第四十九話

「ジョージ、どうして…ロイ!!」

「お兄ちゃん!」


 突然やって来たジョージ親方に動揺する様子を見せた母は、その後ろに立つロイに気づくや、妹のソフィと共に駆け寄りロイを抱きしめる。

 隙間風が入ってきてしまいそうなみずぼらしい壁。食べるのも寝るのも、全てその一室で行う、家族3人で暮らすには狭すぎる小さな部屋。しかし、マリアとソフィの清貧な佇まいは、ともすれば暗く惨めになってしまいそうな家の中を、相変わらず明るく照らしているようだった。


「母さん、ソフィ、ごめん…」

「なぜ謝るの?あなたは遠いところで一生懸命働いて私達に仕送りまでしてくれているのよ!それより今日はどうしたの?マンチェスターの親方がお休みを出してくれたの?」


 屈託なく聞いてくる母に、ロイは心苦しくなりながら首をふる。


「違うんだ…」

「マリア、ロイはマンチェスターには行ってない。俺も驚いたんだが、ジャックが借金していたのは悪徳高利貸しだったらしい。ロイは借金の形に娼館に売られていたんだ」


 中々言葉が出てこないロイに変わって、ジョージ親方がはっきりと母に真実を告げ、母は真っ青になりロイを見つめた。


「本当なのロイ?ジャックがそんな…」

「ごめん母さん、ジョージ親方が言っていることは本当なんだ。だけど、俺は身体を売ったりしていない。とある方が俺を助けてくれたんだ。だから母さん達に仕送りすることができた」

「とある方って誰なの?貴方が送ってくれていたお金はその人からだったというの?その方に助けてもらった後、あなたは一体どこで何をしていたの?」


 母が混乱するのも無理はない。矢継ぎ早に質問してくる母に、ロイは意を決して今までの事を語り始める。

 娼館の客から逃げだした自分を、ジャンが助けてくれたこと、借金を払ってくれる代わりに、劇団の女役を頼まれたこと。

 話しながら、ジャンとのあらゆる思い出が鮮明に蘇り、涙ぐんでしまいそうになりなったが、ロイは敢えて淡々とした口調で話し気持ちを沈める。ロイが全てを話し終えた頃には、母も大分落ち着きを取り戻していた。


「ロイ、正直に話してくれてありがとう。

ああ、でも貴方がその方に助けて頂けたのはきっと神様のお導きね!本当にあなたが無事で良かった」


 母に再び強く抱きしめられ、ロイは、二人に会いに行こうとしなかった自分を心底悔いた。


「心配かけてごめん、母さん、ソフィ」


 母とソフィに心から謝罪し、3人が互いを慈しむように身体を寄せ合っている側で、ジョージが徐に口を開く。


「ベッドヴァン家か、まさかあの貴族がそこまでの家柄だったとは…

でもなロイ、おまえがあの貴族様に深い恩義を感じるのはわかるが、せっかく何年も親方になるために頑張ってきたのに、今まで培ってきた技術を全て捨てて俳優になるなんて、もったいないと思わないか?」


 ジョージ親方は、ロイがオーク座に戻るつもりだと勘違いしているようだったが、ロイは頷き自分の意思を告げる。


「ジャン様には心から感謝しています。

でも、ジョージ親方が俺を職人として手元に戻してくれるなら、俺はもう一度親方の元で働きたいです」


 その言葉に迷いはなかった。ジャンへの恋心を自覚した瞬間から、ロイの選択は決まっていたのだ。


「良かったロイ!俺はてっきり、オーク座で女役を続けたいんだとばかり思っていたよ!」


 ところが、嬉しそうにロイの頭を撫で喜ぶジョージ親方とロイを見ていた母が、ロイに意外な言葉をかけてくる。


「ロイ、本当にそれでいいの?」


 靴職人になるという決断を喜んでくれるとばかり思っていたロイは、驚いて母を見つめた。恐らく母は、ロイが本当に靴職人になることを望んでいるのか気にかけてくれているのだろう。ロイは目を伏せ、もう2度と会えなくなるであろうジャンの姿を思い浮かべる。

 ロイの本当の望みは、オーク座へ戻り、ジャンの側にいること。でも、罪深い想いを抱いてしまった自分が、彼のところへ戻るわけにはいかない。間違った恋心を殺すには、ジャンから離れるしか道はないのだ。

