第十一話

「お前も、亡くなったお前の父ウイリアムも、さぞかし私を笑っているだろうな!」

「そんなことは決してございません、陛下は立派な決断をなさいました」

「心にもないことを!若い家臣に翻弄され愚弄され、最後には手に負えなくなり処刑する!こんなに愚かで馬鹿らしいことがあるか!」


(やはり始まったか…)


 ロバートセシルは、心の内で小さくため息をつきながら、女王の感情の嵐が過ぎ去るのを辛抱強く待ち続ける。

 エセックスが処刑されてから、もう4ヶ月以上経つというのに、あの男を思い出す些細なきっかけがあれば、女王はいまだ発作的に正気を失う。

 老いらくの恋。恋といえば聞こえはいいが、二人の間にあったのは、男女の甘い睦みあいとは程遠いものだった。


 生涯独身を貫きながらも、かつてはその知的な美貌で数々の男達と浮名を流してきたエリザベスだったが、老いは誰しも平等に訪れる。50を過ぎ、自分の容貌の衰えを犇と感じるようになったエリザベスは、若い男からの賞賛を異常なほど求めるようになった。

 そんな彼女の欲望を満たすように颯爽と現れたのが、長身で逞しい美貌の青年、エセックス伯だったのだ。


 女王はたちまちエセックスに夢中になり、エセックスもまた、立身出世のため、女王を最愛の女性のように扱った。

 女王の寵愛を一身に浴び、市民からの人気も勝ち得るようになったエセックスは、やがて、宮廷で磐石な地位を築いていたセシル親子を脅かすほどの影響力を持つようになる。  

 だが、セシル親子にとって幸運だったのは、彼が決して賢く思慮深い男ではなかったことだろう。


 エセックスは女王から特別扱いを受けているうちに、エリザベスを自分が支配できる愚かな女だと見くびり、女王に傲慢な態度をとるようになった。しかし、幼い頃から父ウイリアムから女王の話を聞き、父と共に側に仕えてきたロバートは知っている。女王が決して、愚かで甘い女などではないことを。


 確かに、時に女性特有の感情的な癇癪で周りを困惑させることもあるが、もしエリザベスが政治的判断を全て男に委ねてしまう女だったら、この国はとっくに他国の支配下に置かれていただろう。若いエセックスは、目先の出世欲と恋愛遊戯に気を取られ、女王の本質に気づかなかったのだ。



(とはいえ…)


 ロバートは、気が狂ったようにエセックスへの罵詈雑言を吐いたかと思えば、急にしおらしくさめざめと泣く女王を見つめ考える。

 女王も御歳68歳。あらゆる面で、衰えてきたのもまた事実であり、ロバートは密かに、女王の死期もそう遠くはないと確信している。


 そんな、いつ女王が崩御するかわからない状況の中、ロバートが行う最優先任務は、祖父がエリザベス女王の父、ヘンリー8世の姉の息子であったスコットランド王ジェームズ6世を、王位継承者にすべく円滑な準備を整えること。そしてもう一つは、宮廷内の重要な役職を、自分の親類や、長年親密な関係を築いてきたヘッドヴァン家を中心に、全て自分の味方で固めることだった。



『政局を見誤ることは死と繋がる。

 甘言に惑わされず人を見る目を養え。より多くの優秀で誠実な人間を自分の味方につけ、自身も誠実であることが大切だ』


 父ウイリアムが、常にロバートに言い聞かせてきた言葉。

 ヘンリー8世の重臣だったクロムウエルの目に止まり、秘書官として宮廷入りしたウイリアムセシルは、その後、何人もの重臣達が処刑されるのを目の当たりにし、自身も政争に巻き込まれ、一時期ロンドン塔に幽閉された。あの時代を生きぬいてきた父に言わせれば、エリザベス女王の治世は天国のようだという。


 重臣どころか、一度は国の宗教を変えてまで妻にしたエリザベスの母、アンブーリンまでも、男子が産めず、愛が冷めた途端姦淫の罪を着せ処刑した暴君ヘンリー8世の元、父ウイリアムは、フランシスの父である当時のヘッドヴァン家当主、デイビッドと出会った。

 その頃すでに、ウイリアムより一回り以上歳上だったデイビッドは、他の貴族のように、庶民出であるウイリアムを見下すことなく、年齢を超えて親しい友情を育んでいったと聞いている。


