3月 十年目のアラウンド・ザ・ワールド

 やはり、こうきたか。

 尊が差し出した雨森堂の上生菓子を一目見て、私はにやりとした。

 目の前にあるのはお雛様を模した和菓子だった。二層に重ねた煉り切りで餡を巻くように包み、まるで着物のように見せている。袖に桜の模様まで押してある。


「やはり三月といえばひな祭りだねぇ」


 小料理屋を営む無骨な息子が一人いるものの、娘がいない私には縁がない行事ではある。音大にチェロ専攻で通うたった一人の孫も男の子だった。

 そのせいか、ひな祭りというのは華やかで憧れるものがある。自分に娘がいたらどんな生活になっていたんだろうと、時々は考えるよ。

 それに母を思い出すんだ。几帳面な人で、毎年きちんと雛壇を出してくれたものさ。白酒ではなく甘酒を用意して一緒に飲んでくれたものだが、あれが楽しみだった。そう考えているうちに、妙にあたたかい甘酒が恋しくなった。


 桃の節句といっても、北海道ではまだまだ冬だ。『三寒四温』という言葉のように、雪が溶けてぬかるんだかと思ったら夜には冷えてスケートリンクのように凍っての繰り返し。

 次のオーダーはお湯割りにしようかと思ったとき、琥珀亭の呼び鈴が鳴った。

 おや、今日は随分若いのが来た。

 私は入ってきた男を一目見たとき、そう思った。

 カウンターに座ったのは、無愛想に見える青年だった。年の頃は三十……いや、二十代後半かもしれない。ちゃんと食べているのか心配になるくらい痩せている。おまけに姿勢が悪いせいで、だらけた印象だった。だが、その反面、実直そうな目をしている。


「マスター、お久しぶり」


 ぶっきらぼうながら親しみがある声だ。


「水沢さん、今日は遅い時間なんですね」


 尊が意外そうな顔でおしぼりをウォーマーから取り出している。


「いつもは口開けが水沢さんってことが多いのに。なんだか、また痩せたんじゃないですか?」


 おしぼりを出しながら心配そうに訊ねている。相手は無気力な声で「はぁ」と漏らし、首をすぼめた。

 彼は常連の一人ではあるらしいが、私は面識がなかった。いくら私でも、全部の客を知ってる訳じゃない。バイオリン教師という仕事があるから、飲みに来るのも遅い時間が多い。彼のように開店すぐに来るような客なら尚更、顔を覚えにくいはずだった。


「なんだか、お疲れのようですね」


「最近、出張が多くて忙しいんですよ。今日も残業で」


「大変ですね。食事はとれてます?」


 いたわるような声の尊に、彼はぶんぶんと手を振っている。


「いや、大丈夫、痩せているのは元々ですよ。食べても太れないんです」


「あぁ、そうだったんですか。うちのオーナーと一緒ですね。羨ましい」


 琥珀亭のオーナーである真輝、つまり尊の妻も痩せの大食いだ。食べた分だけ肉になりやすい尊は、妻のそういう体質が心底羨ましいと常々言っている。それを知ってか知らずか、水沢という男は「はは」と愉快そうに笑った。


