リラの蕾を芽吹かせて

一ノ宮ひだ

page.0 水になる


「なんでこの問題も分からないの?」


「……えっと、ごめんなさい」


「なんでそんなに不器用なの?」


「……はい、すいません」


「なんでそんなこともできないの?」


「それは――」


「なんであなたって、いつもそんなんなの?」


「――わたし。こんなわたしで、ごめんなさい」


 声は、刃物よりも冷たかった。

 突き刺されるのではなく、薄氷のようにひたひたと広がっていく。

 わたしは、その中で音もなく溺れていく。


 ――夢の中で、わたしは水になりたいと願っていた。


 形を持たないまま、どこまでも流れていける存在に。

 匂いも色もなく、ただ透明で、ひと目に触れずに消えてしまえるなら、それでよかった。

 誰かに期待されることもなく、失望を与えることもなく、ただ静かに波紋を残して消えていく。

 そうなれたら、きっと傷つけずに済むし、傷つかずに済むのだろう。


 「馬鹿だね」と言われてもいい。「意味がない」と笑われてもいい。

 だってほんとうに、わたしはその通りの存在だったから。

 世界にとっても、家族にとっても、友達にとっても、代わりのきく、どうでもいいひとりにすぎなかった。


 ――それが、わたしにとっての「なりたい自分」だった。


 誰にも触れられず、誰の手も借りず、透明のままでいられるわたし。

 そんな居場所に、行きたかった。


 遠くに行きたい、って思った。

 でも、ほんとうはどこだってよかった。北海道でも、海でも、空の下でも。

 行き先なんて、ただの言い訳で。大切なのは、「ここからいなくなる」という一点だけ。


 進路、成績、人間関係――。

 ひとつひとつは小さな石なのに、胸の中で積み重なっていくたびに、息が詰まっていった。

 石が増えるたび、心臓が押しつぶされ、呼吸のリズムさえ乱れていく。

 もう考えたくなかったし、誰かに打ち明ける気力もなかった。


 「頑張って」

 「みんなそうだよ」

 そんな言葉が投げかけられる光景が、もう予感できてしまうから。

 優しさの仮面をした錆びた鉄の刃のように、その言葉は、必ずわたしの中に突き刺さる。

 気休めさえ、わたしを責める理由になってしまうから。


 勉強も、運動も、見た目も、何もかも中途半端。

 「平凡」にすら届かない気がした。

 頑張っても、ズレている。喜ばれることも、褒められることもない。

 ――ああ、わたしは本当に、どこまでも中途半端なんだな。


 そう思うたびに、体の奥で小さな音が鳴る。

 カチリ、と。

 自分を閉ざす錠前の音。

 誰にも気づかれないまま、わたしの心は、少しずつ暗く、深く、沈んでいく。

 沈んだ心はもう浮かばない。相談したって、きっと「頑張って」とか「みんなそうだよ」とか、優しさの仮面をした錆びた鉄の刃物みたいな言葉で、またわたしはわたし自身を責めてしまうだけだと思った。

