第16話

「悲しみ……?」


 こくりと頷いて、ラーヌスは淡々と語り出した。


「そもそも『シャドウ』とは、絶命した人間の『魂』の一部なのです。この世に残された未練、とでも申しましょうか。それが善意や優しさならば、全く問題ありません。しかし、人間というものは罪深い生き物でして、未練というと悪性のもの――怒りや憎しみ、悲しみといったものが遥かに多いのです」


 ふむ、と俺は顎に手を遣った。いや、待てよ。


「せんせ……ラーヌスさん。俺は信心深い方じゃないが、『魂』の話は分かる気がする。だが、『魂』は肉体が死んだら天に召されるものなんだろう? それなのにその一部がこの世に取り残される、ってのは合点がいかないというか」

「あなたのお考えは分かります。ですが、こう考えたことはございませんか? やがて天界が『魂』で一杯になってしまうと」


 俺はぴたり、と動きを止めた。


「ちょ、ちょっと待った。まさか――」

「そのまさか、です。天界が、肉体から引き離された『魂』で一杯になったために、重苦しい部分、すなわち悪意が現界に残されてしまったのです」


 俺はぽかんと口を開けた。


「先ほど述べました通り、未練というのはほとんどが悪性です。そして、未練は現界に引き付けられ、なかなか引き剥がすことができません。その悪性の未練が、通常の生き物に非ざる存在――グールやゾンビ、怪物、吸血鬼となって現れ出てくるのです」

「そ、それと『シャドウ』の関係は?」

「飽くまで総称ですが、悪性の未練そのものが『シャドウ』です。それが人間や、既存の動植物に宿ることで、現界に悪影響を与えるのです」


 皆が死者に祈りを捧げ、善意を以て、改めて天界に送り出さねばならない。

 そして、その心によって、天界のスペースを空けなければならない。


 というのが、ラーヌスの言葉だった。


「しかしラーヌスさん、もう手遅れ、なんてことはないのか? 『闇の森』や『闇の城』を見たところだと、既に怪物がうじゃうじゃしてる。悪性の未練で天界はいっぱいいっぱいなんだろう?」

「だからわたくしがいるのです」

「どういう意味だ?」

「わたくしが身を呈して、悪性の未練が現界に下り立つのを、できるだけ防いでいるのです。無論、完璧にとは決して言えませんが」

「あ、あんたが、一人で?」

「左様です。もし私の存命中に、悪性の未練の根源を絶つことができなければ、世界はあっという間に怪物で溢れ返るでしょう」


 俺は思わず、じり、と半歩後ずさった。

 今でこそ、怪物狩りに志願する戦士や賞金稼ぎはたくさんいる。しかし、もしラーヌスが命を落とし、現界に降臨する悪性未練が増したとしたら。


 きっと怪物は、今よりもよほど巨大で頑強、かつ凶暴な存在になるだろう。怪物狩りを生業とする者たちも減ってしまうに違いない。殺されるか、そもそも怪物狩りなど行わないか、あるいはその両方か、それは分からないが。


「あの……」

「何でしょう?」

「訊きにくいことなんだが……。あんたはあとどのくらい、悪性未練の降臨を抑えていられるんだ?」

「そうですね……。わたくしは魔女として、不老不死の力を授かっています。しかしそれと、体外から攻撃を受けて死傷するのとは、また話が違います。もし怪物たちがわたくしの居場所を知り、危害を加えようとすれば、絶対安全とは言えなくなるでしょう」