「水沢さん、何にします?」


「とりあえずビール」


 おやおや、彼が言うとまるで居酒屋にいるみたいだね。私は心の中でそう苦笑した。でも悪くない。

 水沢は綺麗に泡の盛り上がったビールを持ち上げ、喉を鳴らして飲む。グラスを離すと「くはぁ」と、実に小気味よい声を上げた。


「いやぁ、やっぱりマスターの注ぐビールが一番だ」


「ありがとうございます」


「本当、ここのビールって何故か美味いんですよね。たまに不味い店もあるんだけど、あれはなんでだろう?」


 ビールサーバーは毎日きちんと掃除しないと味も落ちる。彼はそのことを知らないのだろう。尊は何も言わずにただ微笑んでいた。

 この水沢という男、一見すると可愛げがないようで、なかなか人なつこいところもあるようだ。一口飲んだグラスを置き、いそいそと尊に話しかける。


「ところで、マスター。今日はオーナーがいないんですね?」


 この男は真輝が目当てだったかと思ったが、すぐに違うらしいと気づいた。彼の左手の薬指で結婚指輪が光っているからね。


「えぇ。今日は高校の同窓会でお休みをいただいてるんです」


 真輝は今頃、駅前の居酒屋で楽しく過ごしているだろう。今夜の琥珀亭は尊が一人で切り盛りしていた。


「そうか、ちょうどよかった。俺、マスターに訊きたいことがあったんです。だけど、オーナーの前じゃアレかなぁと思ってたところで」


「アレって、何ですか」


 冗談めかす尊とは対照的に、水沢の顔は至って真面目だった。


「あの、お二人はご夫婦ですよね?」


「はい。去年、結婚しました」


「新婚旅行って行ったんですか?」


「え? 新婚旅行?」


 ちょっと目を見開いたが、尊がにこやかに笑って答えた。


「いや、うちは行ってないんです」


「どうしてですか?」


「妻は飛行機が大嫌いでして」


「本当に?」


 尊は少し戸惑いながら、頷く。


「え? えぇ、本当ですよ」


「じゃあ、結婚式は?」


「それはしました。ささやかなものですけど」


 彼らの結婚式を思い出し、私は思わず唇の端に笑みを浮かべた。私も孫も招待されたんだが、実に素敵だった。真輝と二人で長い時間をかけて準備したらしい。派手ではないにしろ真心のこもった式だったよ。

 それを思い出したのか、尊が少し照れくさそうに、鼻の頭を掻いている。そういえば、こいつ、感極まって少し泣いていたっけねぇ。


「式は挙げずに済まそうかって考えたんですけど、ほら、うちは商売なんで、あちこち付き合いのある店に出向いて挨拶する手間を省くって意味もあって」


 そこで尊はカウンターから身を乗り出し、声をひそめてこう付け加えた。


「本当は、俺の貯金じゃ式を挙げるので精一杯だったんです。旅行まで手が回らなかったところなんで、妻の飛行機嫌いに感謝しなきゃ」


 冗談なのか本当なのか知らないが、尊はにやりとした。すると、水沢が何を思ったか大きなため息を漏らす。


「そうですか。奥さんが飛行機嫌いだったらいいですよね」


 飛行機嫌いの何がいいんだ?

 私が興味津々で耳を大きくしていると、水沢はぽつりとこう言った。


「あの、マスター……相談にのってもらえます?」


 なんとも弱弱しい声と共に、彼の背中がしゅんと縮んでしまった。


 水沢がぼそぼそと話し始めた。私は耳をそばだてて、バーボンをちびちびやる。


「俺、十年前にうちの奥さんと結婚したんですけど、それが高校を卒業してすぐだったんです。まぁ、つまり先に子どもができちゃったわけで」


 なるほど。昨今ではよく聞く話だ。それにしても、結婚生活十年目で子どももいるようには見えないね。


「知り合いのコネで今の会社に入ったんですけど、安月給からのスタートで。式も挙げてやれなかったんですよ」


 北海道の結婚式は招待制ではなく会費制だが、それでも先立つものがいるからね。


「でも、奥さんの両親が娘のために結婚式の費用を出すって言い出してねぇ」


 尊が「へぇ、そりゃすごい」と相槌を打っている。


「うちの奥さんはウェディングドレスを着るのが夢だったんですよ。滅多にわがまま言わないんですが、このときばかりは『新婚旅行はなくてもいいから式だけは』ってせがまれたんです」


