中編

 神殿は魔を浄化するために祈りを捧げる場所だ。女神の加護を受けた神具は、瘴気から発生した魔物を浄化する力を持つ。だが、どれだけ適性があろうと、神官が瘴気を消すことはできない。

 瘴気を取り除くことができるのは伝説の聖女だけだという。

 近年は魔物の発生が増加傾向にあり、騎士団への討伐依頼も比例して増えていく一方だった。


 そんな中、女神より託宣があった。聖女がその力を開花させた、と。


 急ぎ神殿の幹部がくだんの聖女のもとを訪れ、治癒術を初めて使ったという少女を保護した。その者こそがクレアだった。

 実家への支援を条件に、彼女は次々と各地の瘴気を浄化していった。聖女が現れたという噂は国内に留まらず、国外にも急速に広まっていった。

 王宮が聖女を取り込むのも時間の問題だった。保護を名目に聖女の住居は王宮に移動し、専用の教師が複数つき、淑女教育も始まった。

 ユリシーズもお茶会の予行練習と称して、彼女とのティータイムに強制参加させられたことがある。内気な婚約者とは違い、社交的で好感の持てる女性だった。

 聖女だからとおごることもなく、身分で差別することもなく、困っている人がいたら下働きの者であっても前に出て助ける――まさしく聖女と呼ぶにふさわしい人物だった。

 社交界に出たことがない彼女のため、ダンスの練習にもユリシーズは駆り出された。皆一様に適年齢だからと答えを返したが、その思惑は他にあることは薄々察していた。

 だからこそ、婚約者に誤解を与えないよう、今までよりもマメに手紙を出し、プレゼントを贈っていた。最初のうちはすぐに返事が届いていたが、あるときからぱったりと手紙が途切れた。

 フィリスはお茶会や夜会も欠席することが増え、会話を交わす回数がグッと減った。たまに学園内で彼女に話しかけようとしても、小さく会釈をしたかと思えば、そのままパタパタと走り去ってしまう。その繰り返しだった。

 反比例にクレアと話す回数は増え、周囲も何かと理由をつけ、気づけば二人きりになるパターンが多くなっていた。

 このままではマズいと、ユリシーズは彼女を王宮に呼び出した。

 火急の用があると偽って。


「……フィリス、その……。元気……か?」

「は、はい。元気です」

「そうか……」


 心なしか、久しぶりに見るフィリスはいつもより小さく見えた。

 出会ったばかりの頃は極度の人見知りで、婚約者となったユリシーズも、彼女の笑顔を引き出すのには苦労した。そんな彼女も年齢を重ねるにつれ、世渡りの術を身に付け、立派な淑女に成長した。

 そう思っていたが、まるで出会ったときに戻ったみたいに警戒されている。

 心を許してくれる間柄になったと思っていたが、さっきからまったく視線が合わない。どれだけ見つめても、フィリスはうつむいたままだ。

 正直な話、淑女の仮面で隠せるようになったとはいえ、もともと彼女は人付き合いは苦手だ。

 そんな彼女がユリシーズの未来の正妃の椅子に残っている理由は、宰相の娘というのが一番大きいだろう。


(このよそよそしさは、公務が重なって会いに行けなかった僕の怠慢が原因だろうな……)


 婚約者との関係修復のため、今日のお茶菓子はいつも以上に気を配った。売り切れ続出で予約者のみの販売となった有名菓子店に頭を下げ、無理言って注文に割り込ませてもらったレモンタルトだ。白いメレンゲが波打った看板商品である。


「き、今日は君の好きなお菓子も用意したんだ。まずは食べてみてくれ」

「……いただきます」


 銀のフォークがタルト生地を切り込み、フィリスが一口頬張る。


「ど、どうだろうか……」

「……大変美味です。殿下もぜひ召し上がってください」


 相変わらず目は合わなかったが、いつになく熱心な勧め方にユリシーズもケーキ皿を手に取り、フォークを動かした。数分後、王宮料理人によって舌が肥えていた自負もあるユリシーズは衝撃を受けた。

