の景色はだいぶ違うみたいだけど、わたしが高校一年のときに見た夢が、こんなふうな青い夕焼けの中を自転車で走る自分だったとしても、やっぱり自転車に乗ってたと思う。」
彼は布団から裸の腕を伸ばし、枕元に置いてあったPCのスクリーンセーバーを解除し、さっきまで二人で見ていた火星の青い夕焼けの映像を再び表示させた。
「やっぱり、イネ科だな。火星にはイネ科がよく似合う。」
「そうだね。ステップと言えばイネ科だしね。わたしの夢に出てきた草原も、単子葉類だったから、たぶんイネ科。」
今度はわたしが彼の胸に顔を
青い夕焼けは確かに魅力的だったけれど、わたしにとっては多分、本当は火星じゃなくてもよかったのだと思う。火星より、火星に行きたがっている彼の方が魅力的に思えた。
わたしと彼はほとんど一緒に住んでいたから、逆に休日は別の行動をした。わたしはたいてい、時にはテントを積んで自転車であちこちを走り回っていたし、彼は彼で圃場の一部に乾燥した温室を作り、そこで育てている植物のデータを取ったり、大学のジムでトレーニングをしたりしていた。
実は、平日も似たようなものだった。お互いに学校の課題や研究をこなしたり、好きな本を読んだり、自転車の整備をしたり、別々に行動する方が多かった。でも、別のことをしていても、彼の体温がすぐそばにあるという安心感は何にも代えがたく、わたしがだめな日以外はほとんど毎晩のようにセックスをした。
そうやって緩やかにつながる関係、お互いが、お互いの好きなものの領域に踏み込まず、それでも相手に遠慮せずに好きなものは好きと言える関係は、本当に心地よかった。もしかしたら、一人でいるときのわたしよりも、彼と一緒のときの方が本当のわたしに近いのかもしれないとすら思った。
二年間が過ぎた。彼は大学院の博士課程に進んでいた。わたしは四年生になっていたが、修士課程に進み、もっと詳しく植物の研究を続けるつもりだったから、勉強こそしていたものの就職活動はせず、以前と同じような二人の日々が繰り返されていた。
先月、隣県にある彼の実家から電話があった。彼のお祖母さんが亡くなったということだった。礼服だけを持って彼は実家に慌ただしく帰り、そのまま今日まで戻ってこなかった。
電話で聞いたところによると、彼の実家はもともとかなりの面積の田畑を所有していたのだが、人手がなく、今では人に貸したり、耕作放棄地になったりしていた。祖母の名義になっていたその土地をどうするか、家族でずいぶん話し合ったそうだ。
「おれが継いで、農業をやることにしたよ。土地を貸している家も、お年寄りばかりでいつ廃業してもおかしくない。おれなら、この土地全部をまた金色の稲穂で埋めることができて、たくさんの人を腹いっぱい食べさせられる。それができる家に生まれて、やらないのは、人の道から外れる気がする。」
「そうだね。あなたがそう決めたのなら、それが一番いいよ。」
わたしは、それだけ言って電話を切った。今までと同じように、相手の大切なものには踏み込まない。それがわたしたちの流儀だったから。それが、三日前のこと。
あの日からずっと、わたしは彼と住んでいた家で、ひとりで食事をし、ひとりで寝ていた。バスに乗って大学と家を往復するだけの毎日が続いていた。なぜか自転車に乗る気が起こらなかった。いつもと同じ日常が続く。そう、もう二年間ずっと、いつもと同じ日常が続いていた。そんな毎日の変わらなさをわたしは愛していた。彼がいない日常も、すぐに慣れて、きっとその変化のなさをわたしは愛するようになる。
変わらなかったのだろうか。季節ごとに、この土地の風景は日々刻々と変化していた。道や、畑や、森の植物のことをいつも彼と話していた。わたしと彼はこの土地の季節とともに時を重ね、この土地を呼吸するようにして生きてきた。
