第176話・観音寺崩れ。


永禄六年十月一日 北勢奉行所 千種三郎左衛門


今日の勤めは終わった。

穏やかな秋晴れの一日だった。高く澄んだ空に薄い雲が流れている。


多くの物や人が絶え間なく動く北勢は、以前とは比べると遥かに豊かになった。それだけに北勢の全ての事を差配する奉行所勤めは忙しい、だが生活が安定して余裕があるせいか、その忙しさの中にもしっかりとした充足感がある。

こうやって空を眺めながら次に来る季節を想って和んでいられる



「馬が来ます!!」


 一日の勤めを終え仕舞をしようとしている役所に、今にも倒れそうな程くたびれた人馬が飛び込んで来た。その様子から長い距離を必死で駆けてきたのだろうと考えると、奈落の底に沈むような暗い予感に襲われた。


 案の定、乗っている兵の顔に見覚えがあった。近江の後藤本家の者だ。実家にとんでもない事が起こったのだと覚悟した。


「どうしたのだ。後藤に何があった? 」


「三郎左衛門様、と・・・殿がお手討ちに・」

「手討ちだと? まさか…」


「本日、義治様に呼び出されて登城したところ、豊治様共々にご成敗されました・・・」

「何だと、豊治まで・・・」


 義治様は、いや義治めは、兄上父子を討とうと刺客を伏せておいて呼び出したのだ。それを知った後藤の重臣らは、観音寺城の後藤丸に火を掛けて羽田の館に撤退したという。

つまり実家の後藤家は、当主親子を殺されて守護六角家に対する叛意を明らかにしたのだ。今は羽田の後藤館で兵を集め六角の襲撃に備えているだろうと言う。


 六角家中が不穏な話は聞いていた。いずれ一騒動あるだろうとは予測をしていたが、後藤家が、六角家臣筆頭の兄上が、まさかこんな事態になるとは……


ここはすぐにでも救援の兵を送らねば後藤家は跡形も無く滅ぼされるのは間違い無い。懐かしい羽田の庄、我が故郷が、実家が消え去るのだ。

かといって、山中家の一家臣である某が、兵を動かす力も無い某に何が出来るだろう…


 いや、そうでは無い。


山中の殿には後藤家と繋ぎを絶やすなと言われていた。つまり後藤家の存在を評価されているのだ。ならば有市差配に後藤家を保護して貰うように願おう。


山中家はきっと動いてくれる筈だ。


「よく知らせてくれた、まずは体を休めるが良い。こちらから後藤家救援の兵を出して貰おう。誰か、この者に水を。それに馬だ、すぐに差配にお会いする!」


 有市殿は数日前に兵を伴ってこちら駐屯地に来ておられるのだ。有市殿だけでは無い、ここ数日、山中隊がかなり動いているのを感じていた。一つ一つは大軍では無いが、小規模の隊の移動が頻発していた。それが昼も夜も続いていたのだ。おそらく総数はかなりの数になるだろうが、民も我らも素知らぬ顔で過していた。山中家から通達が無い以上はそうするのが当然なのだ。


つまり山中家は、某以上に六角の動きを懸念して行動していたのだ。そしてそれが実際に起きた・・・


 縁に座り込んだ兵に水が与えられて、馬が引かれてきた。それに乗ろうとした時、再び早馬が駆け込んで来た。今後は山中隊の連絡兵だ。


「千種殿、横瀬隊長の伝言です。今より近江に出陣する。後藤家の救援に向かう故に、千種殿も同道願いたし。戦支度は無用でそのまま急ぎお出で下されと」

「…なんと」


 早い!! 


今、某が知ったばかりというのに、山中隊はもう準備を整えて出陣しようというのだ。その情報の早さに驚嘆だが、すぐに後藤家を救援に向かえるのだ!


「承知した、すぐに参る!」




 千種街道の所々に松明を持った村人が間隔を置いて立ち、山道を照らしてくれていた。皆、山中家のお蔭で職を得て住み着いた村人たちだ。屈強な山中の兵が巡回しているためにそれまで多かった賊の姿も殆ど無くなり、広大な鈴鹿の山々とその裾野の村々がこの数年のうちに山中家と親しい誼を通じていた。


 夜のうちに近江領・高津畑村に出て観音寺城に向かって陣を敷いた。兵は梅戸城の横瀬殿の率いる三百だったが、夜明けに有市殿が率いる一千が合流して、一千三百兵となっていた。


「有市殿、兵を出してくれたこと、真に感謝致す」


「千種殿、後藤賢豊殿父子は討たれましたが、次男・高治殿は無事で後藤家は纏っておりますぞ。それに六角家中でも多くの者が後藤家に習って叛旗を揚げているようです」


「それは不幸中の幸いでござる。殿は、山中の殿は後藤家を引き受けて頂けるのですな?」

「後藤家がそれを望めば問題はあるまい。千種殿、まずは先行して後藤館を確保して欲しいのだが」


「願っても無いこと、後藤は我が生家です。今すぐに参りますぞ」


「では横瀬、三百を連れて千種殿と後藤館に行ってくれ。任務は後藤家を守ることだ。無論、攻撃に対しては反撃せよ。だが誰が敵で誰が味方かを見分ける事が先だ、深追いはするな」

「承知!」


「千種殿、筆頭重臣の後藤殿を手打ちにするようでは、もはや六角家は終わりです。ですが大将は近江が荒れることを懸念しております。近江は日の本にとって重要な地、近江が乱れると畿内に大乱が起きる。そこで大将は近江を鎮圧するとお覚悟なされた。南近江は山中国となる。そのおつもりで事に当たって下され」


「…承知致した」


 切り取りでは無く鎮圧か、これが殿の方針だ。


うむ、こういうところの山中家は怖いな。殿の決めた方針を家臣の誰もが一丸となって当たる。俄に信じられない様な方針にも何の迷いも疑いも持たないのだ。必ずそうなると信じ切っている。

こういう迷いの無い軍は強い。武器も練度も飛び抜けている山中隊の本当の強さはこういう事であろう。



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