5月 我が母の教え給いしサングリア
五月になった。
街路樹が若葉でその枝を隠し、桜前線もやっと千歳市のあたりまで上がってきた。花見をしながらのジンギスカンもいいもんだ。そして桜が過ぎれば『さっぽろライラックまつり』がやってくる。
そう、北国にも春がやっと来たと心躍る。夜風にも冬の間の鋭さが消え、優しく感じられるようになっていた。
あれは尊が五月の上生菓子『カーネーション』を出してくれた夜だった。
「そうか、もうそんな時期か」
目の前にある上生菓子は、『母の日』でおなじみのカーネーションの花弁がひとひら、琥珀亭に舞い落ちたようだった。薄紅色の煉り切りを白い煉り切りで包んで、さらに漉し餡を包んである。
さて、それではいただきます……と手を合わせたところに、携帯電話が鳴った。
「誰だね、こんなときに」
出鼻をくじかれたような気分で通話ボタンを押すと、陽気な声がした。
「オババ様、お久しぶり」
その声の主は上杉暁という男だった。千歳市の隣にある恵庭市でバルを経営する真輝の同級生であり、この琥珀亭の先代オーナーの一番弟子だ。
「なんだい、暁か」
電話の向こうで相変わらず大きな声がする。
「なんだいとはなんだい。そろそろ腕がうずうずしないかい?」
「どういうことだ?」
バーボンのグラスを揺らしていると、暁がまるで腕白坊主のように笑った。
「うちの店で演奏を頼みたいんだけど」
暁の店にはアップライトピアノがあり、ときどきジャズやクラシック、ブルースなどジャンルを問わずに生演奏が行われる。
私や大地もときどき演奏させてもらうんだが、小遣い稼ぎというよりは、教室の宣伝や、人前で演奏する貴重な機会を提供してもらっているといったところだ。
「今度のテーマは?」
暁は毎回必ず演奏会にはテーマを用意する。そのほうが客に説明しやすいんだそうだ。
彼はこう即答してきた。
「うん、母の日で」
目の前の上生菓子を見つめて眉をひそめる。
母の日って、何日だったかな。雨森堂の店頭にこいつが並ぶってことは、もうすぐ母の日ってことだろうが。
「もしかして、あまり時間がない?」
暁は悪びれずに、「がはは」と大きな声で笑い飛ばした。
「そうなんだよ。実は昨日来たお客さんがね、大地のチェロを気に入ってるみたいで、また聴きたいって熱くお願いされちゃってね。突貫工事でいけないかな?」
ふぅむ、それなら孫のために頑張ってみるかね。
「いいよ。なんとかしよう」
彼はちょっと考え事をしてからこう切り出した。
「オババ様、曲目とか話し合いたいんだけどさ、わざわざ恵庭まで来てもらうのもなんだから、明日にでも俺が琥珀亭に行くよ」
「そりゃ申し訳ないよ。こっちから行くよ」
「いいんだ。ちょうど真輝に届け物があったから」
「そうかい、じゃあ、頼むよ」
電話を切った後、私は苦々しい顔でカーネーションの花びらを口に放り込んだ。
うむ、曲目はどうしようね。
「お凛さん、どうしました?」
私の顔つきが引き締まったのに気づいたのか、尊が声をかけてきた。今のやりとりを説明すると、彼は「あぁ」と真輝と顔を見合わせた。
「きっと、アレを届けてくれるんですね」
尊の声は浮き足立っていた。
「アレってなんだい」
「明日、わかりますよ」
「ふぅん」
深く追求せずに空になったグラスを差し出すと、尊がにやにやしながら氷とバーボンを足してくれた。
明日の楽しみができたと思えばいいのかね。まぁ、尊がこれだけ浮かれているってことは何か酒に絡むことなんだろうけどね。
私は携帯電話を取り出すと、孫の大地を呼び出した。
その翌日。
私は孫の大地を連れて、琥珀亭に来ていた。
大地は目が大きく、陽気で人懐こい子だ。幼い頃に私の親友である真輝の祖母、つまり琥珀亭先代オーナーの妻にチェロを習っていた。
顔や性格は死んだ旦那にそっくりだが、音楽に関しては私に似ているらしい。息子の小料理屋を大人しく継ぐかと思いきや、チェロを捨てきれずに音大に通いながら一人暮らしをしている。