今は、違う。わたしはすでにこの土地から切り離されていた。本当の停滞がやってきていた。彼が去るまでの二年間は、停滞などではなかった。絶え間なく動く自然がわたしたちの周りにほんのひとときだけ形象を生み出す。その形象を構成するものはどんどん入れ替わるが、形象はゆっくりとしか変化しない。
わたしと彼は、その絶え間ない流れと、その流れが形作るゆっくりとした変化を感じながら生きてきた。それを、わたしたちは変わりない日常と呼んでいた。今のわたしは、そこからも分断されている。流れる風も、傾く陽も、わたしの皮膚によってわたしと隔てられていた。
今朝、目を覚まして、外を見た。もう、秋も深まっていた。そういえば、彼がいなくなった日と同じような半袖でずっと過ごしてきたが、なんだか寒くなってきた気がしていた。
今日から三連休だったことも思い出した。上に一枚羽織り、財布と携帯だけを持って、自転車に乗る。ほとんど一月ぶりだった。風が頬を撫で、草木の匂いが鼻に飛び込んでくる。わたしの大好きな場所。目を上げれば山がある。彼の大好きな場所。ハンドルから手を放して、両手を広げてみる。
わたしは、この自転車と一緒ならどこでも行ける。フレームの銀色が太陽を映す。大丈夫、わたしの脚は大丈夫。コンビニエンスストアでペットボトルの飲み物を買い、ボトルケージに差す。大急ぎで菓子パンを二個、口に入れる。スマートフォンの地図アプリを確認する。大丈夫、一三〇kmなら七時間もあれば十分だ。
県境の峠を越えれば、あとは下って、海沿いに広がる平野に入る。峠を越えて、わたしは後ろのギヤを最小の十Tに入れて踏み、坂道を下る。耳元で風が唸り、景色が飛ぶように流れる。
刈入れ直前の田んぼのあぜ道を、わたしは走る。向かい風が強いから十八Tまでギヤが落ちる。そう、晴れた日は海から陸に向かって風が吹くのだ。もう一度コンビニでストップ。飲み物と菓子パン。海まで行かず、途中を右折。海岸線に平行に走る。横風。十六T。
この平野の東の境界が近づく。再び右折して山に向かう。扇状地の緩い傾斜を二十一Tと二十四Tを行ったり来たりしながら登る。一枚一枚の田んぼの面積が狭くなり、耕作放棄地も目立ってくる。二十八T。もう日が傾いている。日没まであと一時間くらいか。最後に三十二Tに入れて急坂を上り詰めると、傾斜が弱まって台地の上に出る。その端にあるのが彼の家だった。
あぜ道を向こうから歩いてくる彼の姿は見間違えようがなかった。わたしは自転車を降りて、押して歩く。
「やあ、久しぶり。ここまで、大変だったろ。」
お互いがしたいと思ったことに踏み込まないのが、わたしたちの流儀だった。わたしが来たいから来た。なぜ来たのか問わないことが彼の優しさだということは、分かりすぎるほど分かっていた。
「ここまでの道、すごかった。夢とは全然違うけど、この夢を見ててもわたしは自転車を買ってた。この土地も、わたしは絶対好きになる。台地の端から田んぼの海とほんとの海が見える。少なくともわたしにとって、この土地は火星と同じくらい大切だ。」
「おれにとっては、まだちょっとだけ火星の方が大事かな。でも、きみがきてくれたからイーブンかもしれない。」
彼は家に向かって歩き始めた。ギヤを最大の五十一Tに入れれば歩くスピードと同じ速さで走れるので、わたしは自転車にまたがる。彼と違う方法で、同じ道を進む。彼の話を無視して、ゆっくりペダルを回しながら、わたしは自分の話をする。
「わたしにはここが火星だ。夕焼けは赤いけど。イネ科の植物はすでにはびこっているけれど。」
「火星人の家族に、紹介しないとね。銀色の探索車でやって来た、大きな地球の女の子を。」
ゆっくりゆっくりペダルを踏む。わたしは泣いているのを見られないように、彼の少し前に出る。
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