第四十話

 

 ヘッドヴァン邸の来客を迎える玄関は、晩餐室とはまた別の、大きなホールのような造りになっている。二階まで吹き抜けになった空間の正面中央には、真っ赤な絨毯の敷かれた大階段があり、階段途中にある踊り場は、アリアンを公演する際、天界と地上を演出するのに格好の構造だと思い、ジャンはこの場所を選んだ。

 立ち位置や演出の変更を念入りに確認しながら、俳優達のリハーサルの演技にも自然と熱が入る。


「やっぱり場所が変わるとまた全然違うよな、本番とちらないようにしないと」


 数時間に及ぶ長いリハーサルを終えた俳優達は、使用人達が会場の準備を整える様子を眺めながら、本番直前の緊張感の中、思い思いに過ごしていた。

 ジャンは、演出家として俳優達に指揮しながら自らも演じるという、今までにない状況に慣れず、リハーサルの段階で全て終わった後のような疲労感を覚える。

 

 しかしそれ以上に、ジャンがある種の高揚感で恍惚としているのは、自分の目の前でセリフを確認し、時折親愛のこもった瞳でジャンに笑顔を向けるロイが原因である事は分かっていた。

 タヴァートインで、ロイと励まし合うように互いの身体を抱きしめあった時から、ジャンの心の箍は外れてしまっている。見つめれば触れたくなり、触れれば抱きしめたくなり、抱きしめれば…恋の欲望は尽きる事がない。


 談話室で衣装に着替えるため服を脱ぎ出した時は、邪な目で見てしまう自分を恥じ、ロイの側から離れたが、純白の衣装に身を包んでからは欲望に打ち勝つ事ができず、リハーサル中も今も、ずっとロイを目で追い見つめてしまう。

 

 最初ロイに、あなたがハリーの代役をするべきだと言われた時は、なんて無茶な事をと思ったが、今やジャンは、ハリーを演じられる幸福に酔いしれていた。物語の中でなら、ジャンは誰に非難されることもなく、人々の前で堂々とロイに触れ、抱きしめ、恋人として振る舞えるのだから。


「ジャン様、そろそろ陛下や客人達が入りますがよろしいですか?」


 会場準備の手伝いをしていたアンナに尋ねられ、ジャンは頷き返事をする。


「構わない、陛下達をここへお招きしてくれ」

「かしこまりました」


 アンナの返事と共に、ジャンの心臓の鼓動は途端に早まり、ホールの空気がピンと張り詰めていくように感じた。

 隣に立つロイを見ると、その顔色は、傍目でも分かるほどみるみる蒼白になり、手がプルプルと小刻みに震えている。ジャンは思わずロイの肩を抱き寄せ、震える手を握りしめた。


「大丈夫か?」

「ごめんなさい、なんだか急に怖くなってしまって…」


 無理もない。自分も昔、初めて舞台に出る直前、突然緊張が耐えられないほどのピークに達し、その場から逃げ出したい衝動に駆られた時の事を思い出す。

 まして今日は、女王陛下の前で行われる御前公演なのだ。ジャンも心に余裕がないせいか、ロイを勇気付ける言葉が咄嗟に浮かばず、ただ黙ってロイの肩を撫で、手を握りしめることしかできずにいたが、次第にロイの頬に紅みがさし、震えがおさまっていくのがわかった。


「ありがとうございます。もう大丈夫です」


 ロイはジャンを見上げ、いつもの花開くような笑顔を浮かべる。


「不思議ですね。さっきまで自分でも怖いくらい緊張して震えが止まらなかったのに、ジャンに手を握ってもらったら、きっと大丈夫だって思えてきました」


 そう言って微笑むロイの瞳には、信頼だけではない、自分と同じ恋心を映し出しているように見えて、ジャンはたまらず、ロイの身体を引き寄せ抱きしめる。


「頑張ろうな」

「はい」


 辛うじて理性が働き、ジャンは緊張するロイを鼓舞する言葉を発したが、本当は、もっと別の言葉を言ってしまいそうだった。

 伝える事など絶対にしないと決めていたはずなのに、こんな風に振るまわれたら期待してしまう。ロイも自分を、憎からず想ってくれているのではないかと…もしそうなら…


「おい、来たぞ!」


 トーマスの声で、ジャンとロイは弾かれたように身体を離す。

 女王陛下をはじめ、ヘッドヴァン家と親交の深い貴族達が次々と席に着き、その中には、ジャンの母はもちろん、父やロバートセシルの姿もあった。


「ジャン」


 女王は席に着くなりジャンを呼びよせ、ジャンは女王の前に行き跪く。先程まで恋に浮足だっていた心が、久々の女王との対面で、粛然と引き締まるのを感じた。


「おまえが去ってから二日も経っていないというのに、随分久しぶりに顔を見れたように感じるな」

「陛下、私も、何年もの間待ち望んでいた再会をようやく果たせたような思いです」


 ジャンの返答に、一見冷酷にも見える女王の知的な瞳が微かに和らぐ。


「無事公演が行えることになって良かった。主演俳優降板のトラブルは解決したのか?」

「はい、なんとか」

「そうか、ではここに座れ。戯曲を作った劇作家本人と共に観賞したい」


 その言葉で、女王が自らの隣りをジャンのために空けていたことに気づき、ジャンは、申し訳ありませんと率直に謝った。


「どうした?自分の作品を私の隣で観るのは嫌だとでも?」

「いいえ、そうではありません。

リハーサルの間、オーク座の人間以外入らないようにお願いしていたので、まだ陛下にも、ここに来て下さっている観客の皆様にも伝えていないのですが、実は主演俳優の代役を私がつとめることになり、ここで陛下と共に鑑賞することができないのです」

「え?」


 よっぽど驚いたのだろう。女王は今まで聞いたこともない、幼い少女のような声を上げる。


「おまえが演じるのか?」

「はい、舞台に立つのは大学時代以来なので、陛下の御目に敵うのか不安はありますが…」

「…フハハハ!それは面白い!今日はやけにシンプルな格好をしていると思ったらそういうことだったのか」


 ジャンが言い終わらないうちに、女王は声を出して笑い、心底楽しそうな笑顔をジャンに向け言った。


「おまえに出会えたのは幸運だった。見てるだけで、全く飽きることがない」

「ありがとうございます、陛下」


 ジャンは礼を述べ、差し出された女王の手の甲に、尊敬と親愛を込めて口づけをする。


「では行ってまいれ、じっくりと観賞させてもらおう」

「はい」


 女王は微笑みを絶やさぬままジャンを促し、ジャンは、舞台となる階段下へ戻っていく。

 ジャンと女王の様子を見守っていた俳優達も、ジャンが始まりの言葉を発するのを待っていた。


「皆様、この度はお集まり頂きありがとうございます。我々の作品の初演を、偉大なる陛下と皆様の前で行える事をとても光栄に思います。皆様に一時の愉悦を味わって頂けるよう、オーク座の俳優一同一丸となり努めていきますので、どうか最後までご高覧賜りますようお願いいたします」


 ジャンが挨拶を終えると同時に、序詞役のエディを残し、俳優達はそれぞれの待機位置に移動する。

 ついに後戻りはできない、舞台の本番が始まったのだ。


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