 まぁ、お腹が大きくなる前に着ておかないと、結局子育てに追われて着れないままになってしまうからねぇ。


「そういう経緯があって、式だけは挙げたんですよ。うちの両親はその日暮らしなんで、申し訳ないやら有り難いやらって泣いてたけど」


 彼はうつむき加減で話を続ける。


「俺、その後で何年かかかったけど、式の費用は向こうの両親に返したんです。けれど、問題はここからなんです」


 尊が先を促すように、頷く。


「結婚式の後で奥さんの両親が『新婚旅行も費用はなんとかするから、海外に行っておいで』って言ってくれて」


 ほう、それはまた親ばかというか、懐がでかいというか……いや、懐があったかいんだな。


「親心だとは思うんですけど、俺……すごく悔しくて」


 ちょっと意外そうに尊が首を傾げる。


「悔しいんですか? ありがたい話だと思いますけどねぇ」


「え? そりゃ悔しいですよ。だって、本当は俺が式も旅行も用意してあげたかったのに、金がないばっかりに」


 そう言って、彼はうなだれた。


「……いえ、金がないというより、甲斐性がないのが悔しかったんです。式は奥さんの夢だったから折れましたけど、せめて旅行くらいは自分の力で行きたくて」


 なるほど、男気はあるらしい。気に入った。


「でも、そんな情けないこと言えなくて、俺……咄嗟に嘘をついたんです」


 尊は「といいますと?」と、じっと彼が話すのを待っている。水沢が少しためらった後、小声でぼそぼそと打ち明けた。


「俺は飛行機が大の苦手で、旅行は勘弁してくれって言ったんです。本当は全然平気なのに」


 思わず眉をつり上げてしまった。そんな嘘をついてしまったら、自分で旅行に連れて行けるようになったときに誘いにくくなるじゃないか。


「いや、もちろん、子どもが生まれるから旅行する金があったら貯金しようとも言いました」


 水沢が慌てて弁解している。


「一応、向こうの両親も奥さんも納得してくれました。それで、新婚旅行は行かなかったんです。でも……」


 ふっと彼が口をつぐんでしまったので、尊が「でも?」と首を傾げる。水沢は大きなため息を吐き、ビールを飲んでからまた口を開いた。


「この間ね、見つけちゃったんですよ。箪笥の奥に、いろんな国の旅行のパンフレットがしまい込んであるんです。それが随分古くて、日付を見たら、十年前のものばかりなんですよ」


「あぁ、水沢さんがご結婚された頃のものってことですか」


「そうなんです。あいつ、本当は旅行に行きたかったんだなぁって思うと、罪悪感が押し寄せてきてしまいました」


 水沢は見ていて可哀想になるほど、がっくりとうな垂れた。


「でも、今更『飛行機、実は平気です』なんて言えないんですよ。どんな顔して言ったらいいものか……」


 尊が、腕組みをして唸る。


「十年も内緒にしてたら、さすがに言い出しにくいですね」


「そうなんですよねぇ。しかも今月、十年目の結婚記念日があるんです。でも俺、何をしてあげたらいいか見当もつかないんです」


「奥さんに何かプレゼントでも用意してさしあげたら?」


「それが、あいつ欲しいものは何もないって言うんですよ」


「あぁ、そりゃ困りますね」


 尊は苦笑したが、他人事ではないらしい。


「わかりますよ。俺も記念日ってどうしていいかわからないタイプなんです。いつも、そこにいるお凛さんに相談してます」


 突然、尊が私に話をふってきた。私が耳をそばだてているのに気づいていたらしい。


「なんだい、私の出番かい」


 苦笑する私に、水沢が助けを求めるような目で話しかけてきた。


「どう思います? 旅行に連れて行ってやりたくても今更言い出せないし、かといって他にどう祝おうか見当もつかないし」


「あんた、お祝いが云々よりも、本当は飛行機が平気だって打ち明けたいだけなんじゃないのかい? 嘘をついた罪悪感が辛いんだろう?」


「……はい。そうなんです」


 水沢は悲しそうに言った。


「一生懸命に家事をこなして俺を支えてくれる奥さんを見てると、悪いことしたなぁって辛いんですよ。こんな想いをするくらいなら、男のメンツなんて捨てればよかったかもしれないけど、俺はそうできなかったんですよね」