彼は音楽だけでなく酒好きなのも私に似たらしい。ただ、彼が好きなのはバーボンではなくラムだがね。
「ばあちゃん、お通し食べないなら頂戴」
よく食べる子なんだよ。手をつけずにいたお通しのピンチョスに狙いを定めている。
「あぁ、いいよ」
「ありがとう」
大地が満足げにピンチョスを頬張っていると、琥珀亭の呼び鈴が鳴った。
「お待たせ」
姿を現したのは、白い歯を見せて笑っている男だった。手にはなにやら大きな紙袋を抱えている。
彼こそが、上杉暁という男だった。鍛えた体つきと浅黒い肌をした、艶めいた男で、この私を『オババ様』なんて呼ぶ唯一の存在でもある。
こう言うと彼が馴れ馴れしい人間のように聞こえるが、実は繊細で誰よりも他人に気を遣う質なのを私は知っていた。
「いらっしゃいませ。暁さん、お元気そうでなによりです」
尊が嬉しそうに顔をほころばせる。
「よう、久しぶり。尊も元気そうだね。……オババ様、大地、すまんね、急に」
彼はカウンターに大きな紙袋をどんと置き、腰をおろした。
「いや、いいよ。それより、その紙袋は何だい?」
重そうな袋を顎で指し示すと、暁が陽気に笑った。
「真輝に訊きなよ。ほら、ご所望のレシピだ」
暁から何か書かれた紙を受け取りながら、真輝がにこやかな顔をしていた。
「暁、ありがとう」
「おやすいご用さ。で、こいつが見本」
そう言って紙袋から取り出したのは、大きな保存瓶だった。中身は赤ワインだろう。その中にカットされたオレンジやレモンがまるで花のように浮かんでいた。
「おや、何かと思ったらサングリアかい」
『サングリア』とは、赤ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだ酒だ。砂糖を入れたりもするんだが、材料は分量などの作り方は人によって様々だろう。白ワインで作ると『サングリア・ブランカ』と呼ばれるがね。
真輝が「懐かしい」と目を細める。
「たまにおじいちゃんが作ってたのよね」
尊が私に説明してくれた。
「実はうちでもサングリアを始めようかって話になったんですけれど、レシピが見つからなくて困ってたんですよ。暁さんに相談したら、レシピを書き出してくれたんです」
なるほど、暁は先代オーナーの一番弟子だからね、そりゃあ作り方も教わっているだろう。
暁は真輝に『テキーラ・サンライズ』を注文すると、おしぼりで手を拭きながら白い歯を見せた。
「そういうわけで、ここに来る予定があったんだよ。で、オババ様、曲を決めようか」
「クラシックでいくかい?」
暁の店では曲目はジャズでもクラシックでもロックでも何でもありだ。それは『音楽と一緒に酒を楽しんで欲しい』という暁の方針のようだった。
「特には限定しないよ。ただ、やっぱりバルだから、スペインにちなんだ曲を幾つか弾いて欲しいんだよ」
バルとは、食堂やバー、喫茶店が一緒になったようなスペインの店といえばいいだろうか。タパスと呼ばれる小皿料理をつまみながら飲むわけだ。
「まったく何でも店のイベントにするんだね。この前は桃の節句に『女の子』をテーマに生演奏をしたばかりじゃないか。お客さんだって、演奏を聴いてる暇があったら、直接、母親に感謝の気持ちを表したいんじゃないのかい?」
「だからだよ。お客様が『そうだ、母の日だ。母親に感謝しよう』って思ってくれたらいいのさ」
私は「わかったよ」と頷きながら了解した。人前で演奏する機会をもらえるのはありがたいし、年若い大地にはいい経験になる。第一、面白そうだ。
「とりあえず、飲みながら曲を考えようじゃないか」
そう口にしたところで、大地のグラスが空になっているのに気づく。
「大地、またラムにするかい?」
この言葉に、大地は店内を見回した。違う銘柄のラム酒でも探しているのかと思ったら、彼は意外なオーダーをした。