 学力、運動、見た目――全部、中の中の下あたり。

 平凡のなかにすら、確信を持てない存在。

 頑張っても、どこかズレていて、報われることも、喜ばれることもない。

 ああ、わたしって本当に中途半端なんだな、って。

 そんな自分を、何度も何度も反芻して、嫌いになっていった。


 季節は巡って、冬の匂いがしていたのに、日差しだけがやけに優しかった。

 駅前の人波の中で、わたしはただ立ち尽くしていた。

 どこに行くでもなく、誰を待つでもなく。

 流れてゆく人の肩と肩のあいだに、取り残された影のように。


 彼らは今日を、どんなふうに過ごすのだろう。

 どんな悩みや焦燥を抱えながら、それでも前に進んでいるのだろう。

 もしかしたら、みんなわたしと同じように、見えない場所で泣いたりしているのかもしれない。

 それとも、こんなちっぽけなことで立ち止まってしまうわたしのことなど、誰一人として想像もしないのかもしれない。


 教室で手を挙げたとき、ふと聞こえた笑い声。

 イジメじゃない、幻聴だ――と自分に言い聞かせても、耳は勝手に「嘲り」として受け取ってしまう。

 そのざわめきは胸の奥で長く残響し、夜になっても消えなかった。


 先生の怒鳴り声もそうだった。

 たとえ叱られているのがわたしでなくても、体が反射的に震えてしまう。

 怒りという音そのものが、わたしの皮膚に染みこんでくるようだった。


 下校の準備をしているとき、部活の子たちの明るい笑い声が遠くから聞こえる。

 その響きは、透明な壁の向こうにある世界のものみたいで、わたしはただ机に鞄を押し込むだけの存在になっていた。

 ――その瞬間、わたしは「分かりあえない」という事実を、またひとつ覚えてしまう。


 *


 朝、目が覚めたとき。

 お腹の奥がきゅうっと締め付けられるように痛くなる。

 涙が勝手に零れてくることもある。

 ただ一日が始まった、それだけで、もう疲れていた。


「――なんでわたしって、いつもこんなんなんだろう」


 理由なんて分からない。

 それでも結論だけは、いつだって同じだった。

「わたしが悪い」――。


 机の下にうずくまって、耳を塞ぎ、目を瞑る。

 暗闇に逃げ込んだときだけ、世界は少しだけ遠のく。

 ほんの束の間、呼吸が戻ってくる。


 *


 根暗。情弱。メンヘラ。

 そうやって、いくつものありふれたラベルを簡単に貼る人もいるだろう。

 けれど、本当のわたしは、その言葉にさえ収まりきらない。

 名前のない痛みの中で、ただ毎日をやり過ごしている。


 自分を傷つける勇気もないのに、自分を生かし続けるのも怖い。

 正解ばかりの世界で、わたしだけが「不正解」なんだって。

 生まれてきたことそのものが、最初から間違いだったんだって。


「みんな」との違いを感じたあの日から。

 わたしは少しずつ、学校に行けなくなっていった。

 それは冬の陽だまりが、痛いほど優しい午後のことだった――。


 ❀


 小牧エリカ(15才)

