第一章
第1話 筋トレ、後に異世界
――誰か今の状況を説明してくれ!
そう叫びたくなる衝動を必死に抑えこみ、両の足を動かす。
走って
走って
走って
――走る。
どれだけ走っただろうか。
息は絶え絶え。
膝はガクガク。
おまけに目の前の景色までかすんで見えてきた。
限界。
俺の体はとっくにソレを超えていた。
そりゃあそうだ。こちとら自慢じゃないが引きこもり。多少力に自信はあるが、心肺機能に関しちゃそこいらの小学生にだって負けかねない。引きこもり舐めんなよ。
「ギャッギャッギャ!」
自身の頼りない心肺機能を嘆いている俺の耳に入る耳障りな音。あえて声ではなく音と表現した方がしっくりくるような不快音。
その音に反応して振り返ると――ヤツがいる。
ちくしょう!
さっきまで俺は確かに自室にいたはずだろ!? いつものようにトレーニングメニューをこなしていたはずだ。
だのに!
どうして!
今!
俺は醜悪な緑色の小人に追われながら森の中を走ってるんだ!
「ギャッギャッギャ!」
必死に逃げ回る俺をあざ笑うかのような声をあげ、追い回してくる化け物。
手に持ったこん棒で何をする気なのかと問うまでもない。
捕まったら殺される。
漠然と、しかし確実な事象が俺の頭を埋め尽くす。
☆
「はぁ……はぁ……」
心地よい疲労感を感じながら右手にはめた時計を二、三度いじる。
ピッ!
その操作に答え、腕時計が小気味の良い音を立てながら秒数をカウントし始めた。
時間は……二分くらいにしておこうか。
パンプ(筋肉の膨らみ)が冷めないかつ筋肉の疲労が抜けるであろう絶妙な時間。人や部位によってその時間は異なるが、今日の俺の体調から鑑みるにこれがベストだろう。
俺はそう結論付け、二分間。
しっかりと呼吸を整えて上質な休憩を確保する。
――筋トレ。
それは引きこもりの俺にとって唯一の生きがいといっても過言ではない。
同年代の人間が学業に精を出す最中、俺は筋トレのみに己の心血を注いだ。
切っ掛けは些細なものだった。たまたま動画サイトに投稿されていた筋トレ動画が目に入り、何の気なしにその動画の真似を始めた。
初めは遊びのような感覚だった。
それが気づけば日課になり。
いつしか筋トレは俺の生活に欠かせないものになっていた。
自分に特別筋トレの才能があったわけじゃあない。平均的な身長に平均的な体重。食べる量だって世間一般の男子諸君と大きな変わりは無かった。
しかし。
生まれてこの方、ここまで夢中になれたものは他に無い。どんなゲームや遊びよりも面白く、そして奥が深い。毎日の自分の努力が日を追うごとに如実に表れる様なんて、まるで自分自身が育成ゲームの主人公になったかのような気分に浸れる。
……まあ、これは勉学に勤しむ人間でも同じような快感を得られるんだろうが、しかし俺にその快感をもたらしてくれたのは勉学ではなく筋トレだったわけで――
いつしか筋トレに取りつかれた俺は、いつの間にか自室に引きこもり日夜筋トレに励む引きこもりトレーニーになってしまっていた。
そんな自分を百パーセント肯定できるかといえば言葉に詰まる。同い年の奴らが学校に通い学業の教科書を開いている時、俺は筋肉に関する専門書を開いている。あいつらが人生の設計図を描いている時、俺は一人自室に籠って自分のやりたいことだけに熱中している。
比較したときにどちらが賢いかなど、ほかの誰でもない俺自身が一番理解しているつもりだ。
当然。
両親はそんな俺のことを心配するものだと思ったが――
「夢中になれるものがあるなら今のうちに全力でそれに取り組め」
とは父さんの談である。
息子が引きこもりになったのにここまで気持ちの良い父親というものが果たしてどれくらいこの世界にいるのだろうか。ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちがせめぎあっているが、将来はあの二人に楽をさせてあげると俺は自身の筋肉に誓った。
「……ふぅ」
予定していた休憩時間が終わり、俺はベンチ台に寝そべる。
最終セット、気合を入れてかかるとするか。
俺はいつもの要領で肩甲骨を寄せ(肩甲骨を立たせるイメージ)、肩を下げる。胸を張るというよりかは、自然と胸が張られる姿勢になり、腰が少し中に浮く。足はキッチリと床を捉え、踏ん張りをきかせられるようにする。