 二人は、地獄のような粛清の嵐の中生き残り、やがてデイビットは死の間際、13歳で爵位を継ぐことになる自分の一人息子、フランシスの政治的指南を、ウイリアムセシルに頼み死んでいった。デイビットとの約束を律儀に守りぬいたウイリアムと、ウイリアムを師と仰ぎ成長したフランシスは、時に王位を巡る血塗られた政争や宗教弾圧に翻弄されながらも賢く難を掻い潜り、エリザベス女王が即位した時、ようやく宮廷に返り咲くことができたのだ。

 

 それから40年、ヘッドヴァン家とセシル家の結びつきはより強固になり、エセックスが現れ、貴族達が、エセックス派とセシル派に分かれ壮絶な政争を繰り広げていた時も、ヘッドヴァン家は一貫してセシルを支持し、両家は親密に協力しあってきた。

 しかし、長きに渡った政争も、エセックスが自滅したことで終わり、ようやくいくらか平穏な日々が訪れた矢先、ヘッドヴァン家の長男アランが、不慮の事故で亡くなってしまう。

 5歳ほど年齢は離れていたが、親同士の関係から親しい幼馴染であり、アランの誠実さと優しさを心から信頼していたロバートは、その知らせに絶望した。


 エセックスがいなくなったからと言って、ロバートの立場を脅かす人間がいなくなったわけではない。むしろエセックスの失脚で、かつて新大陸にイングランド初の植民地を築いたウォルターローリーが再び女王に外交の要として重宝され始め、強かで実力もあるこの男に、ロバートは常に警戒心を抱いていた。

 だからこそ、ジェームズ6世が王位についた暁にはローリーを失脚させ、アランを重要な役職につけるのだと心密かに決めていたというのに…。そんなロバートの目論見は全て叶わなくなってしまったのだ。


 だが、ロバート以上に絶望したのは他でもない、アランの父フランシスだろう。

 フランシスは、ウイリアムが息子ロバートを女王の国王秘書長官にすべく手を尽くしたように、自らも最愛の息子アランに、外交官から側近への道筋を作ろうとしていた。

 またフランシスは、セシル家との結びつきをより強めるため、早くに結婚したロバートの、今年16歳になる長女、キャサリンとアランの縁談を持ちかけた。ロバートは勿論すぐに賛同したが、アランが亡くなったことで婚約は白紙になってしまったのだ。


 アランの死は、両家にとってあまりにも損失が大きく、ロバートは、憔悴した様子のヘッドヴァン夫妻に、同情の目を寄せることしかできなかった。しかし、その日から2週間ほど過ぎたある日、フランシスは突然ロバートに、思わぬ懇願をしてくる。


『ロバート、アランは亡くなってしまったが、私はセシル家のように、親子代々宮廷政治の中枢に携わり、ヘッドヴァン家を繁栄させていく夢を諦めることができない。そこで、次男のジャンを私の後継者にすべく教育し直そうと思っているのだが…』


 そう言ってフランシスがロバートに頼んだのは、次男のジャンを、エドワード伯爵と演劇から引き離し、女王に引き合せる協力をしてほしいということ。

 さらに、ヘッドヴァン家とセシル家の長女キャサリンとの婚約も、次男のジャンで考えてみてくれないかというものだったのだが、さすがにロバートも、この申し出には難色を示さずにはいられなかった。


 次男のジャンが生まれた時、既に15になっていたロバートは、彼とほとんど関わったこともなく、アランの葬儀で久々に目にしたくらいだ。

 その上、アランはこの年の離れた弟を可愛がっていたようだが、フランシスからは、演劇に興じて政治に一切興味を示さない不肖の息子だと聞いていた。そんな次男が今更アランのようになれるとも、娘の婿としてふさわしいとも思えない。


(だが…)


 ロバートは深く頭を回らせる。

 やはり、代々続く名門貴族で、豪商ジーク家とも親類であるヘッドヴァン家と親戚関係になるメリットは捨てがたい。

 それに、フランシスが尊敬していたのはあくまでも父ウイリアムだ。その父が亡くなり、エセックスという共通の敵がいなくなった今、フランシスとロバートの関係は、表面上今まで通りの親密さを保っているが、もしこの話を断ったら、本来野心家で女王からの信頼も厚いフランシスが、ロバートを出し抜こうとする可能性もある。

 ローリーが現れ、女王がいつ崩御し王が変わるかわからない不安定な状況の中、今ヘッドヴァン家との関係を悪くすることは避けたい。そうなると、ロバートの選択はおのずと決まってくる。