 迷いを断ち切り顔を上げると、目に映る母の顔が、真っ青になり歪んでいた。


「母さん?どうしたの?」

「…なんでもないのよ、ロイ、少し目眩がしただけ…」

「本当に?」

「ええ」


 母の様子を気にしながらも、ロイは先程の母の言葉に返事をする。


「母さん、俺はジョージ親方の元に戻るよ。

もう一度靴職人として頑張りたいんだ」

「ロイ!」


 ジョージ親方は飛び上がらんばかりに喜び、ロイを抱きしめてきた。


「嬉しいよロイ!おまえはやっぱりジャックの子だ!」


 するとソフィが、残念そうに言ってくる。


「でも私、兄さんの女役ちょっと見てみたかったなあ。生真面目な兄さんが演技してたなんてちょっと想像つかないもん」

「俺も最初、ロイが演技している姿を見た時は人違いだと思ったよ。ただ女姿はソフィよりロイの方が綺麗かもしれないなあ」

「ジョージおじさんひどい!」

「嘘だよソフィ、ロイの方が若い頃のマリアに似てるが、ソフィも十分可愛いからな」

「全然嬉しくない!今更可愛いって言ったって遅いんだから!」

「ごめんソフィ、俺が悪かったから許してくれよ」


 親しげに話すジョージ親方とソフィのやりとりに、ロイの頬は緩んだが、母は相変わらず浮かない顔のまま茫然としている。


「母さん、本当に大丈夫?」

「…大丈夫よ」

「マリアは少し疲れてるんだろう。ゆっくり休んだほうがいい。それよりロイ、靴職人になると決めたなら、あの貴族様に今すぐ知らせに行った方がいいんじゃないか?」


 ジョージ親方の言葉に、ロイは自分の顔が強張るのを感じた。離れる決意はできていたのに、ロイは再びジャンに会い、オーク座を辞める意志を伝える覚悟は全くできていなかったのだ。


「いいなあ、私もその貴族様に会ってみたかった。私と母さんも一緒にお礼に行っちゃダメ?」

「ソフィ、おまえの気持ちもわかるがな、ロイを助けた貴族様はそんじょそこらの貴族じゃない。向こうの許可なく安易に会いに行っていいお方じゃないんだ。とにかくロイ、暗くなる前に急ぐぞ」

「はい」


 一瞬上の空になっていたロイは、ジョージ親方に促され、慌てて頷き返事をする。

 

「ロイ、その貴族様に、私達も心から感謝していた事を伝えてちょうだいね」


 外にまで出てきて手を振る母とソフィに見送られ、ロイとジョージは、再びタウンハウスへ向かう。だが、二人の姿が見えなくなってしばらくすると、ジョージ親方は不意に足を止めロイに尋ねてきた。


「ロイ、俺が貴族様に知らせに行くぞと言った時、おまえの顔色が悪くなったような気がしたんだが、もしかして行きたくないのか?」 

「いいえ…ただ、ずっと世話になっていた人なので、辞めると言いに行くのが辛くて」


 ジョージ親方はそうかと頷くと、思いがけない提案をしてくる。


「なあロイ、貴族様に言いに行くのは明日にして、今夜は俺に付き合ってくれないか?

ジャックとも少し関係あるんだが、実はおまえを連れて行きたいと思っていた場所があるんだ」

「え?」


 それはロイにとって、誘惑にも近い言葉だった。父と関係のある場所というのも気になったロイは、迷いながらもその誘いに頷く。


「わかりました」


 ロイの返事に、ジョージ親方は思わずというように微笑む。


(あれ?)


 この時、ロイはジョージ親方の表情に妙な違和感を覚える。嬉しそうに笑っているはずなのに、ロイはその笑顔に、いつもと違う何かを感じゾッとしたのだ。


(なんだ?どうしたんだ?俺は)


 母の様子といい、先程から時折感じる違和感を、ロイは自分の気のせいだと切り捨て、ジョージ親方の隣りに並び歩きだした。

 特に会話も交わさず歩き続けているうちに、二人は職人達の商店や居酒屋が立ち並ぶチープサイド通りに入っていく。

 ほんの数ヶ月前まで、徒弟としてここで暮らしていたのに、ロイはまるで、何年も昔のことのように感じた。


 ふと空を見上げると、真夏より日の入りが早くなってきたロンドンの空に、薄白い月が浮かんでいる。昔は、月をそこまで意識したことなどなかったが、ジャンと出会い、アリアンを演じてから、ロイは日が落ちてくると、月を探し見上げるようになっていた。

