第8話 教師ネイト

 フルールが馬車に揺られてやってきたのは、先日卒業したばかりのクワント王国学園だった。

 正門を抜け、建物のある区画まで馬車を走らせる。学園の敷地は広大で、数カ所の運動場に農園に公園、生活用品店や飲食店の並ぶ様子は、一つの街のようだ。

 今は季節シーズン休暇の時期だが、寮に残っている学生も多いのでほとんどの施設が開放されている。

 フルールは赤煉瓦の建物前で馬車を停めた。エリックに適当に時間を潰すよう言いつけ、中に入る。

 直射日光が当たらないよう窓の角度を調整したその建物は、学園図書館。王立図書館と引けを取らない蔵書数を誇るそこは、荘厳で静かで、学生時代のフルールのお気に入りスポットだった。

 学園の施設は、卒業生ならいつでも使用できる決まりだ。入館表に名前を書いて、目当てのフロアに向かう。

 棚から抜き出した数冊の本は、形容詞や類語、文法の辞典だ。読書スペースの一角に陣取り、辞典とノートを開いて気になる語句を書き留めていく。

 なんだか期末考査前の勉強みたいね、とフルールはちょっと楽しくなる。

 学生時代が終わってしまったなんて、まだ信じられない。自分の中身は変わっていないのに、時間ばかり過ぎて置いていかれた気分になってしまう……。

 じっと机にかじりついてペンを動かすフルールの頭上に、


「おや」


 と聞き知った声が響いた。


「こんにちは、フルールさん。卒業後にも会えるなんて奇遇ですね」


 振り返るとそこには、本を片手に一人の男性が立っていた。


「ミュラー先生」


 ネイト・ミュラー、たしか二十八歳。在学中のフルールのクラス担任で、詩文学の教師だ。目を覆うほどの厚く長い前髪と眼鏡で表情は見えにくいが、清潔感があり物腰の優しい青年だ。

 彼はいつものかっちりとした教官服ではなくラフな私服姿で、なんだか新鮮だ。

 そして、その感想はネイトも同じようで、はにかんで頭を掻いた。


「制服を着ていないと、不思議と大人っぽく見えますね」


「まあ」


 フルールはコロコロ笑う。


「わたくしも、ミュラー先生の私服姿を初めて見ましたわ」


「今は季節休みで授業がありませんから」


 この教師は学生に対しても敬語で話す。偉ぶることろがなく、常に穏やかな彼をフルールは尊敬していた。


「先生は、どうしてこちらに?」


「休暇中は暇なので本でも読もうかと」


 彼は手にした小説の拍子を見せた。地方出身のネイトは職員寮住まいで、滅多に実家に戻らないそうだ。


「フルールさんは? 卒業後もお勉強ですか?」


「ええ、まあ……」


 ノートを覗き込まれて、さり気なく手を広げて文面を隠す。……恋文の返信用の文面を探してたなんて知られるのは、さすがに恥ずかしい。


「フルールさんは勉強熱心ですね。私の授業も真摯に受けてくれていました」


「それは、先生の授業が面白かったからですわ」


 掛け値なしにそう思う。

 詩は貴族の嗜みなので、学園では詩文学の授業に力を入れていた。ネイトは単に詩の書き方を教えるだけでなく、著名な詩人の人物像や時代背景を丁寧に読み解き、言葉の意味の奥深さを教えてくれた。

 しかし、教師は苦笑して、


「そうですか? 貴女以外の大半の生徒が居眠りしていましたが」


「それは、先生のお声が心地好すぎるからですわ」


 フルールも笑顔を返す。

 実際、ネイトの柔らかく澄んだ声は人々を魅了し、抑揚をつけて情感たっぷりに叙事詩を呼んだ時にはクラス中がスタンディングオベーションだった。そして美しすぎるその声は、時にヒーリングミュージックのように聴く者を眠りに誘うこともある。


「フルールさんは本当に気遣い上手ですね」


 優しい口調で言ってから、ネイトは腰を折り、座っている彼女に顔を近づけた。


「勉強、なにか解らないところがあったら見ましょうか?」


 耳元で囁かれると、ぞくぞくっと甘い痺れが背骨を駆け上る。それくらい、彼の声は官能的だ。


「いえ……、ちょっと調べ物をしているだけで。もう生徒ではないのに先生のお手を煩わすわけには参りませんわ」


「そうですね」


 ドギマギと視線を逸らすフルールの指先に、教師は自分のそれを重ねた。


「もう教師と生徒じゃない」


 ドキンっと心臓が跳ねる。


「これからは、いつどこで会っても、誰にも咎められない関係です」


 すでに婚約破棄の噂は届いているようだ。


「みゅ、ミュラー先生……」


「ネイトと呼んで。フルール」


 とろけるような甘い声が耳に注がれる。


「ネ……ネイトさ、ま……」


 長い前髪と眼鏡に隠れた切れ長の瞳が妖しく覗く。ネイトは満足気に目を細めると、硬直するフルールから手を離した。


「今日はこのくらいで。焦らずいきましょう」


 教師は一歩下がると、てらいもなく踵を返した。そして振り向きもせず、


「今度、私もフルールに手紙を出します。蜂蜜漬けのサクランボみたいな言葉をたっぷり詰めて」


「……っ!」


 今日の図書館訪問の目的もバレていたようだ。


「あうぅ……」


 ぼふっと頭から湯気を吹き出させ、フルールは机に突っ伏した。

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