その姿勢を維持しながら呼吸を整え――
「ふっ!」
一気にバーベルをラックアップ(挙上)。
瞬間。
百二十kgという重りが俺の体にのしかかる。
「……ふぅ……ふぅ」
慣れ親しんだ重さとはいえ、簡単に持ち上げられるわけではない。
再度呼吸を整える。
「……ふぅー」
そして。
「――ッ!」
バーベルの挙上運動を開始する。
一、二、三、とゆっくりながらきちんとしたリズムを意識。
順調だ。四セット目にしてはいつもよりバーベルが軽く感じられる。
……四。
……五。
……六。
その数をカウントした瞬間、急に腕を上げるのがきつくなる。だがいつものことだ。
平常心……平常心……。
……なーな。
……はちぃ。
……きゅ、きゅー。
なんとか九回目を挙げきる。
普段ならここで潰れるはずなのだが、今日の俺は調子がいいらしい。
いつもなら潰される負荷に耐えていられる。
これだ。こういう小さな成長が俺をまた筋トレの沼へと引きずりこむんだ。
「ふっ……ふっ……ふっ……ふぅ……」
集中。
集中。
集中。
――!!
……じゅ、じゅ、じゅぅぅぅぅぅううう!
ガクガクと腕が震える。
何とか挙げようと力を込めるが、どうしてもあるところで動きが止まる。
普段ならそれでやめだ。
筋トレで重要なのはいかに怪我をせずに重量を扱うか。これ以上無理に挙げようとすれば肩や腕を痛める可能性がある。だから普段ならここでおしまい。
普段なら。
……挙げる。
挙げる! 挙げる! 挙げる!
――挙げる!
自分でも不思議なほど、今日の俺は限界を超えることに固執していた。
いつもならありえない行動。
だが、時にはそれは自身の限界を打ち破ることに繋がる。
そして。
――!
「っしゃあ!」
ここ最近停滞していたベンチプレスの記録を破ったうれしさで、俺はつい歓喜の声をあげる。小さな、そして大きな進歩に、またひとつ筋トレを好きになってしまった。
しかし今日のトレーニングはまだ終わっていない。これをラックに戻したら次はダンベルフライだ。
と、持ち挙げたバーベルをラックに戻そうとしたその時。
全身の力が抜けていくのを感じた。
貧血?
まずい。
そう思う暇すらなく、俺の意識はこの世から絶たれていた。
☆
「――ッ!!」
……。
…………。
………………。
?
ん? あれ。ここはどこ? わたしは――拳次。
……何で横になってるんだ? それに、外? 外で眠ったのか、俺?
頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされるが、とりあえず付着した土をはらいながら地面に倒れている体を起こす。起こして、辺りを見やる。状況把握、というよりかは無意識化での行動に近い。寝起きでそこまで頭の回る人間じゃあないんだ、俺は。
そんな寝ぼけ眼の俺の目に入るのは植物や木、そこに成っていた果実や花たち。
一瞬の沈黙の後、答えが浮かぶ。
……森だよな、うん。
森だ。森。森以外のなにものでもない。
………………。
終わり。
じゃなくて。なんで森にいるんだ?
……さっきまで何してたっけ。
未だにぼんやりとする頭を何とか回転させ、記憶を遡る。
たしか今日は胸の日だったはずだ。で、ベンチプレスをやってて、いつもより調子が良いからと限界に挑戦した。うん。確か挙がった。そこまでは覚えてる。ただ、挙げた瞬間からの記憶が一切ない。綺麗さっぱりこれっぽっちも。状況から考えるに失神? いやでもスクワットみたいな下半身のトレーニングで失神するっていうのは聞いたことあるけどベンチプレス、それもMAXの更新をしたわけじゃないのに失神するか?
……まあいい。よくはないけど。とりあえずそういうことにしておこう。
しかしそうするとこれはあれか。
――夢なのか?
俺はもう一度辺りを見回す。
風に揺れる木々。
花にとまる虫。
鼻腔を刺激する植物の匂い。
それらが主張する。
これは夢なんかじゃない。
じゃあなんだ。
夢じゃないとするならどうして俺はこんな森の中に一人ポツンと佇んでいるんだ。
……わからん。まったくもって理解が追い付かない。
いよいよもって手詰まり。
そう思った瞬間。
ガサガサ。
と近場の草が揺れた。
突然の物音に驚いた俺は体をこわばらせながら音がした方へと首を向ける。
何かが草を動かした。
何が?