 なんだか、気の毒になってきた。

 私はグラスを置いて、こう提案する。


「じゃあ、とりあえず奥さんをここに連れてこようじゃないか。真輝にも協力してもらって、記念日に何かサプライズでもしよう」


 尊が「ふぅん」と細い顎をさする。


「お凛さん、それはいい考えですけど、どうやって飛行機嫌いを打ち明ければいいんです?」


「そこが、尊の腕の見せ所じゃないか。打ち明けやすいように場を作るんだよ」


 それから私たちは顔を寄せ合って、計画を練った。

 話がまとまる頃には、なんだかわくわくしてきた。もっとも、当の水沢は終始おどおどしていたが。


「……それなら、なんとか言えるかなぁ」


 計画をまとめたところで、水沢が弱弱しく呟く。

 私はウイスキーのグラスを揺らしながら笑い飛ばした。


「奥さんに嘘をついていたくないなら、覚悟するしかないだろ。そのために私もただ働きするんだからさ」


「そうか。そうですよね。じゃあ、よろしくお願いします」


 面白くなってきた。私は計画をすすめるために、携帯電話を取り出した。通話履歴から呼び出したのは、一人の男だった。


 結婚記念日当日、琥珀亭の扉には『本日二十時まで貸切』という私の書いた張り紙があった。

 尊と真輝、そして私が待つ琥珀亭に、水沢夫婦は開店と同時にやってきた。


「いらっしゃいませ。ようこそ、おいでくださいました」


 真輝がにこやかに二人のジャケットとコートを受け取った。

 カウンターの中央にはキャンドルが優しく灯っていて、そこに座った二人を穏やかに照らす。

 水沢の妻は、彼に負けず劣らず細い体つきをした綺麗な子だった。飾り気がなく地味な印象ではあるが、そこがまた好感が持てた。

 彼女はベージュのワンピースに身を包み、胸元にパールのネックレスが光っている。足元は淡いピンクのハイヒールだ。歩き方を見るとヒールの高い靴には不慣れらしく、この日のために精一杯洒落込んできたのがわかる。私は思わず微笑んでしまったよ。


「すみません、貸切にしてくださったんですね」


 すっかり恐縮する妻は、可愛らしい声で何度も頭を下げる。尊が「いえいえ」と微笑んでいた。


「十年目の結婚記念日、おめでとうございます。今日、こうしてお祝いすることができて光栄です」


 尊がそう言うのを合図に、私がオードブルを運びだした。生ハムとオリーブのカナッペ、うずらの卵とチーズとミニトマトのピンチョス、チキンのフリッター……他にも朝から尊と真輝が丹精込めて作った料理がカウンターを埋めていく。


「そして、こちらは当店から」


 そっと、尊が小さなケーキを置く。薄いピンク色をしたストロベリー味のショートケーキだ。

 その傍らで真輝が、手早くシャンパンを開けた。細長いグラスに、微かな泡をたてながら注がれる。水沢夫婦はうっとりしながら、ライトに輝くグラスに見入っていた。

 全員のグラスが用意されたところで、水沢が妻に向き直る。ぎこちない様子でグラスを差し出すと、しどろもどろにこう言った。


「十年、支えてくれてありがとう」


「カズ君、こちらこそ、いつもありがとう。これからもよろしくね」


 おやおや、水沢は『カズ君』と呼ばれているらしい。照れくさそうな水沢が「乾杯」とグラスを持ち上げた。

 私は二人のグラスが半分くらいになるのを確かめてから、カウンターの影で携帯電話を鳴らした。

 しばらくして、琥珀亭の扉が呼び鈴を鳴らした。


「こんばんは。音楽のお届けものです」


 入ってきたのは、私の孫の大地だ。その手にはチェロケースを抱えている。水沢と計画を立てた夜、音大でチェロを専攻する彼に連絡をとって、この日のためにスケジュールを空けてもらったってわけだ。


「え? 音楽?」


 たじろいでいる水沢の妻を尻目に、大地がケースを下ろして椅子を運んだ。バッグから譜面台を取り出すと、慣れた手つきで組み立てて、楽譜を乗せる。

 尊が水沢夫婦に笑みを向けた。


「彼の演奏は素晴らしいですよ。期待してください」


 はは、私から見ればまだまだだがね。

 だが、大地はまんざらでもない顔をして、ケースを開く。中から取り出したのはライトに煌くチェロだ。


「うわぁ、綺麗!」


 水沢の妻が無邪気に感動している。計画を知る水沢ですらも、感嘆の声を漏らした。あまりチェロを身近で見る機会というのは、ないのかもしれないね。

 それと同時に、カウンターの中にいる真輝もなんだか感慨深い顔をしていた。真輝の祖母もチェロ奏者で、大地の最初の師匠なんだ。そのせいか、その顔にはまるで慕情のようなものが浮かんでいた。

 大地はこの日のために、細身のスーツで正装していた。うん、ネクタイもなかなかいいね。恋人の千里ちゃんにでも選んでもらったんだろうか。

 あらかじめ『大事な記念日なんだから、いつものジーンズで来るんじゃないよ』と言っておいたんだ。孫のスーツ姿は滅多に見られないが、これこそある意味、本当の『馬子にも衣装』だ。

 死んだ旦那にますます似てきたと、妙に胸の中が熱くなるのを感じながら、店の奥に隠しておいた自分のバイオリンと譜面台を取り出した。

 私が店の中央に歩み出ると、大地は椅子に座り、チェロのエンドピンを調節した。

 お互い弓を張って、A線を鳴らし合い、調音する。視線を合わせ、『さぁ、いこうか』と言葉なしに笑った。


 私たちは水沢夫婦に向かって一礼した。ここからはエレガントな時間を届けるのさ。


「初めまして、奥様。私は市内でバイオリン教室を主宰している三木凛々子と申します。こちらにいる私の孫の大地と、ささやかながら音楽をお贈りします。なに、店のBGMだと思ってお気軽にどうぞ」


