第十七話

オーク座は、テムズ川を越えたサザーク西端にある修道院のホールを改装した、まだ数少ない屋内劇場の一つだ。ジャンは、伝統的で荘厳なゴシック建築で建てられたこの美しい劇場をとても気に入っていた。

 たった一日離れていただけなのに、何年かぶりに恋人に会えたような気持ちで中に入ると、体当たりでもする勢いで自分に駆け寄ってきたトーマスの怒鳴り声に出迎えられる。


「遅いよおまえ!なんでルカを最初に連れてきて紹介するのが俺なんだよ!おまえがルカをアリアンに選んだんだから、おまえが責任持って説明するのが筋だろうが!」


 トーマスの怒声に面食らいながらも、ジャンはその言葉に引っかかりを感じた。


「なんでおまえリリーの本当の名前知ってるんだ?」

「ルカが自分で俺の名前はルカですって言ったんだよ、て今それ聞くこと?俺の話し聞いてた?」


『あなたには、本当の名前で俺のことを呼んでほしいと思ったからです』

 ジャンは、ヘッドヴァン邸でのルカとの会話を思い出し一人舌打ちする。


「なんだよ、俺にだけ本当の名前呼んでほしいわけじゃないのかよ…」

「は?」

「いや、別になんでもない。俳優としての名前はリリーでいくから、おまえもなるべくリリーって呼べよ」

「はあ?てそんなことどうだっていいんだよ!それより早くみんなにルカのこと説明しろ!」


 ジャンの言葉を無下にし、声を荒げるトーマスが指差した先に目を向けると、俳優達が何やらもめている。その中心で、途方に暮れた子どものように悲しげな表情で立っているルカを見て、ジャンは急いでルカに駆け寄った。


「どうした?何があったんだ」

「何があったんだじゃねえよ!ジャン!いくらなんでもここまで演技できない奴がアリアンて酷すぎるぞ!セリフ覚えてるだけで演技の基本が何一つできてないじゃないか!」

「わかったわかった、声がでかすぎ」


 トーマスの次はオリヴァーに怒鳴りつけられ、ジャンが思わず耳を塞ぐと、他の劇団員達も一斉にジャン不満をぶつけ始める。

 そんな中、この劇団の最年長で、ジャンも何かと頼りにしているダニエルが、皆の言葉を纏めるようにジャンに進言した。


「ジャン、悪いことは言わない、今からでもエドワード伯爵に頭を下げて少年俳優を紹介してもらえ。主演のアリアンをこんな素人にやらせるなんて正気の沙汰じゃないぞ」


 俳優達の反対など想定済みだったジャンは、落ち着いた口調で、ダニエルに反論する。


「悪いがダニエル、俺はエドワードに頭を下げる気もアリアン役を変えるつもりもない」

「意地になってる場合か?本番まであと二週間切ってるんだぞ!」

「一週間だ!」

「え?」


 ジャンの言葉に、ダニエルもその場にいた俳優達も、訝しげな表情を浮かべる。


「一週間でこの俺がリリーを完璧なアリアンに仕上げる。全責任は俺が持つし、この条件を認めてくれたら、エドワード伯爵からの給金以外に俺がおまえ達にギャラを倍払う!しかも!そのうちの半額は約束料として先に払ってやる」


 金の持つ力は絶大だ。母にアポロンに払う以上のお金を借りたのは、最初から俳優達を説得するため。


「はあ?金で俺らが納得するとでも思ってんのかよ、なあ?」


 裕福な大工の息子であるオリヴァーが皆に同意を求めたが、妻子持ちや、俳優だけで食っていく苦労を知っている劇団員達は、ジャンの条件にかなり心動かされているように見える。


「わかりました」


 皆が迷い始める中、最初に返事をしたのは、オーク座の看板俳優エリックだった。長身の美青年で演技力もあるエリックは、今回も、この舞台のもう一人の主役、月の女神アリアンと恋に堕ちる羊飼いの青年ハリーを演じる。

 ジャンにとって好都合なことに、エリックはその生い立ちのせいか、お金にはかなりシビアな性格だった。


「俺はあなたの条件をのみますよ」

「ありがとうエリック!」


 主演俳優の言葉は、先頭立って了承できずにいた俳優達に、ジャンの条件を飲む理由を与える。


「エリックがそう言うなら仕方ないな」

「なんだよみんな!裏切り者」


 オリヴァーが一人騒いでいると、ダニエルがその代わり!と口を開く。


「一週間でこの素人が端にも棒にもかからなかったら、あんたにはオーク座を辞めてもらうぞ!」

「わかってる、リリーは必ず俳優として物になるから心配しないでくれ。

トーマス、少しの間主演女優なしでの舞台稽古になるが、俺がリリーと稽古している間は、おまえがみんなの指揮を頼む、それからセリフ言うだけでいいから、お前が代わりにアリアンをやっといてくれ」

「はあ?なんで俺が!」

「おまえにもギャラを払う」

「…そうか?」


 渋々ながら頷くトーマスを、オリヴァーが結局おまえも金かよ!と責めていたが、あとのことはもうトーマスに任せるしかない。


「ルカ、おまえはまず俺と二人でセリフ合わせの練習からだ」


 ジャンと俳優達の側で、居た堪れないように立ち尽くしていたルカの手を掴み、ジャンはその場を後にする。


 

 連れて行ったのは、元々は修道院の集会室だった、今は楽屋として使われている部屋。 

 二人きりになった途端、ルカはジャンに頭を下げ謝ってきた。


「俺のせいでごめんなさい、あなたの役に立ちたかったけど、やっぱり俺には…」


 しかしジャンは、ルカに最後まで言わせなかった。


「俺はおまえに、自分には無理だと絶対に思うなと言ったはずだ。俺以外の人間の言葉なんて気にするな。俺の言葉だけを信じろ」


 決然とした声でそう告げると、不安気だったルカの顔に、微かな喜びが宿るのがわかった。

 その歓喜がルカの中で満ちていったのか、ルカは、美しい百合の花弁が、鮮やかに咲いていくような笑顔をジャンに向ける。


「ありがとうございますジャン!俺頑張ります」


 ジャンが初めて、ルカと呼んだ時も、ルカはこの笑顔で自分を見つめてくれた。

 ルカが、ジャン以外の人間にも本名で呼ばれたいと望むなら、それはそれで仕方ない。だけどこの笑顔だけは、自分だけに向けるものであってほしいと、ジャンは愚かな事を願ってしまう。


(て今はそんな場合じゃないのに、何考えてるんだ俺は)


 少しでも気を抜くと、今まで経験したことのない情動に抗えなくなりそうになる己を叱咤し、ジャンはできるだけ厳しい声でルカに告げた。


「一週間と言ったが、遅くても三日後にはあいつらとの稽古に合流する。台詞回し、動き、まずは俺と二人の稽古で完全に頭に入れて完璧にするぞ」

「はい!」


 今の自分は、あくまでもルカを導く演出家だ。時折心を支配しそうになる恋情を頭から追いやり、ジャンはルカと台本の読み合わせから始める。全てはアリアンを成功させるため。

 ジャンの、劇作家としての人生を賭けた父との戦いの火蓋は、ついに切られたのだ。


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