第十七夜 怪談になった男

 Yさんは深夜に散歩するのが日課になっていた。真夏のうだるような蒸し暑さが肌をじめりと濡らす。当時職場でのストレスが原因で自律神経を侵されていたYさんは休職している間に、少しでも身体を動かしたいと思っていた。しかし、日中に往来に出るのが億劫だったため、誰もいない比較的気温の下がった夜に散歩することにしていた。

 Tシャツと動きやすいハーフパンツに着替えて玄関を出ると、街は死んだように沈黙している。虫の声さえない。足音ひとつが遠くまで響いてしまうような気がして、Yさんはそろりとつま先に力を入れて歩き出す。風が少しある。今日は少し遠くまで行ってみようか。

 いつもの散歩コースを脱線して、河原沿いを歩いてみることに決めた。沢のせせらぎは心を穏やかにする効果があると聞いたことがある。Yさんは小さなペンライトを光らせて河原の土手道に向かっていると、向こうから光がちらつくのが見えた。規則性のある揺れ方だ。それは歩み寄るにつれてどんどん大きくなっていくようだ。携帯電話の時刻を見ると、深夜三時前。今まで誰ともすれ違わなかったため、Yさんは背筋がひんやりするのを感じた。

 光が近づく。光源は正面に、下に、正面に……という具合に照射されている。

 こつ、こつ、こつ。

 足音がする。Yさんが目を凝らして光のちらつく方を見ると、それは紛れもなく懐中電灯だった。ひとりの若い男が散歩しているようだった。

「なんだ、自分と同じく散歩しているのか」

 なんだか一瞬ぎょっとした自分が恥ずかしくなった。――そんなもの、いるわけがない。

 Yさんが軽く会釈してすれ違おうとするとその若い男はつぶやいた。

「なんだ、自分と同じく散歩か」

 驚いて振り返ると男は残念そうな顔をしていた。男は急に話しかけて驚かせてしまったことに負い目を感じたのか、矢継ぎ早に話し出した。

「ああ、急にすみません。実は僕幽霊がどうしても見たくてですね、なんとか怪奇現象というかそういうものに出くわしたくてこうして夜中に出歩いたりしているんですが、さっぱり成果がなくって。そうしたら今夜は向こうから怪しげな光が向こうから見えるもんですから、これはもしやと思って期待したんですが……あはは、普通の人だったので少し拍子抜けしてしまいました。すみません。一応聞くんですけど、幽霊じゃありませんよね?」

「違いますけど」

「あはは、ですよね。ではお気をつけて。夜道は危ないので」

 変わった男である。見たところ真面目そうな顔をしているが、発想が少年のようで聞いているこちらがぽかんとしてしまうほどだ。しかし、悪い人ではないんだろうなと思う。Yさんは懐中電灯の光を揺らしながら彼が遠ざかっていくのをしばらく眺めていた。


 翌日の深夜も、Yさんは散歩に出かけた。天気も良く、月明かりがあるからペンライトがなくとも辺りは陰影を強く残して形ははっきりと視認できる。

 今日もあの男は幽霊を探しているだろうか? と、気になり、河原沿いの道を通ってみることにした。

 すると、昨夜と同じ地点に差し掛かったころ、向こうのほうから光が揺れているのが見えた。同じだ。あの男はいつもこのルートを通るのだろう。この頃、ひとと接することを避けていたYさんにとってはその何気ない接点が妙に嬉しかった。

「あ、昨日の方。こんばんは」

「こんばんは。幽霊は見つけられましたか?」

 久しぶりの会話だ。互いに知らない仲なら普段は上手く出てこない言葉も自然と出てくる。

「全然ですね」と男は笑う。「霊感と言うものがあったならどんなによかったことかと思いますね」

 Yさんは単純な好奇心で話を繋いだ。

「どうして幽霊が見たいんですか?」

「だって、非科学的とされているのに、何千年も前から語られてるんですよ。気になるじゃないですか、その神秘性。出会ってみたいものです。それに、昔から好きなんですよ怪談が。自分でも体験してみたくなるんですが、なかなか都合よくはいかないみたいですね」

 それからYさんはそのおかしな男に興味を持って、幾度もすれ違いながら会話を重ねた。彼は近くの大学に通う学生だという。夏休みで暇だから夜な夜な心霊スポットや廃墟を訪れては幽霊との接触を試みているという。しかし、今まで見ることができたことはないという。

「Yさんは幽霊の存在は信じますか?」

 そう訊かれて少し考える。存在自体はあり得ないことだ。それは科学的に説明ができないという理由だが、それでも神を信仰してないのに神に願う瞬間があるように、もしいたら面白いかもしれない。その程度の認識しか持ち合わせていない。そう答えると、男は大きく頷いた。