「尊さん、そのサングリア、飲んでみてもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、サングリアで」
私は思わず「へぇ」と呟いた。
「大地、お前もサングリアが好きなのかい?」
「うん。たまに親父が作ったのを盗み飲みしてる」
思わず笑ってしまった。大地の父親、つまり私の息子は小料理屋をしているが日本酒よりワインが好きなのだ。年に一度あるかないかだが、あいつの家で一緒に飲んだときは、飲み残したワインでサングリアを作ってやるんだがね。
尊がサングリアをグラスになみなみと注ぐ傍らで、真輝がテキーラ・サンライズを作っている。
やがてグラスがカウンターに出そろった。私たちはそれぞれの酒を掲げ、乾杯を交わす。
そう、掲げるだけ。鳴らしはしない。グラスが傷つくからね。そう教えてくれたのは先代オーナーだ。
カウンターに置かれたサングリアの瓶を見つめ、懐かしさに目を細めた。私も彼の作るサングリアが好きだったよ。
乾杯をしてすぐのことだった。大地が大きい目を更に丸くして「あれ?」と素っ頓狂な声を出した。
「なんだい、大地。サングリアにスルメでも入ってたかい」
「違うよ。これ、ばあちゃんの作ったサングリアと同じ味がする」
暁は笑っている。
「そりゃそうだろ。オババ様も俺も琥珀亭でレシピを教わったんだから」
「えぇ?」
素っ頓狂な声を上げたのは大地ではなく、尊と真輝だった。
「なんだ、じゃあ、お凛さんにレシピをきけばすぐにわかったんですね」
「灯台下暗しだったのね」
拍子抜けする二人に、思わず笑ってしまった。
「そうだね。私は暁よりも先にレシピを教えてもらったくらいだ」
琥珀亭の先代オーナーが作るサングリアは格別だった。誰もがそのレシピを知りたがったものさ。
暁はその一番弟子だし、私は親しい友人だったために、同じレシピを特別に教えてもらっている。
すると、大地は奇妙なことを言い出した。
「これが親父の言っていた『お袋の味』かぁ」
「なんだって?」
思わず声が大きくなった。こんな私でもそれなりに料理はしてきたつもりなのに、『肉じゃが』や『みそ汁』ではなく、『サングリア』をお袋の味と呼ばれているのは知らなかった。
「親父がよく言ってるんだよ。『お袋の作るサングリアだけは俺にも朋子にも真似できない』って」
トモコというのは息子の嫁の名前だ。そりゃ、そうだろう。朋子さんは酒がからきしなんだからね。
苦笑しながら、私は大地に言った。
「大地は知らないだろうが、お袋の味はサングリアだけじゃないんだよ」
「そうなの?」
「朋子さんにはうちの味を教えてくれって何度かお願いされたことがあるんだ」
「え? じゃあ、俺もばあちゃんの味付けで食べてるものあるのかな?」
「お前はないだろうね」
「どういうこと?」
私は右眉を吊り上げて見せた。
「聞きたいかい?」
大地はシーフードのマリネに手を伸ばしながら「うん」と頷いた。
脳裏に、無骨で真面目な一人息子が思い浮かんだ。
「まだお前が小さい頃かねぇ。あいつが小料理屋を始めたのは」
メーカーズマークをちびちびやりながら、昔を思い出す。
「あいつは銀行マンだったんだが、小料理屋に憧れるようになったんだ。しまいには銀行を辞めて修行し、とうとう店を持った。だけどそのとき、朋子さんは猛反対してね」
暁が苦笑いを浮かべる。
「まぁ、大抵の奥さんがそうだろうね」
「私は銀行マンでも小料理屋の大将でも、どっちでもよかったさ。あいつの人生だから、好きにすればいい。だけど妻にしてみればそうはいかないだろうね。店を始めたばかりの頃は喧嘩が絶えなかったらしいよ」
「あの親父とお袋が?」
大地が心底驚いている。まぁ、今では仲良くやってる証拠だろう。
「大喧嘩するとね、うちの息子はだんまりを決め込むんだとさ。で、いつも朋子さんから仲直りのきっかけをあげていたらしいんだ。何かわかるかい?」
