第294話・龍が目覚めた。
美濃稲葉山城 浅井長政
「帰蝶様には驚いたな。半兵衛」
「はい。真に驚きいりました」
尾張から引き上げた我らは、数日前に小牧山城で見聞した光景を思い起こしていた。
あれからもう三日経つ。
兼ねての打ち合わせ通り、長島に丹羽家より援軍依頼があり磯野が三千を率いて駆け付けた。信長殿に暴虐無人に扱われていた明智が遂に叛旗を表わしたのだ。これは前もって丹羽殿が察知されていた事だ。
その上に半兵衛の策により、美濃からも兵と共に出陣して小牧山城に向かった。
半兵衛は丹羽が明智を謀反人にして討ち、その戦いに紛れて信長殿と跡継ぎを亡き者にして尾張を手中にしようと狙っているという。事実、意味も無く信忠・信孝・信雄の信長様のお子らを従軍させている。
尾張を彼の者の思い通りにさせず、この際義弟である儂が取るべきだと言うのだ。確かに磯野が清洲を儂が小牧山を抑えれば、織田領は浅井家のものになる。労無くして広い領地が手に入るのだ。しかも大義名分もある。取って付けたものではあるがな。
さすがに軍師・半兵衛よ、見事な策だ。
ところが小牧山城の様子は予想とは大分違っていた。城兵は明智の息が掛かった者でその殆どを連れて出ているはずだが、実際はかなりの兵で固められていた・・・守備隊の指揮を取っているのは前田利家だ。
「浅井様、援軍忝のう御座いまする。城は今、帰蝶様の手勢で固められており申す」
「帰蝶様・・・」
前田殿の言葉を聞いた半兵衛の顔が青くなった。意表を突かれたのだ。
「帰蝶様の手勢・・・そのような者たちがおられたのか?」
「はい。実は某も昨日知り申した。この様な事に備えて奥美濃で養っていたとか・・・」
「なんと・・・」
「あっ、帰蝶様でござる」
我らの軍勢を見てか、戦支度の帰蝶様が颯爽と向かって来た。我らは郊外に三千を残して、二千の兵を連れて城まで来たのだ。
「これは長政殿で御座いますな。初めてお目に掛かります、帰蝶です。こたびは援軍、真に忝う御座ります。竹中殿も久方振りで御座います」
「浅井長政で御座る」
「お久しぶりで御座いまする。帰蝶様」
このお方が信長殿の御正室で、斉藤道三公の娘御か。
思わずひれ伏したくなるその凜々しさと気高さには圧倒されるものがあった。
「間も無く尾張を我が物としようとした禿げネズミが帰ってきます。その様子を天守でご一緒に見物致しましょう」
我らは帰蝶様の後に従って天守に向かった。
小牧山城の中には初めて入るが、実に見事な城だ。信長殿が大和山中の城を見て衝撃を受けて作ったらしい。帰蝶様は、すぐに並んで話を始めた。
それによる明智は帰蝶様と相談して事を起こしたようだ。
どうやら信長殿の状態(躁鬱)はかなり悪く周囲に悪害をもたらしていたと言う。そこで近衆を排除して隔離する計画だったとか。
それを背後で唆していた丹羽がこの機に乗じて尾張を乗っ取るだろうと予想した帰蝶様は、密かに養っていた兵を呼び込んで防備を固めていたとか。
小牧山城に我らの援軍要請は無かった。丹羽の兵は三千対して城兵は五百、簡単に落ちぬとはいえ少々劣勢だ。
「丹羽が来たならば、わたくしが門前で成敗致します。それに五百兵で固めたこの城はなかなか落ちませぬ。城攻めする丹羽勢は、南から来る池田の兵と挟み撃ちになります」
「・・・なるほど」
池田の兵か、無傷の二千を越える兵が来たのならば、丹羽も危うい。
例え丹羽の首を取れなかったとしても、次段の策が用意されている。それを聞いて半兵衛も首を振っている。
お手上げということだな。
かの道三公、帰蝶様が女である事を悔しがったと言う。信長殿の器量が足りぬならば尾張を取れと嫁に出したという話は聞いている。しかし嫁してより表に出ることも無く、全く噂にもならなかったのだ。信長公とはとっくに夫婦では無くなっていたらしい。十一歳になる御嫡男の信忠殿も信孝・信雄殿も帰蝶様の子では無いのだ。どうやら形だけの夫婦であったらしい。
それ故にすっかりその存在を忘れていた。
その麒麟児が突如、目の前に出現したのだ。傍で仕える家中の策士・丹羽秀吉でさえ意識していなかったのだから他国の者らなど、稀に見る軍師の半兵衛であっても全くの想像外の出来事だったろう。
尾張那古野城 武田信玄
「なんと織田家が潰えたか・・・」
「はい。織田信長に謀反を起こした明智光秀を踊らしていたのが丹羽秀吉で、見事に両名を亡き者にしましたが、あと一歩というところで信長正室帰蝶により水泡に喫しまして御座る」
「丹羽もなかなかの策士であったが、さいごの最後でか・・・帰蝶殿とは斉藤道三公の娘であったな」
