第五十二話
(くそ、捕まってたまるか!)
殴られた痛みで軋む身体を鞭打ち、ジョージは、自分の庭のように歩き慣れた道を必死に走る。トーマスを撒くため、フリート街のメインストリートから、セントプライズ教会に向かう横道の一つに曲がったジョージは、民家と教会の影になる狭い隙間に身を隠し息を殺す。
少し遅れて、トーマスもジョージの来た道に入ってきたが、民家の手前を横切る広い通りを走り去っていくのがわかった。
ジョージはホッとしながらも、まだここから動くわけにはいかないとその場に留まる。全力で走ったせいで息はあがり、身体中は痛む最悪の状態だ。
(くそ、なんでこんなことになった!)
思い出すだけで腸が煮えくりかえる。あの貴族達が乗り込んでくるまで、全てジョージの思惑通りに事が運んでいた。
ルカが靴職人として自分の元へ戻ると言った時は、勝利の恍惚で、信じてもいない神に感謝したくらいだ。
全てをぶちまけ、真実を知ったルカの絶望に打ちひしがれる様はたまらなくジョージを興奮させた。後はマリアと同じように、ルカを犯して奴隷にしてやるだけだったのに、そんな目論みは全て崩れ去り、ジョージに待っているのはもう身の破滅しかない。
(そもそも、なぜ男娼に落としたはずのルカがヘッドヴァン家と関わりを持てるんだ!
ジャックの時もそうだ、あいつはただ黙々と靴を作っているだけだったくせに、俺から貴族の上客を奪いやがった!親子揃ってどこまでも俺をコケにしやがって!)
悔しさと怒りで狂いそうになりながらも、どうにか逃げる方法を考えようと心を落ちつかせ、先程トーマスが横切った道を見やったその時、ジョージの目に、信じられない光景が飛び込んでくる。建物の隙間から様子を伺うジョージに気づくことなく、フラフラと歩いて行く一人の人間の姿。
(ジャック!!あいつ、生きていたのか!)
考えてみれば、ジョージはシャイロットから、ジャックは死んだと聞かされただけで、実際にその遺体を見たわけではない。
(間違いない!あれはジャックだ!)
ジョージは矢も盾もたまらず建物の影から飛び出し、ジャックの後を追いかけた。
どれだけ歩くのが早いのか、見失うまいとするジョージを嘲笑うように、ジャックのいた場所に辿り着いた時には、さらに先の、フリート川へ向かう道を曲がっている。フリート街のメインストリートと違い、この辺には、低所得者の家や犯罪者を収容するブライドウエル感化院があるためか、ほとんど人はいなかった。
(こんな場所に隠れていたとはな)
ジャックの姿が見えなくなっても余裕でいられたのは、フリート川まで行ってしまえば、あとはテムズ川と合流する場所まで、川沿いに長い一本道があるだけだと分かっていたからだ。
不思議な事に、久々にジャックと対面できる思うと、ジョージの足取りは、まるで愛する人にようやく会える男のように軽くなっていく。
ところが、意気揚々と曲がった道の先に、ジャックの姿は見当たらない。
「あの野郎!どこ行きやがった」
思わず声を荒げ、夜の闇の中目を凝らすと、200ヤードほど先にあるフリート川とテムズ川の合流地点で、一人佇むジャックの後姿が目に入ってくる。あんな先まで行ってやがったのかと、ジョージはジャックに引き寄せられるように走りはじめた。
「ジャック!」
絶対に聞こえているくせに、ジャックは振り向かない。
(ふざけるな!おまえは俺に呼ばれたらいつもすぐに振り向いて笑ってただろう!)
猛烈な焦燥感に襲われながら、ジョージの心臓は異常なほど速く脈打つ。
何かがおかしい。頭に響き始めた警告を無視し、手を伸ばせば触れられる距離までジャックに近づいた時、ジョージはようやく気がつくのだ。
自分が見ていたのは幻だ。ジャックは恐らく、もう本当にこの世にはいない。
いつの間にか、目の前にいたはずのジャックの姿は消え、走っている勢いのまま、ジョージの身体は何者かに押され宙に舞う。
(死ぬのか俺は)
そう思った瞬間、今までの人生が走馬灯のようにジョージの頭を駆け巡った。
『ほらほら、そんなに溢さないの』
頭の片隅に残る一番幼い頃の記憶は、母親が幼い子どもをあやしながら家族で食事をするごく当たり前の情景。でも、自分はいつも蚊帳の外だった。
『ねえ、いつまであの子うちで育てなきゃいけないの?』
『仕方ないだろ、おまえだって最初は喜んでたじゃないか』
『あの時は長男が死んだ直後だったからね、今は私達の子どもも元気に育ってるし、もういらないわよ』
本当の両親の記憶は全くない。何らかの事情で、ヨーマンリーの義両親に引き取られた自分は、この2人に捨てられないよう愛想を振り撒き、下の子ども達の世話と畑仕事に明け暮れていた。そうしないと、おまえは住む場所を失い物乞いになるしかないとずっと脅されていたからだ。
結局10歳で、ジョージはブライトン侯爵という貴族の屋敷に奉公することになり、体よく家を追い出されたが、子どもながらよく働くジョージは主人に気に入られ、この家にずっと仕えていければと願うようになった。
だが、貨幣経済の発展と共に侯爵家は困窮し、ジョージは12歳の時、手に職をつけなさいというブライトン侯爵の伝で、ロンドンの靴職人の徒弟になったのだ。
ロンドンは、ジョージのいた田舎とは比べものにならない大都会だったが、子どもの乞食や浮浪者も多く、そのみずぼらしく惨めな姿に、小さな頃繰り返し言い聞かせられてきた義両親の言葉が蘇る。
(ここでまで追い出されたら、自分の人生は終わりだ)
朝から晩まで働き詰めな日々。傲慢な親方の暴言、暴力、エコ贔屓
耐えられずに辞めていき、堕落する徒弟も山ほど見てきたが、ジョージは理不尽な状況に耐え、苦しみを緩和させる術を知っていた。
成長するにつれ、何を言えば相手が喜ぶのか、どう反応すれば上の人間に気に入られるのか手に取るようにわかるようになっていき、ジョージは理解する。自分の意思や本音なんて他人に晒す必要はない。心を殺し、相手の懐に入りこんでしまえばこちらのもの。
(そうだ!俺はうまくやって勝ち残った!)
