第六十二夜 待てよ

 R市にある国道の、長い横断歩道にまつわるこんな怪談がある。

 その横断歩道は全長十二メートルほどあり、歩行者用の信号は一分ほどで切り替わってしまう。その短さの割に中央には歩行者が足を止めるための交通島がないため、お年寄りや子供が安全に渡るには少し先の歩道橋を利用することが勧められている。

 その地域に住むBさんは深夜コンビニのアルバイトから帰宅している途中、急な腹痛に襲われた。しかし、今からコンビニに引き返すよりも、この先の自宅まで走ったほうが早い。Bさんは焦る気持ちを抑えながら暗い夜道を走りだした。事情が事情なだけに、普段使っている道を通らずに最短距離で帰れる道を選ぶ。あまり見慣れない景色が続くが、この方がずっと早く家に着く。

 するとその横断歩道に差し掛かった。時間帯が深夜であるせいか、国道には車通りは少ない。信号は赤色に点灯しているが、様子を見て一気に駆け抜けてしまおう。そう考えて、Bさんは車が来ていないことを確認し、横断歩道を渡りだした。

「待てよ」

 真ん中あたりまで行ったところで背後から男の声でそう呼び止められた。しまった、他に誰かいたのか。もしこれが警察だったらまずい……そう思いながら振り返ってみたが、そこには誰もいない。

「あれ?」

 しかし、Bさんはあるものを発見した。横断歩道の脇にある電柱に、小さな花瓶に花が生けられている。まだ新しい。きっと最近事故で亡くなった人がいるのだろう。まさか、さっきの声の主は……?

 その瞬間、白い強烈な光が目の前に広がった。何も見えない。耳障りなほどにタイヤが激しく擦れる音がする。Bさんはその時、何も考えることが出来ず、ただひたすら感覚だけが身体に残されているような状態だった。

「なにやってんだ! 危ねえぞ!」

 眼前で停止したトラックの運転席からドライバーが顔を出して怒鳴る。その声でようやくBさんは我に返ることができた。今置かれている状況を飲みこみ、頭を下げながら赤信号の横断歩道を足早に渡り切った。ドライバーはそのあとも怒鳴り散らしていたが、その後再び走り出した。

 Bさんはしばらく呆然として、その走り去っていくトラックのテールランプを眺めていた。横断歩道の信号はいまようやく青になった。電柱にもたれる一輪の花が風に揺れる。

 待てよ。その声で危うく事故に遭いそうだった。きっと軽い傷では済まなかっただろう冷静になるにつれて徐々に恐怖が迫ってくる。衝撃的な出来事に腹痛のことなんて全く感じなくなっていた。

 すると、数十メートル先を行っていたトラックが急に停車した。運転席のドアが開き、さきほどのドライバーが降りてこちらへ戻ってくる。文句が言い足りなかったのだろうか、Bさんに向かって一直線で向かってくる。

「いったい何の用だ? 赤信号でぼうっと突っ立ってるお前が悪いんだろ?」

 ドライバーはそう言ってBさんに詰め寄った。しかし、話が見えてこない。Bさんは誤解を解きほどこうと冷静に話をするように持ち掛けた。

「だから、さっきからお前がずっと『待てよ』『待てよ』ってうるさいんだよ。こっちは仕事があんの。納品が遅れたらどう責任取るつもりなんだよ」

「ちょっと待ってください。僕、そんなこと言ってませんよ。だってほら、トラックまでこんなに距離が離れているのにどうやって僕の声があそこまで届くんです?」

「はあ? でも確かに聞こえたぞ」

「『待てよ』ですか?」

「ああ」

「実は僕もさっき……」

 深い夜に静寂が訪れた。青信号は何度目かの明滅を繰り返している。得体の知れない空気が辺りを重苦しく充満している中、電柱の花だけが楽しそうに揺れていた。

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