この森に住む生物だろうか。
いったいどんな生物が?
わからない。
もしかしたらこの近くの住人の可能性だってあるが――たしか熊が出てきたら目を合わせながらゆっくりと後ずさればいいんだよな。
なんて、最悪の事態も想定しながら物音の主を待つ。
一秒、二秒、三秒。
嫌な緊張感が辺りを包む。手に、足に、額に鼻に。全身から噴き出す汗は疲労からくるものではないことは明らかだ。
………………………………。
しかしいくら待ってもそこから何かが出てくることは無い。
何もいない?
気のせいだった?
自身の勘違いに安堵すると同時に――
「ギャッギャッギャ!」
――そいつは現れた。
緑色の化け物。そうとしか形容できない醜い小人。
アゴが尖り、耳が尖り、目が尖り。
衣類なんて身にまとわず、持つのは身の丈ほどの大きなこん棒。
舌なめずりをした際に見えた紫色の長い舌ベロと大きな犬歯は見るだけで嫌悪感を叩き込まれる。
どんな生物が出てきても冷静に対処しようと心がけていたが、これはあまりに――
「ギャ?」
まるで獲物を観察するかのような視線を送ってくる化け物。じっくりと嘗め回すようないやらしい視線が俺を捉える。
「ギャッギャッギャ!」
しばらくこちらを見ていたと思ったら化け物が嬉しそうに声をあげた。俺が脅威でないと判断したのだろうか。化け物はニタニタと下卑た笑みを浮かべながらこちらににじ寄ってくる。
恐怖。焦燥。緊張。
言葉にできない感情が俺の中を駆け回る。
逃げなきゃ!
俺は一目散にその場を離れた。
無理無理無理。
何だよあいつ。
人か? 人の訳がねえ。
緑だったぞ? 緑色の人間なんているはずがねえだろ。
「……はぁ……はぁ……はぁ」
もう五十メートルは離したか?
それでも頼りない。
体力が続く限り走って走って走りぬいてやる。
何が何でも絶対に逃げ切る。
そんな決意のもと走り続け数分が経過した。
確実にあの化け物の視界からは逃れたはずだ。
そう思い息を切らしながら後ろを振り返る。
だが。
化け物との距離は広がるどころかむしろ縮まっていた。
走っているのだ。
ヤツも。
なんで追ってくるんだよ!
俺が何をしたよ。
てめえの
それなら謝る。
だからこれ以上追いかけてこないでくれ!
しかし。
悲しいかな。
化け物はそんな俺の気持ちなど露知らず。
まるで狩りを楽しむかのように気色の悪い笑顔でこちらに接近してくる。
何だよ。何なんだよこの状況は!
俺はさっきまで確かに自室にいた。トレーニングに励んでいた。
そりゃあ俺は立派な人間じゃあないし、褒められるようなことだってここ数年した覚えがない。
だからって!
俺がこんな目に合わなきゃいけねえ道理があるってのか?
「ギャッギャッギャ!」
ぶんぶんと振り回されるこん棒を見て、それをどう使うかなんて問いをするような頭の抜けたことを言うつもりはない。
殺す気だ。
あいつは俺のことを獲物としていたぶった後に快楽的に殺す気だ。
……死にたくない。
俺はまだ両親に何の恩返しも果たしてない。
こんなところで死ねない。
死ぬわけには――いかない。
俺は動かしていた足を止める。
それはもうこれ以上動けないということの表れでもあった。
化け物はそんな俺を見てその醜い顔をさらに醜悪に歪める。
俺が諦めたと思ったのだろうか。
どこまでも自分上位のクソッタレな考えだ。
追い詰めたとばかりにゆっくりと近づいてくる化け物。
怖い。
そりゃあ怖いさ。
未知の化け物に追いかけ回されて殺されかけている。
この状況が怖くないわけないだろう。
でも。
やらなきゃ。
やらなきゃやられる。
やらなきゃ……!
「――来いよクソ野郎!」
俺は生まれて初めてのファイティングポーズで化け物を迎え撃った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
本日二話同時投稿です。
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