 クセがあるようでない、けれどまた食べたいと思わせる不思議な後味にフォークを動かす手が止まらない。気づけばペロリと完食していた。それはフィリスも同様だった。


「これは……評判以上の美味しさだな……」

「ええ、おっしゃる通りです」


 二人でタルトの余韻に浸ること数十秒、ユリシーズは本題をまだ言っていないことに気づいた。慌てて咳払いをし、王宮御用達の紅茶を飲んでいるフィリスを見つめる。


「それで、今日呼び出した用件なのだが」

「……はい」


 コトリ、とティーカップを置く音がする。聞く姿勢になってくれたのにホッとし、ユリシーズは覚悟を決めて話を続けた。


「僕と君の婚約の話だ。君も知っているだろうが、王宮には今、聖女がいる。だが、僕が心に決めた相手はもうすでにいる。だから――」


 心配しないでほしい、そう続けようとした言葉は彼女が急に立ち上がったことで途切れた。髪留めの位置が少しずれたのを片手で直しながら、フィリスは口早に言う。


「申し訳ございません。急用を思い出しましたので、失礼いたします」

「え……」


 呼び止める間もなくフィリスは踵を返した。

 扉が閉まる音がしてから、ユリシーズは弁解の機会を永遠に失ったことに気づいた。


 ◆◆◆


 その後、フィリスにはことごとく避けられ続け、婚約者との不仲説が社交界に広まった頃合いに、ユリシーズは父親から呼び出された。


「お呼びでしょうか、国王陛下」

「ユリシーズ。お前をわざわざ謁見の間に呼んだのは他でもない。お前の婚約の件だ」

「……と言いますと?」


 わざととぼけた風に聞き返すと、国王は玉座に座ったまま嘆息した。


「建国祭の夜会で、ベルラック公爵家の娘との婚約を破棄せよ。そして、聖女クレアを新たな婚約者として周知させなさい」

「…………」

「私の名で公表してもよいが、お前も自分の気持ちを整理したいだろう。……お前も王族の一員だ。私の言いたいことはわかるな?」


 国王が私的な場でなく、あえて公的な場を選んだ時点で、拒否権がないことは明らかだ。横で控えている宰相も口を出さないということは、すでに内々に話を済ませ、了承をもらっているのだろう。

 唇を真一文字に引き結ぶ息子を見て、国王は厳かに告げた。


「話は以上だ。下がりなさい」

「……はい」


 謁見の間から退室すると、護衛騎士のエリクがゆっくりと近づく。そして声をひそめるように、耳元で囁く。


「その顔を見れば、話の内容は大体想像がつくが……大丈夫か?」

「大丈夫そうに見えるか?」

「いや、見えないな」

「……僕は、どうしたらいい?」


 不安からか、声はかすれた。そういえば、喉がカラカラだ。だがこの渇きは水分を摂っても治る気がしない。

 なぜなら、たった今、自分の未来が黒の絵の具で塗りつぶされたのだから。


(フィリス――王族である僕は、君を選べない)


 結果は最悪だが、想定していた事態のはずだ。しかし、いざ現実になると、自分の心がぐちゃぐちゃになっているのがわかる。

 自分が王族でなければ。あのまま聖女が見つからなければ。

 そんなもしもを考えても、先ほどの話が変わることは万に一つもない。あれは提案ではなく、国の命令だったのだから。

 すべては聖女を国に留めておくために。

 ユリシーズがどんなに願っても、あの命令が取り下げられることはないだろう。


(嘘だろう……?)


 最悪の気分のまま、王家と繋がりの深い伯爵家主催の舞踏会に出席すると、自分と聖女との婚約話が進んでいるらしい、という噂を耳にすることになった。

 婚約者のフィリスは体調不良を理由に、今夜の夜会は欠席している。仕方なく一人で参加したが、まさか公式に発表する前から新しい婚約の話が出ているとは思わなかった。

 エリクに調査を頼むと、聖女との婚約話はすでに周りに知れ渡っていて、学園内でフィリスにアプローチする輩もいるという。


(これでは八方塞がりではないか……)


 フィリスからの返事は途絶えたままだ。きっと避けられているのだろう。学園内で彼女の姿を見ることすら叶わない。

 これを絶体絶命と言わず、なんと言えばいいのか。


「……ユリシーズ」


 エリクが敬称を省くのは、二人のときだけだ。ユリシーズは自分の執務室で机に突っ伏した体勢のまま、ぶっきらぼうに答えた。


「なんだ」

「今さら、お前が第一王子なのは変わらないんだし、どうあがいたところで事態が好転するとも思えない。人間、何事も諦めが肝心って言うだろ……?」


 ユリシーズはゆっくり起き上がり、友人兼護衛騎士を軽くにらむ。


「それは要するに?」

「……フィリス嬢は諦めろってことだ」


 わかりきった正論に、ギリッと歯がみする。

 もとより、フィリスとの婚約だって政略結婚だった。そう頭では理解していても、気持ちは一向に整理できない。

 自分から彼女の手を離すことになるなんて、出会ったときには想像もしていなかった。

 ゆっくりと時間を積み重ね、彼女と幸せな未来を築くのだと信じて疑わなかったあのときに戻れたらどんなにいいか――。

 しかしながら、都合よく時を戻す魔法なんてものは、この世に存在しない。

 あるのは残酷な現実だけだった。

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