 

(ああ、やっぱりもう少し、ジャンの側にいたかったなあ…)


 ロイを月の女神に選んでくれたジャンは、ロイにとって、太陽のような人だった。自分を救い照らしてくれる、強く眩しい光。

 抑えようとしても、自然と溢れてしまうジャンへの想いに身を焦がしていると、道の先に聖ポール大聖堂がはっきりと見え、ロイは反射的に俯く。教会が目に入ってきた途端、ロイは自分の罪を神に見透かされているような気がして、強い罪悪感を覚えたのだ。


「おまえとこんな風にここを歩くのも不思議な感じだな、若い頃はよく、ジャックと時々このへんのパブや居酒屋で飲んだりもしてたんだ。信じられないかもしれないが、あいつは生真面目で、仕事に響くのは嫌だと絶対に飲み過ぎたりしない奴だったんだよ」


 懐かしげに話しかけてきたジョージ親方の言葉は、ロイを罪の意識から逃し、ロイはあのイースターの日以来、一度も会っていない父に思いを馳せる。

 思えば運命とは皮肉なもので、もし父が借金をしていなかったら、ロイはジャンに出会うことはなかっただろう。


 ジャンのおかげで、ロイは胸が高鳴るような人生の喜びと、どんな状況でも諦めない強さを知った。時折見せるジャンの人間らしい弱さも、愛しくてたまらなかった。たとえ今離れるしかなくても、ジャンとの思い出は全て、キラキラとした宝石のように輝き、ロイの心に刻みこまれている。

 ジャンとの出会いは、ロイを苦しめ続けた父への怒りまで、いつの間にか消しさっていたのだ。


「若い頃の父とは、どんな話をしてたんですか?」


 そう尋ねると、ジョージ親方は目を見開きロイを見つめる。


「珍しいじゃないか。いつも俺が昔のジャックの話しをしても、あまりいい顔をしてなかったのに」


 確かに自分は、堕落する前父がどんなに立派な人間だったとしても、それがなんだと思っていた。だがロイは今、自分の知らない若い頃の父が、何を考えどう生きてきたのかを、無性に知りたくなる。


「そうだな、もう少ししたら目的の場所に着くから、そこでゆっくりジャックの話しをしよう」

「ありがとうございます。あの、俺に見せたい場所って?」

「ああ、ちょっとした居酒屋みたいなもんさ。

ロイ、俺は、息子が大きくなったら、店で楽しく酒を飲み交わすのが夢だったんだ。今日はおまえが俺の夢を叶えてくれるか?」

「もちろんです!」


 ジョージ親方が、奥さんと息子を早くに亡くしているのは知っている。もし息子が育っていたら、ロイと同じくらいだったことも…

 

「ありがとうな」


 嬉しそうに礼を言い、再び歩きだすジョージ親方に、ロイは素直に着いていく。しかし、ジョージ親方の進む方向がどこだか気づいた時、ロイは思わず足が竦んだ。

 

 チープサイドから聖ポール大聖堂を抜け歩いて行った先には、フリート街がある。 

 かつて高位聖職者達が暮らしていたというこの場所の周囲には教会も多く、ロイの父が靴屋を営み、家族と共に暮らしていた場所も、このフリート街だったのだ。


「ここだよ、ロイ」


 ジョージ親方が、一つの店の前で立ち止まり、ロイは息を飲む。

 木造建の外観はほとんど変わっていない、そこはまさに、ロイ達家族が住んでいた家。

 心臓がドクドクと鳴り響き、幼い頃からの思い出が、走馬灯のようにロイの頭を駆け巡る。

 

「懐かしいだろロイ、もう靴屋ではないんだが、この店で酒やビールの小売商をしてる女将が、ちょっとした料理も出してくれててな。これがまた美味いんだよ」


 ジョージ親方はそう言うと、軽い足取りで店の中へと入っていく。

 ロイは、久しぶりに訪れたかつての我が家を前に、身体が震えるのを感じた。これは一体どういう感覚なのか?何かがおかしいと感じているのに、それが一体なんなのかがわからない。


(俺は何を怖がっているんだ?ここはもう俺の家じゃない。ジョージ親方も一緒だし大丈夫だ)


 ロイは闇に誘いこまれるように、ジョージ親方の後に続いた。


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