第8話 墨の匂い


「本を読むのは難しいな。お前も僕も、寝てしまう」


 恐縮して私が身を縮めているのを、まるで気にしなくて良いとでも言うように雨竜さんが言う。私はまたすみませんと俯いた。


「言葉が難しくて……筆文字も馴染みがないので……ひとりで読めれば良いんですけど」


 そうすれば雨竜さんにお手間をかけさせなくて済むし、と思ったけれど雨竜さんはなるほどと何かに合点がいったようだ。ぽん、と手を叩いて嬉しそうににんまり笑うのを私は思わず顔を上げて見た。


「本を読むのは好きか?」


「は、え、す、好き、です」


 問われた理由が分からなくてどもりながら答える。鈍臭い答え方で自分では嫌いだ。早く言ってと人の機嫌を損ねることも多い。でも雨竜さんはそうかそうかとひとり頷いている。


「深琴は本のどんなところが好きだ?」


「は、えっと、色んなところに行けるし、色んなことを、知れる、から」


「やはり僕の読み方が悪いせいだな。よし」


「え、あの、雨竜さんのせいじゃ」


 慌てて否定しようとしたけれど雨竜さんは聞いていないみたいだった。棚の奥をごそごそ、文机の抽斗をごそごそ、あれは何処にやったかなどれどれと言いながら探っている。私は突然の行動に驚いてただ見守るしかできない。


「おぉ、あったぞ。これだ」


 竹の筆巻とすずり、墨に半紙を取り出した雨竜さんに私は首を傾げる。察しの悪い私には習字でよく見た道具ということしか分からない。


「その顔だとあまり使ったこともなさそうだ」


「はい、あの、学校でやったくらいで」


 それも高校生までの話だから、もう十年は経っている。道具を見るのも久し振りだ。


「僕もだ」


「はい、あ、え?」


 反射で返事をしてから慌てて訊き返した。雨竜さんは悪戯っ子のような表情を浮かべている。


「僕も手習いで少しやった程度だからな。読めるけど書くのは苦手だ。というか書く必要性があまりなかった。書けるかも怪しい。深琴は?」


 楽しそうに問われて私はあの、と言葉を探しながら答える。


「書けるけど上手じゃないので……」


「結構じゃないか」


 雨竜さんはそう言って早速とばかりに道具の用意を始める。墨を擦る動作をじっと見ていて良いものかも分からなくて私はそわそわと落ち着かない。けれど部屋に充満していく墨の匂いは懐かしさを覚えた。


 高校では音楽と美術、書道から選択する形式の授業だったから書道を選んだだけだった。人前で歌うのは苦手だし、絵だってセンスがなくて難しい。でも書道なら、お手本を見ながら書けるし美術みたいに立体物を平面に写すわけでもないから気持ちが楽だった。別に得意だったわけではない。でも慣れない筆を持つのはみんな一緒だったから、歪な文字でも紛れられている気がした。集中するからひとりでいても何ともなかった。


 ただそんな、消極的な理由で。


「よし」


 雨竜さんが小さく声をもらすから意識がそちらへ向いた。筆を持つ所作は美しいのに、筆先に吸わせた墨の量が多すぎてぽたぽたと落ちる。あわわわわ、と雨竜さんは狼狽えて、慌てて硯に筆を戻した。


「なんだ、なんだなんだ」


 あまりの慌てっぷりに私は少し息を零した。ぱっと雨竜さんが私を見るから、もしかして自分は今笑ったのだろうかと私自身驚いてしまった。人が慌てる様を見て笑うなんて最低だ。相手は神様だけど尚更失礼にもほどがある。


「ご、ごめんなさい、そんなつもりじゃ」


 慌てて言い繕ってまたおどおどと下を向く私に、雨竜さんが微笑んだ。ふ、と小さく笑う声がする。


「僕は人の世のことには疎くてね。深琴、もし知っているなら教えてくれないか。今起きた出来事がどういった類のものなのかを」


「どういった類と言いますか、あの、ええっと」


 どう言ったものかと言葉を探す私を雨竜さんは待ってくれる。優しくて穏やかな目は私に安心して良いと言ってくれているようで、それに勇気をもらって私は墨を付けすぎだと思うと思い切って指摘した。


「付けすぎ? どうすれば?」


「えっと、硯の陸の部分で少し墨を取って」


「?」


 きょとんとした表情を浮かべられて、上手く説明できないと私は内心で焦った。私の説明はいつも理解されにくい。更に言葉を探す私に、雨竜さんはすっと座る場所を移動した。私に手本を見せろと暗に示してきて、私は思わず雨竜さんを見た。雨竜さんは頷いている。


「ええっと……こんな、風にして」


 私は恐る恐る筆に手を伸ばして墨を流す。筆を持ち上げてもぽたぽたしないのを確認して、雨竜さんを見れば雨竜さんは半紙を指差した。書け、ということらしいと感じて私は困惑した。


「何を書けば」


 手本がない中で何を書けば良いか決められない私に、名を、と雨竜さんは言った。


「どんな字を書くのか教えて」


 私はそっと半紙に自分の名前を書く。元々は雨竜さんが何かを書こうとしていたのだろうから、右下の隅っこに、邪魔にならないように小さく。小さいなぁ、と雨竜さんは苦笑したけれど満足そうだった。


「深琴、深琴か。あぁ、雨音のそれはあやまたなかったのだな」


 愛おしそうに細められた目が優しくて、私の胸はきゅうと苦しくなった気がした。



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