 一週間ごとの脳内予報


 月曜日……何もかも憂鬱。死にたい。

 火曜日……頑張って外に出て、ほっとする。

 水曜日……やっぱり辛くて部屋に引きこもる。

 木曜日……昼頃に起床し絶望する。

 金曜日……躊躇って登校したけど散々になる。

 土曜日……小説を読んで、救われた気になる。

 日曜日……夕日を見て、自己嫌悪をしてしまう。



 わたしの一週間は、ほとんど夢みたいだ。

 悪い夢、抜け出せない夢、やるせない夢。

 起きているのに、ずっと寝ているような気がして、寝ているのに、どこにも行けないまま、息をしているだけ、みたいな。

 それは悲しいとか辛いとか、そんな分かりやすい感情じゃない。

 ただ、「ここじゃない場所」にずっと行きたくて、それがどこなのか分からないから、何もかもが嫌になる。


 ――そう、この場所では。


「芒さん。おはよう」


 二十数個の古時計が吊るされた、不思議な喫茶店、「オールドクロック」。このあまりにも捻りのない店が、わたしの仮の棲みか。

 ここにいると、時間の感覚が少しだけ遠のく。

 カチカチと鳴る秒針は、絶え間なく。所々鳴る鐘は、うるさ過ぎず。誰もいないように錯覚するのは、全てが調和しているから。だけど、いつか止まると考えると、少し寂しい。

 産まれて、自我を持って、気づいたときにはもう、ここにいた。

 両親なんて、わたしには最初から設定されてなかったみたいに、空白だった。

 だから「家族」という概念は、他人の物語の中の用語みたいで、理解しようとしてもできないのだ。


「おはよう、エリカ」


 紺野芒こんの すすき。この喫茶店のオーナーであり、尚且つ、わたしの“保護者”という役割を持つ人。

 だけど、彼女の存在もまた、現実とは少しズレて見える。

 退屈、不満、空虚。あるいは、そのどれでもない、似て非なる虚無。そんな言葉を連想させる、ぼんやりとした表情。感情の起伏が欠けた、曖昧なまなざし。

 怒らないし、笑わないし、褒めもしない。

 でも、その沈黙が、わたしには一番安心だった。

 お客さんも、一日数人しか来ないから、キャパなんて二人で事足りる。

 だからいつも、話している。ただ話している。何も生まれず、何も失わず、盛大に何も始まらない、そんな話。


「今日の調子はどう?」


「ご飯にしよっか?」


「今日のラジオはどの局にする?」


 みたいな。


 もしかすると、わたしと芒さんの会話だけが、ここで動いている世界なのかもしれない。

 そんな止まってしまったような時間の中で、わたしたちはただ、呼吸をしている。


「芒さん。変なこと、言っていい?」


「どうぞ」


「……ここの時計たち、優しい人に見えるの。

 ひとつひとつがちがう優しさを持っていて、

 だから全部、否定したくないんだよ」


「ふうん、面白いね。中学生らしからぬ」


 芒さんは、そう呟くだけで、深くは踏み込んでこない。

 それが、ありがたかった。


 「ここには、わたしの好きなものしか置いてないの。だから、嫌いなものはないよ。

 ……このヴェデットの時計、動かなくなってしまったけど、一番好き。……でも、すごく憎たらしくもあるんだ」


 芒さんはそう言って、カウンターの上にぽつんと置かれた、それを見た。

 ヴェデット。確か、フランスの老舗時計メーカーだったはず。ごく僅かなモデルは、ウェストミンスターのチャイムが設定されているらしく、この時計も、かつては教会の鐘が鳴っていたそうだ。