「わかんない。俺、親父とお袋が喧嘩しているの、見たことないもん」
その言葉に安堵し、思わずため息が漏れた。
「そうかい。そいつはよかった。あの頃は月に一度は大喧嘩していてね。そのたびに、朋子さんは必ず私に電話してくるんだ。うちの味付けを教えてくださいって」
先が読めたらしく、暁がにやりとする。
「小料理屋の亭主の胃袋を掴むなんて、たいした奥さんですね」
「どういうこと?」
大地だけはきょとんとしている。私は「はは」と笑いながら、メーカーズマークで唇を湿らせた。
「みそ汁だったり、煮物だったり、喧嘩するたびにうちの味を教えたよ」
みそ汁に使うのは赤みそ。好きな具はワカメと油揚げ。あいつはしいたけが好きなんだが、煮物に入れるなら干したものがいい。実は牛はあまり好きではなく、肉じゃがもカレーも豚か鶏のほうが喜ぶ。あぁ、それと脂身が好きではないから、鶏はムネ肉がいい。
朋子さんは必死にメモをとっていたっけねぇ。
「あのひと、いつも何も言わずに食べてくれるから」
なんて言っては、好みを教えるたびに「知らなかった」と驚いていたっけ。
最初の頃は彼女もおどおどした声で電話をかけてきたものだったが、喧嘩が少なくなるにつれて、強さが垣間見えるようになった。しまいには自分の知らない好みを教えてもらうことを楽しんでいるようにすら見えた。
「朋子さんはね、喧嘩した翌日にその味付けをした料理をあいつに出すんだ。すると、たちまち機嫌が直るってわけさ」
「ふぅん。そういうもんなの?」
「そういうもんらしいよ」
可笑しいと同時にちょっと誇らしくもあった。
息子というのは嫁にとられるものだ。私は二人のことには一切手出し口出しをしないし、息子は私よりも嫁を大事にする。もちろん、そんな息子を母として立派に思うし、『いい男になったね』と褒めてやりたい。
だが、そんな息子も『お袋の味』には弱い。それを聞いて嬉しく思わない母親がいるかい?
暁が何度も頷いて、しみじみ言ってくれた。
「嫁さんを大事にする上に、母親にも愛情があるって証拠じゃないか。いい男だよ、おやっさんは」
そういうところは、死んだ旦那にそっくりさ。
「最初はね、卵焼きを教えたんだ。朋子さんの卵焼きは塩こしょうだけの味付けで黄色いだろ?」
大地がきょとんとする。
「うん。だって、卵焼きは黄色いでしょ」
「うちの味は違うんだよ、大地。砂糖とみりんと出汁と醤油を入れるのさ。醤油の色で卵焼きもちょっと茶色くなる」
「へぇ、じゃあ、ちょっと甘いんだ!」
「そう。あいつは料理を出された瞬間に、色で『お袋の味』だってわかったらしいよ。黙って卵焼きを凝視して、ゆっくり頬張って、綺麗に平らげてから思わず笑っていたらしいんだ」
くく、と私も笑みが漏れた。
「朋子さんいわくね、その顔がなんともいえぬ笑顔だったらしい。それ以来、喧嘩した翌日にはお袋の味を出すことにしたんだってさ」
私にはその『なんともいえぬ笑顔』とやらを想像できないが、朋子さんの話では懐かしそうな、嬉しそうな顔をしていたらしい。そして、今にも泣き出しそうに見えたんだそうだ。
そのことを話してくれたとき、朋子さんは私にこう言った。
「やっぱり、母親って偉大ですね。すごく嬉しそうな顔でした」
私はこう答えたよ。
「違うよ、朋子さん。その笑顔はね、あんたが一生懸命うちの味を覚えて仲直りしようとしてくれたことが嬉しいんだよ」
実際、そうだと思うよ。あいつはいい嫁を持ったもんだ。
なにより、この孫を産んでくれた。朋子さんだって、偉大な母親さ。
尊が大地のグラスにサングリアを注ぎ足しながら言った。
「大地、知ってるか? サングリアの名前の由来はスペイン語で『血』を意味する言葉なんだよ」
「へぇ、そうなんですか」
「サングリアがお袋の味っていいな。血を受け継ぐみたいに、味も受け継いでいくわけだから」