「ロバート!聞いているのか?」

「はい、もちろんでございます、陛下」 


 女王がエセックスへのあらゆる激情を吐き出している間、ロバートセシルは神妙な面持ちで、これからどう動き、何を言えば女王を自分の思惑通りに動かせるのか考えていた。 

 だが、ロバートの小柄で柔和な佇まいは、彼の計算高く狡猾な本性を見事に隠してしまう。


「取り乱した姿を見せて悪かったな、ロバート」

「いいえ、私も今更、新たに嫌疑が発覚したエドワード伯爵の事などお伺いしたのが悪かったのです」

「そんなことはない。お前は誰かと違って、私に何も伝えず勝手な行動をとる人間ではないから信頼できるのだ」


 エリザベスの発言には、今は亡きエセックスへの皮肉が込められていたが、女王はすでに穏やかで荘厳な空気を纏っていた。

 騒乱と静謐、理性と狂気。女王に仕えていると、常にその相反する性質と対峙することになるが、ロバートにとってそれは、日常の出来事に他ならない。


「ロバート、私はあの男のことで頭を悩ますのにほとほと疲れ果てた。あの男がいなくなり、やっとその苦しみから解放されるかと思えば、今だにあの男の幻影に捉えられ古傷が抉るように疼きだす。処刑から大分日も経ち、共謀者への報復措置もほぼ終わったのだから、いっそのことすべて忘却の彼方に消し去りたいのが私の本音だ。

しかし、疑いのある者を放っておくわけにはいかない。そこでロバート、エドワードのことはすべてお前に一任するがそれでよいか?」 


 思いがけず、驚くほどあっさりと、自分やフランシスにとって都合のいい命を下され、ロバートは拍子抜けする。


「仰せのままに、市民を刺激せぬよう穏便に事を進めて参ります」


 ロバートの心の内など知らぬ女王は満足げに頷き、力尽きたように玉座に腰をかけた。


「もう下がってよい。ロバート、取り乱した姿を見せて済まなかった。まだ若かった頃、お前の父ウイリアムによく諌められたものだが、お前は私に何も言わないな」


 女王の言葉に、ロバートは控えめな笑みを浮かべ小さく首を横に振る。25歳で即位したエリザベスと共に、あらゆる困難を乗り越えてきた父と自分では、女王との繫がりも刻んできた歴史も全てが違いすぎる。

 ロバートは恭しく頭を下げ、その場から立ち去ろうとしたが、ふと足を止め、女王に問いかけた。


「ところで陛下、後ほどでもよろしいのですが、今年の夏の行幸はどうなさいますか?」

「ああ、もうそんな季節か…」


 行幸とは、女王が夏の間ロンドンの宮廷を離れ、国民との交流と休養を目的に行われた地方視察のようなものだ。

 堅実な女王はこの期間、自らの宮殿ではなく、家臣の屋敷などに宿泊し費用を負担させていた。そうする事で、宮廷は経費を節約し、家臣は女王が自分の屋敷に滞在する名誉にあずかることができる。


「もしお身体の具合が優れない様でしたら取りやめにしても…」


 ロバートは女王を気遣うように言ったが、女王の性格を知り尽くしているロバートは、彼女が政治から束の間でも離れられる夏の行幸を取りやめることは絶対にないとわかっていた。


「いや、ここのところ度重なる心労で体調が良くないのは確かだが、この宮殿にずっといるのはさすがに気が滅入る。かといって遠くの地方まで出向くのは正直今の私には身体が辛い。ロバート、お前はどうするのが最善だと思う?」


 女王の返答と問いかけに、ロバートははっきりと、しかし決して強い口調にならないよう細心の注意を払って言葉を述べる。


「そうですね、今回は陛下の体調も考慮して、ロンドンに近い、陛下がゆっくり休養できる場所がよいのではないでしょうか」

「例えば?」 


 ロバートは少し考えるような仕草を見せた後、思いついたように口を開いた。


「ヘッドヴァン家はいかがでしょう?」

「グリニッジか、確かにあそこは自然も豊かでゆっくりできそうだな。しかしフランシスもリディア夫人も、アランを亡くしたばかりで気落ちしているのではないか?」

「確かに。しかしだからこそ、陛下が訪れる名誉は、彼らを元気づける力になるやもしれません」 


 女王はロバートの言葉にすぐには返事をせず、どうしようか思い巡らせているようだったが、やがて決心したように頷きロバートに命じる。


「わかった、お前の提案に従おう、フランシスをここへ呼んでまいれ」

「畏まりました」


 ロバートは再び恭しく頭を下げ、今度こそ女王の部屋を後にする。

 これで、フランシスへの義理はしっかり果たした。ジャンという男が女王に気に入られるかどうか、あとは本人の力量次第。

 ロバートセシルは、生まれつき曲がった背中をさらに小さく丸め、ゆっくりと歩き出した。



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