 だけど、時計は壊れて、もう救いの音は鳴らない。針はずっと、同じ時間を指したまま。きっと何年も前から、動いていない。


「なんで? 好きなのに、嫌いって思うの?」


「歪な形をしてるから。ただ、それだけ」


 淡々としたその声に、説明らしいものはなかった。

 でもわたしは、それがどこかすごく腑に落ちるような気がした。

 時計の文字盤には、放射線状に走る細かな模様が刻まれていた。

 角度によって光を反射して、たまに綺麗だなって思うこともある。

 だけどそれは、ずっと見ていると目がちかちかしてくるし、どうしようもなく複雑で、わたしにはきっと、ちゃんと理解できないものだった。

 わたしと同じで。芒さんにとって、「好き」と「嫌い」は、きっちり線引きできるものじゃないのかもしれない。

 どちらでもあるし、どちらでもない。

 曖昧で、ぐらぐらしていて、その日の気分で傾いてしまうような感情。


「なんだろう……今ふと思ったんだけど、芒さんって優しいよね」


 ヴェデットの針は、長い眠りに落ちたまま。

 それでも、わたしは壊れているその姿に、不思議と慰められる。

 動かないということは、どこにも行かないということ。

 進めないのに、見捨てられてはいないということ。

 ――まるで、わたしみたいだと思った。


 芒さんは「歪な形をしてるから」とだけ言った。

 その声音は、冷たさではなく、余白を残した淡さを帯びていた。

 嫌いでもいいし、好きでもいい。どちらにも振り切らない感情の曖昧さは、いつもわたしのなかでぐらぐらしているものだった。

 だからこそ、その曖昧さを肯定するように響いた芒さんの言葉は、胸の奥をふわりと撫でていった。


 カチカチと鳴り続ける時計たちの音は、ときどきわたしの神経を針で突くみたいに刺してくる。

 でも、止まったヴェデットの沈黙は、柔らかな布みたいにわたしを包んでくれる。

 音がなくても、存在は消えない。

 沈黙のなかにいるのに、孤独ではない。

 ――それは、芒さんと一緒にいるときの安心に、とてもよく似ていた。


「例えば、動かなくなった時計を、飾ったままにしておくことだよ」


 わたしは、少し迷いながら言葉を落とした。


「それって、怒らないことに似てる気がするの。

 欠けてても、ずれてても、そのまま置いておけるのって、すごく優しいことだと思う」


 言い終えてから、心臓が小さく震えた。

 本当は、時計の話をしているんじゃない。

 わたし自身のことを、遠回しに言ってしまったのだと気づいたから。


「きっとそれは弱いだけ。弱さは、決して優しさではないよ」


 でも芒さんは、ただ曖昧に笑って、それ以上は何も言わなかった。

 その沈黙が、わたしにはありがたかった。

 責められもしない。慰められもしない。

 ただ、止まった時計と同じように、そこに置かれているだけ。


 ――弱さかもしれない。きっと、わたしが欲しかったのは、そういう場所なのだ。

 動かなくても、壊れていても、誰も捨てないでくれる場所。弱さを弱さのまま、肯定してくれる場所。

 それが、この喫茶店であり、芒さんの沈黙だった。ヴェデットの沈黙を見ていると、胸の奥に重なったものが、少しずつ言葉になっていく。

 わたしは壊れている。動けない。針が進まないみたいに、気持ちが止まったまま。

 だけど、不思議と「捨てられない」ということに、救われている。

 誰かにとっては「使えないもの」かもしれない。

 けれど、ここに置かれている。

 それは、存在を認められていることと、どう違うのだろう。

 学校ではいつも、正解を求められた。

 答えられなかったときの空気、笑い声、沈黙。

 あの一瞬で、わたしは「要らないもの」になったみたいに思えてしまった。

 ――でも、ここでは違う。

 壊れていても、止まっていても、置かれているだけで許されている。

 その感覚は、わたしの皮膚に静かに沁み込んで、呼吸を楽にする。

 芒さんは、何も言わない。

 何も言わないから、わたしの中で波紋が広がっていく。

 もし彼女が「大丈夫」と言ったら、わたしはその言葉に縛られてしまう。

 本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫であらねばならなくなるから。

 でも彼女は沈黙を差し出す。

 沈黙は形がなくて、押しつけもなくて、ただの余白。

 わたしはその余白に、自分の弱さをこぼせる。


 ――わたしはきっと、「優しい人」が欲しいんじゃない。

 わたしを直そうとしない人。

 わたしを動かそうとしない人。

 ただ、壊れたままの姿を置いておいてくれる人。

 その存在に、甘えたい。

 時計の針が進むことはない。

 でも、秒針の音は他の時計たちが刻んでくれる。

 わたしはそれを聞きながら、時々、耳を塞ぐ。

 塞いでも、音は心臓の奥に響いてくる。

 ――ああ、生きているんだな、って。

 それが分かるのは、苦しくて、でも少しだけ安心でもあった。


 目を閉じると、暗闇に沈む。

 耳を塞ぐと、無音に沈む。

 そこには何もないけれど、何もないことが、わたしを生かしている。

 世界から切り離される瞬間にだけ、わたしは呼吸できる。

 そうして、また目を開けると、古時計の群れがそこにある。


 ――それでいいのかもしれない。

 壊れたまま、動かないまま、ただ存在している。

 それが、わたしの生き方でも、いいのかもしれない。


「わたしはね、人に怒れないの。……というよりも、人に怒っていいような人間じゃないんだよ」


 ふと、芒さんは、そう言った。

 目を伏せるでもなく、こちらを見つめるでもなく、まるで、自分に語りかけるような声音だった。


「じゃあ、わたしがワガママ言っても怒らない?」


「うん、努力はするよ。舌打ちしない程度にはね」


 その言葉に、わたしは少しだけ笑ってしまった。

 冗談とも本気ともつかない、あの芒さんの独特なテンポ。

 笑っているわけではなかったけど、口元がほんの少し、緩んでいた。


「……わたし、この街が嫌い」


 「嫌い」。わたしは優しさを捨てた。

 その一言を口にしたとき、芒さんは、やっぱりなにも変わらなかった。


「どうして、そう思ったの?」


「……冷たいの、全てが。うまく言えないけど、わたしはそれから逃げたいの。人に見られるのが怖くて、期待されるのがしんどくて。誰かに理解されたいわけでもないけど、無視されるのも嫌で。でも、ただただ、疲れたの」