と、突然、ジョージの目にマリアの姿が映し出される。今の年老いたマリアではない。ジョージが教会で一瞬にして心を奪われた、若く美しい女神のようなマリア。初めて心から欲しいと思った女。
『君がずっと側にいてくれたらどんなに幸せだろうっていつも思うんだ。マリア、どうか俺と結婚してくれないか?』
『YESよジョージ、断る理由があると思う?』
『ありがとうマリア!二人で幸せな家庭を作ろう』
(何をみみっちい事を望んでいるんだ!おまえはこの後金持ちの娘に惚れられる!
マリアと結ばれて得られるものより、もっとずっと凄いものを手に入れたんだぞ!サミュエル親方の商会を引き継いだ!おまえは地位も名誉も金も、全てを手に入れたんだ!)
昔の自分と今の自分の感情が反駁しながら混ざり合い、ジョージの意識は混沌とする。
『もう堅苦しい呼び方はやめてジョージって呼んでくれよ。おまえも親方になったんだし、俺らは対等の立場だろ?』
場面が切り替わり、ジョージはジャックと居酒屋で話しをしていた。
(なんだこの会話は?全く覚えがないぞ?
もうジャックも親方になってるという事は、マリアとジャックを無理矢理祝福してやってた時か?)
サミュエル親方の娘と結婚し、いずれ商会を引き継ぐ共同経営者として忙しい日々を送っていたジョージは、なぜかその時期の記憶がほとんどない。しかし、覚えのない思い出の中のジャックは、笑顔でジョージを見上げ語りかけてくる。
『いや、俺はこれからも尊敬をこめてジョージさんて呼び続けますよ。ジョージ様って呼んでもいいくらいだ。貴方はあの夜俺を救ってくれた。一生、俺にとってのヒーローなんですから』
ジョージはその言葉に息を飲んだ。
やるせない感情に支配されそうになり、ジョージは首を振って拒絶する。
やめろ!消えろ!思い出させるな!
おまえのせいで俺の人生は狂ったんだ!自分の心を殺し、マリアを捨てキャロラインを選んだのに、結局妻も息子も失った。俺は俺の家族を作れなかった。
おまえは俺を自宅に招き、マリアとの幸せな家庭を見せつけてきやがった!
必死に出世したところで、結局本当に欲しかったものは手に入っていないと、忘れていたはずの惨めな記憶を思い出させた!
手に入るはずだったものも、手に入れたものも、全ておまえが奪っていく。
他人に気に入られようとも、自分の気持ちを殺すこともしてこなかったくせに!
なぜだ!なぜおまえばかり!心のままに生きて許されるんだ!
『まあ尊敬してくれるのは嬉しいけど、俺はお前の方が凄いと思ってるんだぜ。
正直俺にとって靴作りってのは、生きてく手段でしかなかったんだよ。でもおまえは本当に愛おしそうに靴を作るだろ?それに、おまえはいつも自分の気持ちに真っ直ぐで優しい。俺はおまえのそうゆうところ尊敬してるんだ』
ジョージの心の叫びとは全く違う言葉が、昔の自分の口から溢れ出し、ジョージは思わず耳を塞ぐ。
『優しいのはジョージさんじゃないですか』
『いや、俺は優しくないよ、損得感情でしか動いてない』
『信じませんよ、俺は貴方がとても優しい人間だって知ってるんですから』
「やめろ!やめろ!」
声の限り叫んだ次の瞬間、ジョージの意識は今いる現実に戻り、激しい水飛沫を上げテムズ川に落ちていく。真っ暗なテムズ川の底には、この世の者ではない、出会った頃と別人のように醜くなったジャックが手を広げジョージを待ち構えていた。
(嫌だ!やめろ!助けてくれ!助けてくれ!)
ジャックだけではない、テムズ川で命を失った沢山の死者の手に身体を押さえつけられ、ジョージは恐怖のあまり正気を失い、冷たい水の中で声にならない悲鳴をあげる。
『俺は、あなたがとても優しい人間だった事を知っています…だから一緒に行きましょう…地獄へ…』
水面に浮かび上がろうと必死に手を伸ばし、息のできない苦しみにもがきながら、ジョージが最期に聞いたのは、悲しげに響くジャックの声だった。
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