隣で真輝も静かに頷いた。
「うちでサングリアを出そうって決めたのはワイン・ベースのカクテルを出すためだったの。あまったワインをサングリアに活用しようって思ったのがきっかけ。でもね……」
その声が寂しげな響きをまとった。
「おじいちゃんの味を忘れそうな自分に気がついて、怖くなったのもあるの。私はおじいちゃんがこのカウンターにいた名残をなくしかけていたんだって」
なるほど、それで慌てて暁にレシピをきいたのか。
真輝が大地にそっと微笑んだ。
「そう思ったら、いてもたってもいられなかったの。まだまだ受け継ぐべきものがあるんじゃないかって」
それまでグラスを見つめていた大地が、天を仰いだ。
「受け継ぐ、かぁ」
「どうした、大地?」
「なぁ、ばあちゃん。俺、迷ってるんだ」
不意をつかれて大地を見ると、彼は天井のファンを見つめて、真剣な顔をしている。
「俺、音大を卒業したらばあちゃんみたいにオケに入ったり、教室を開きたいって思ってたけどさ」
「あぁ」
「親父の味を絶やしたくない気持ちもあるんだ」
大地は高校卒業後、息子の小料理屋で修行をしていたが、音楽を捨てきれず音大に入った。だが、今でも週末は小料理屋で修行を続けている。もっとも、それは息子が『週末は人手が足りないから手伝え』と言い出したせいらしい。息子は、音楽の道に進むよりも小料理屋を継いで欲しいと願っているからね。
「でもさ、音楽をやりながら小料理屋もなんて、そんな中途半端なこと親父が許す訳ないしな」
「どうかな。でも、あいつは一本気だからねぇ。二足のわらじは嫌いだろうね」
「どっちも選びきれないって、俺はまだ子どもなのかな?」
大きなため息を漏らし、彼は残り少なくなったサングリアを飲み干した。
「でもさ、どちらも大事なんだよ」
すると、暁が彼らしい陽気な笑い声を上げた。
「もっと欲張ってもいいんじゃないの? 反対されても二足のわらじを選ぶって道もあるぞ。ただし、どちらかを選ぶよりも、もっと厳しい選択だけど」
私は苦笑する。いかにも暁らしい発想だ。
「まぁ、ゆっくり考えるんだね。本当にやりたいことをやればいい。お前には選ぶ自由がある」
そう言ったとき、私の胸の奥にじんと熱いものが滲んだ。そして、噛み締めるように、こう言った。
「だけど、その自由には責任が伴うことだけを忘れなければ、それでいい」
これは祖母として彼に贈る言葉。そして、かつて私が母から言われた言葉だった。
それから私たちは演奏会の曲目選びという本題に入った。ファリャの『火祭りの踊り』やカザルスの『鳥の歌』など、スペインゆかりの曲に決まるまで意外と難航した。
だが、アンコールだけは『我が母の教え給いし歌』にすんなり決まった。チェコの作曲家であるドヴォルザークの曲だが、タイトルが『母の日』に相応しいだろうということになった。
あの有名な旋律を思い出しながら、私はサングリアを一杯だけ飲んだ。オレンジとレモン、シナモンスティック、クローブ……材料を指折り数えて、大地に教えてやりながら。
そして、私は心の中で微笑んだ。
朋子さんがお袋の味を出すのは、喧嘩したときだけだ。あの茶色い卵焼きの味は、大地には伝わらないだろう。朋子さんの塩こしょうの黄色い卵焼きが、いつか大地の嫁に伝わるはずだ。
それでも、このサングリアだけは大地が伝えてくれるかもしれない。いつの日か彼が嫁に教え、いずれはまだ見ぬひ孫に伝わるだろう。
たった一つでも何かを残せれば嬉しいじゃないか。私が母から教わったのは料理ではなく、さっき大地に言った言葉だけだったがね。
我が母の教え給いしものは、一つで充分。一つあれば、それで充分幸せに思う。
死んだ母もそう思っているだろうかね?
思っているだろうね。私によく似た母だったから。
……あぁ、そう願うよ。
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