「同感ですね。いたら、面白い。そう。いたらそれだけで面白いんですよ、幽霊というのは」

 では、また。別れるときは簡単な言葉ですれ違った。Yさんにとって、そのひとときは単調な毎日の楽しみとなっていた。


「Yさんは、人間が死んだあとはどうなると思いますか?」

 そんな疑問を投げかけられたことがあった。うーん。としばらく考え込んでも、うまく言葉が出てこなかった。実はYさんは一度、生きるのがつらくなって自殺未遂をしたことがあった。しかし、いざという場面になってどうしてもその手を進めることが出来ずに頓挫した。それが良かったのかどうかは今でもわからない。抗うつ剤を飲みながら、時間が過ぎるのを待っているだけの毎日だ。追い詰められる感覚が消えない。自分が死んだら、一体どうなるんだろう? そういえば考えたことがなかった。

「……僕は、消えてなくなる、なんてことはないと思ってます。霊魂は不滅です」

「というと?」

「仏教なんかでは輪廻転生って言いますね。魂は消えずにまた新しい命へと吹き込まれる。僕らは死に際して、一瞬の眠りの後に、また新しい肉体を持って目覚めるんです。幽霊というのはそのサイクルから外れてしまっている。未練、憎悪、悔恨……人間の感情の核となるその魂が現世との繋がりを断ち切れないからそこに漂ってしまっている」

「なるほど」

「といっても、これはそれぞれの死生観の上に成り立つものなので、ひとによって全く違うものです。そもそもそんな非科学的なものを信じない人のほうが多いんじゃないですかね」

 少し元気のなさそうな声。今宵、空は暗澹たる厚い雲に覆われている。湿度のある風が生ぬるくシャツの隙間を通り抜けていく。明日からしばらく雨が降るといっていた。もしかしたら散歩もできないかもしれない。

 それでも、彼は幽霊を探しにここへ来るだろうか?

「僕が必ずここを通る理由は、もちろん幽霊が水辺を好むとされているからです。引き寄せられるといっていい。僕らは何かに引き寄せられているに思うんですよ。あはは、運命を信じていると笑わないでくださいね」

「でも、君は幽霊を信じるほどにロマンチストだよ」

「言いますねー。では、また」

 光が互いに遠ざかる。沢の流れる音の中に、背中の足音が呑み込まれるように消えていった。


 翌日、予報の通り雨が降った。かなりの勢いだ。台風が接近しているということで大雨警報すら出ている。これは今日の散歩はできないな。きっと彼も今夜くらいは家でおとなしくしていることだろう。Yさんは雨の降る外を眺め、そっとカーテンを閉めた。


 それから二日間、台風は日本列島上を停滞し、風雨は連日続いた。地方によっては土砂崩れや河川の氾濫で被害が出たという。ここの地域では目立った被害はなかったのが幸いだ。

 今夜は晴れる予定だ。久しぶりに散歩に出かけてみよう。Yさんは深夜二時過ぎになるのを待って家を出た。

 河原の土手道に出ると、水流は普段とは比べ物にならないくらい激しかった。ごうごうと音を立てている。ちょっとでも近づけばその流れに飲まれてしまいそうなくらいだ。Yさんはすこし背筋をひやりとさせながら歩き出した。

 向こうから光がちらつくのが見えた。ああ、彼が来たんだ。だんだんと光が近づいてくる。今日はどんな話をしてくれるのだろう。Yさんは心なしか少し早足になって彼に迫っていく。

 そこに彼はいなかった。

 ペンライトを揺れる光に向けると、それは懐中電灯ではなく空中を漂う火の玉だった。火の玉、という表現が適切かどうかはわからない。しかし、ひとりでに浮遊するそれはそうとしか言いようがなかった。

「うわああ」

 Yさんが叫ぶと、その火の玉はふっと消えてしまった。

 ああ、ついに見てしまった。ついに幽霊と言うものを見てしまったかもしれない。これは彼に報告しなければならない。どんな顔をするだろうか? はやく来い! とっておきの土産話があるんだ!

 しかし、その日、時間が過ぎても彼が来ることはなかった。今日は散歩しない日なのだろうか。火の玉を見て興奮していた気持ちも薄れ、空が白みかけたころにYさんは家に向けて踵を返した。


 その後、その河原の下流で、ひとりの大学生の男性が亡くなっているのが見つかったらしい。死因は溺死。台風が来た翌日に家族から捜索届けが出されたという。しかし、発見されたときにはもう見るも無残な姿であった。

 そんな記事を新聞で見た。Yさんはぞっとした。新聞に載っている名前が彼と同じだったからである。どうして彼が水死体として発見されたのは不明である。あの激しい風雨の中、危険と分かって川に近づくとは思えない。真相は謎に包まれたままである。

 あの日見た火の玉というのはもしかしたら彼自身の魂だったのかもしれない。幽霊となった自分を、幽霊の存在を証明するかのように見せつけたくてYさんの前に現れたのかもしれない。あれだけ幽霊を見たがっていた彼のことだ、きっとそうに違いない。


 それからその河原では、夜になると謎の光が揺れるという目撃談が後を絶たないという。

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