 俺は音のないため息をついた。

 まさか、自分たちの生活が、こんな薄氷を踏むような慎重さで守られていたとは、夢にも思わなかった。


「おや、キリアが戻って来たようですね」


 その言葉に振り返ると、森の中を静かに、しかし確かな足取りで歩いてくるキリアの姿が目に入った。

 狩猟用の背嚢には、既に解体された兎や鹿の肉が満載されている。


「大漁だよ、マスター! 今晩は焼肉だね!」

「お、おう」


 唐突に日常的な会話に引き込まれ、俺は一瞬、頭が働かなくなった。


「デッドはやっぱり来てないんだね」

「そのようだな」


 両手を腰に当て、嘆息するキリア。


「まあ、僕とデッドが一度に先生の下を訪ねる必要はないんだけど。でもせっかく道中一緒になったんだから、挨拶くらいしていくべきだと思わない?」

「こらこらキリア、先輩を悪く言うものではありませんよ」

「あっ、ごめんなさい、先生」

「もうじき日が暮れます。焚き火用の枯れ枝を集めていらっしゃい」

「分かりました。マスター、手伝ってくれる?」

「ああ、構わねぇよ」


 こうして俺とキリアは、再び森の中に分け入った。


         ※


 その日の夕刻。

 夏と言っても、太陽は既に木々の向こうに没し、空は濃紺が大半を占めている。


「ご馳走様でした!」

「ご馳走様」


 律儀に手を合わせるキリアにつられ、俺もまたあぐらをかきながら頭を下げる。

 食い物に感謝することなんて、一体何年ぶりだろうか。


 しかし、ラーヌスは全く食事に手をつけていない。随分前に聞いた話だが、超高度な魔術師は、人間のような食事を摂らなくても生存可能だと聞いている。

 そういった魔術師は『仙人』とでも呼ぶべきだろう。すなわち、ラーヌスは現界に降臨した『仙人』というわけか。


「先生、お約束通り、悪党と『シャドウ』の手先を始末しました。教えてもらえますよね? 例の件!」


 それを聞いたラーヌスは、微かに口元を歪めた。


「本来なら、あなたのような若者に教えるべき情報ではないのですが……。ええ、いいでしょう」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。『例の件』って、何なんだ?」


『精霊の里』に行って、リンエルを回復させてやることだろうか? いや、だったら俺も関与することだし、蚊帳の外に置かれる謂れはあるまい。

 キリアには、やはり是が非でも為し遂げたい何かがある、ということか。もしかしたら、俺のような部外者が触れてはならない、キリアの過去に関することなのかもしれない。


 やや気まずい沈黙を招いてしまったな。俺はかぶりを振って両手をひらひらさせ、何でもない、とアピールした。


 その時だった。キリアがさっと長剣に手を伸ばし、ラーヌスが切れ長の目を見開いた。

 次いで、俺にも察せられた。


 殺気だ。しかし、今までの怪物や吸血鬼を相手に感じたものではない。その比ではない、濃密な殺気だ。まるで、自分の心にどろり、と不快に纏わりつくような。

 俺も慌ててリボルバーを抜いた。


 あたりは暗い。これでは不利だ。だが、ラーヌスが片手を掲げ、光球を生み出すことで、視野は確保できた。そこで見えてきたものを見て、俺はごくり、と唾を飲んだ。


 俺たちを包囲するように、何かが木々の間から地面を真っ黒に染めていく。それは粘性の高い液体のように見えた。


「キリア、よくご覧なさい。これが『シャドウ』のありのままの姿です。修練の成果を見せなさい。駆逐するのです。わたくしも手伝います。ゴルン様、できる限り高度を取ってください。木々の上へ」

「わ、分かった! キリア、頼んだぞ!」

「……」

「キリア?」


 彼女の方を振り向いて、俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 キリアが、顔を真っ青にして立ち尽くしていたのだ。


 対人戦闘で、身動きせずとも敵を倒す。そんなキリアはずっと見てきた。

 だが、今のキリアは違う。恐怖を感じているのが、ひしひしと伝わってくる。


「おっ、おいキリア! あの『シャドウ』、もうそこまで来てるぞ! 早く迎え撃たねえと!」


 俺が怒鳴りつけても、キリアは呆然としている。長剣を握った右腕も、だらんとぶら下がっているだけだ。


 すると、唐突に『シャドウ』が進行を止め、じりじりと後退し始めた。振り返ると、ラーヌスが目を閉じて呪文を詠唱している。きっと『シャドウ』の進行を押し留めているのだ。

 しかし、ある程度引いたところで、『シャドウ』は止まった。ラーヌスの力の及ばないところまで後退しきった、ということか。


『シャドウ』とて馬鹿ではないらしい。地面に貼りついている部分が押し留められていると気づいたのか、その表面から何かを伸ばし始めたのだ。


 腕だ。無数の腕が、『シャドウ』から生えている。それは関節がなく、ぐにゃりぐにゃりと自在に木々の間を縫ってくる。その先端には、人間のものと思しき手首と指がついていた。


 ラーヌスはこれを、一瞬の腕の振りで薙ぎ払った。しかし、千切れた腕はすぐさま本体と合流し、再び伸びてくる。これではキリがない。


「キリア、こいつらの弱点は? 何か知ってるんだろ?」

「……」

「答えろキリア! このままじゃあ俺たち三人共……」

「……」

「しっかりしろよ!」


 気づいた時には、俺はキリアの頬を張っていた。


「俺たちの力を合わせないと、この『シャドウ』は駆逐できねぇ! 戦ってくれ!」


 次の瞬間、奇声が響きわたった。それはとても、真っ当な精神状態の人間の声ではない。

 今までの冷静さはどこへやら、キリアは滅茶苦茶に長剣を振り回し始めた。

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