「はい。もし男であったならと道三公が惜しがった程の器量の娘で御座る」
「そのような姫ならば、尾張の防備には抜かり無いか?」
「ありませぬ。明智秀満をはじめ屈強な美濃勢や丹羽と袂を分けた旧織田勢が集りつつあり申す。敢えて例えるならば、尾張で寝ていた龍が目覚めた様な・・・」
「龍が目覚めたか・・・隣国武田としては難儀だな」
「左様で御座いまする」
「ところで水軍の方で動きがあった様だな」
「はっ。津島衆の殆どは織田と浅井方に付き難儀しておりましたが、伊勢志摩の船頭周衆・小浜・千賀・越賀・青山らが靡きました」
「待て。伊勢志摩衆は北畠の麾下だ。そこを離れるにあたって騒動は起こらぬのか?」
「無論、騒動は起こりましょう。しかし殿、志摩衆には船頭だけで無く船大工も居りまする。彼等は武田水軍を作るには欠かせませぬぞ。今のままでは水軍の大船を作る船大工はいませぬ」
「うむ。それは重々分かっておるが、北畠は山中と親密だ。出来るだけ騒動は起こすな」
「殿、紀伊・大和・近江を領する山中は大国で御座るが、武田は甲斐・信濃・駿府に尾張を得て決して山中国に引けを取りませぬ。何をそう躊躇いなさいますか?」
馬場信春は信玄の山中国に対する尋常では無い恐れが理解出来なかった。武田家も尾張まで領地が増えたならば、次は畿内に侵攻するのが当然だとも思っていた。
武田家は侵略することで成り立つ家である。
一方信玄も、紀伊湊の店から再三進言してくる「決して山中国と敵対してはなりませぬ」という言葉を重要視しているも、実際の山中国の力を正確に把握しているわけでは無い。大国の近江・紀伊・大和を領して武田家の数倍の石高があるのは理解しているが、実際にその力を目にした訳では無いのだ。
「分かった。だが出来るだけ穏便に処理するのだぞ」
「はっ。お任せを」
桑名羽津城 山中勇三郎
「信長正室の美濃の姫・帰蝶か、生きておったか・・・」
「生きてはおりましたが、全く蚊帳の外の人物で特に注目しておりませんでした」
尾張に動きありと知りここ桑名に来ていた。
密かに丹羽が動き、それに呼応した様に浅井が兵を集めていた。尾張の動乱に浅井が付け込む。そうなると武田も動くだろう。それを俺は見に来たのだ。まあ高みの見物だ。
動乱は小牧山の東で起こった。明智が兵を動かして信長が死んだ。それを待ち構えて居た丹羽隊が撃破した。明智光秀が死に信長の子供らも討たれた。これで尾張は丹羽秀吉のものだ。
だが、南下した浅井軍によって小牧山城は固められた。これで尾張は浅井家のものになると思った。浅井の見事な動きは、軍師・竹中半兵衛の策だろう。
しかし小牧山城を抑えたのは、正室・帰蝶だった。帰蝶は凱旋してきた丹羽秀吉の所業を暴き、大勢の兵の面前で成敗したのだ。
これには誰もが驚いた様だ。俺も驚いた、展開が速くてついていけない。二日ほどの内に、織田信長・織田信忠・信孝・信雄、明智光秀に丹羽秀吉が死んだ。これより世を賑わすであろう者達が消えたのだ。
結果、浅井長政・竹中半兵衛は尾張を諦め、丹羽の残党は降伏、尾張は帰蝶のものになった。
この美濃の姫のことは認識していなかった。まさに想定外、寝耳に水だ。さすがの武田信玄もピクリとも動けなかった様だ。
逆に言えば恐るべき人物の出現といえる。
「保豊、帰蝶の情報はあるか?」
「はっ。故斉藤道三公の娘であり、母は明智一族、明智光秀は従兄弟にあたり幼小からの知り合いと。将としての器量は、道三公が女である事を嘆いた程とか。織田家に嫁すときに『信長の器量が不足ならば、婿殿を刺し殺して国を盗れ』と孫六兼元の短刀を与えたと」
「・・・孫六兼元か、秀吉を差したのはその短刀だな。国盗りの短刀か、怖いな・・・」
「はっ。怖う御座ります」
「武芸の腕は男勝りで兵の指揮も巧み、実際に兵を率いて戦陣に出たこともあると。信長とは嫁してすぐに疎遠になったとも、夫婦とは形だけでその交わりは無かったとも噂されて御座る」
「ふむ、疎遠になっても正室のままか、形を重んじる信長という男らしいな。帰蝶の歳は?」
「天文四年(1535)生まれ、三十二歳だと聞いて御座る」
「三十二歳か・・・百合葉と同じ歳か。・男勝りと・兵の指揮・戦陣とか聞いたような言葉だな・・・」
「たしかに何処かで聞いたような・・・周囲では『龍が目覚めた』という評判で」
「龍か、尾張にも龍がいたか・・・」
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