 沈黙。

 長い沈黙。

 時計の音だけが、少しうるさくなった気がした。


「あなたは、どこへ行きたいの?」


「……なるべく、遠く。現実から距離を取れる場所。未来とか過去とか、そういうのが関係ない場所」


 わたしをわたしとして肯定してくれる場所があるのに、それでもわたしは逃げ場所を求めていた。

 息苦しい今日から、うるさい明日から、胸をキュウっと締め付ける昨日からただ、目を逸らしたいだけの今日を生きていくためだけに。


「あなたは――と似ているね」


 芒さんの声が、どこか懐かしく聞こえた。

 遠くの夢の中から聞こえてくるような響きだった。


「もしあなたが望むなら、ここへ行きなよ」


 北海道 咲友町 花結衣町八丁目一番

 店名:喫茶トワイライト


 渡された一枚の方眼紙。

 ずっしりと重たい、無機質な黒インクでそう書かれていたその紙は、手の中にあるのに、なんだか現実味がなかった。


「これ、どこ?」


「喫茶店。わたしの友達がやってるの」


「……芒さんは、行ったことがあるの?」


「うん。まあね。あそこはスクールみたいな場所だから。心優しい監獄、みたいな」


「それって、ただの……」


「違う。そこはディストピア、言わば理想郷だよ。悪口も束縛もない。みんな、どこかから逃げてきた人たちばかり。だから、何も責めない。何も期待しない」


 わたしは紙をじっと見つめた。

 住所と店名だけが並んでいる。

 ただそれだけなのに、まるで暗号のように見えた。

 そこに辿り着けば、何かが変わるのだろうか。

 それとも、何も変わらず、ただ新しい絶望が増えるだけなのだろうか。


 ――逃げたい。

 でも、逃げた先でまた「ここじゃない」と思ってしまう自分が怖い。

 今までだってそうだった。

 部屋に引きこもれば安心するはずなのに、窓の外の気配が気になって眠れなかった。

 学校に行けば人と繋がれるはずなのに、笑い声の中でますます孤独を噛みしめていた。

 どこに行っても、結局はわたしの中の「わたし」が追いかけてくる。

 そんなこと、分かっている。


 それでも――。


 紙に記された「喫茶トワイライト」という言葉が、妙に胸に引っかかる。

 トワイライト。

 昼でも夜でもない、曖昧な時間。

 光と影の間の、薄桃色と紺青の空模様。

 まるでわたしみたいだ、と思った。

 どこにも属せなくて、境界線に立ち尽くすわたし。


 ……行きたい。

 ほんの少し、そう思ってしまった。

 でもそれは、希望ではなくて。

 ただ、別の場所でなら、今の「止まったままのわたし」が少しだけ許されるかもしれない、という淡い期待。

 今はもう動かない、あのヴェデットのように。


 紙を折りたたむ音がやけに大きく響いた。

 時計の針が一斉にこちらを向いたような錯覚がして、思わず息を呑む。

 ――動けない。

 だけど、動けないままでも、世界は回っていく。

 だったら、わたしも少しくらい、動いてみてもいいのだろうか。それも、在り来りな回り方じゃない、それこそ天邪鬼な反時計回りのような。


 芒さんは何も言わない。

 ただ静かに、そこに在る。

 それが答えみたいに思えて、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 時計の音が、ひとつだけ高く鳴った。

 その音に、わたしはほんの少し、身体を起こした。

 まるで、水面にぽちゃんと落ちた雫みたい。

 透明で、小さくて、でも確かにそこにある変化。

 わたしの世界に、ほんのわずかな異物が混じり始めていた。

 それが、終わりなのか始まりなのかは、まだわからない。

 でも、時計たちは、変わらずカチカチと音を立てていた。

 ――まるで、現実じゃないような、冷たい現実の中で。



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