 大地が左手と弓を構え、大きな目で私に視線を送る。『いつでもいいよ』と、彼の口元に笑みが浮かんだ。


「それでは、エルガーの『愛の挨拶』を」


 ふっと吸い込む大地の呼吸に合わせて、私たちは弾きはじめた。大地はこういうサプライズが好きなせいか、いつもより生き生きした演奏をしていた。

 それにしても、我ながらベタな選曲だがね。今日というよき日にこれほど相応しい曲はないじゃないか。いたわりあい、包み込むようなメロディのぬくもり。優しい、優しい旋律だよ。


 演奏が終わると、水沢夫婦はとびきりの笑顔で拍手を贈ってくれた。


「ありがとうございます! 私、もう感動して……」


 嬉しいじゃないか、最後のほうは涙ぐんで言葉になっていないんだから。


「お二人とも、おめでとうございます! いやぁ、いいですねぇ、こういうの憧れちゃうな」


 大声でそう言いながら、大地がチェロを置く。まったく、情緒の欠片もない上に、人見知りしないところまで死んだ旦那そっくりだ。

 スタンバイしている間に腹が減ったらしく、大地は目を輝かせてカウンターの端に居座った。真輝が笑いをこらえながら、大地の分のオードブルとケーキをよそってくれる。

 私も大地の隣に腰を下ろした。これで、私のただ働きは終わりだ。やれやれ、肩の荷が下りた。


「それでは、続きまして私たちから、カクテルを」


 そう言う真輝がシェイカーを二つ取り出した。

 尊と真輝、それぞれが同時にカクテルを作り出す。カウンターの上にはジン、ペパーミント、パイナップルジュースが並べられていた。

 二人揃ってシェイカーを振ると、氷の派手な音が琥珀亭に響き渡った。

 水沢が「おおう」と思わず声を漏らし、妻は目をキラキラさせて見蕩れている。

 尊の照れくささをかみ殺す顔ったら。真輝もなかなかいい顔をしている。まぁ、バーテンダーの腕の見せ所だからね。

 そして二人に同時に出されたのは、カクテル・グラスに注がれた緑色の『アラウンド・ザ・ワールド』だった。

 『アラウンド・ザ・ワールド』は鮮やかで美しい緑色をしているカクテルだ。グラスの縁にはやはり緑色のグリーン・チェリーが飾られている。アメリカのバーテンダーが考案したとされる、食後にぴったりのさっぱりした味だ。

 尊の凛々しい声が響く。


「こちらは『アラウンド・ザ・ワールド』でございます。どうぞ」


「すごい! 綺麗!」


 水沢の妻は、あまりバーに来ないのか、驚きながらグラスに見入っていた。だが、あまりにもずっと見つめて手を伸ばさない。とうとうしびれを切らした水沢が「ほら」と声をかけた。


「あ、うん。なんだか勿体無くて」


 苦笑すると、彼女はゆっくりグラスに口をつけた。


「いかがですか?」


 真輝の声に、彼女はとびっきりの笑顔を向けた。


「美味しいです!」


 尊と真輝もほっと胸を撫で下ろしたようだ。すると、今度は水沢が妻のほうに膝を向けてこう言う。


「今度は俺からプレゼントがあるんだけど」


「えぇ? カズ君まで! 今度は何?」


 サプライズの連続に興奮しているのか、彼女の頬がすっかり染まっている。

 水沢が目で合図すると、尊がカウンターの下から薔薇の花束と、リボンのついた紙袋を取り出した。

 それを受け取った水沢が、妻にそっと差し出した。歓声を上げる彼女に、水沢は恐る恐る言う。


「プレゼント、開けてみて」


「うん」


 彼女が袋を開けて驚きの声を上げる。

 そりゃ、そうだろうね。なにせ、袋から出てきたのは何十冊もの旅行のパンフレットの束だったからだ。


「これ……旅行の?」


 口をぽかんと開けた妻に、水沢は勢いよく頭を下げた。


「ごめん!」


 彼の妻の口がますます広った。


「カズ君、一体どうしたの?」


 彼は頭を下げたまま、言った。


「お前が箪笥の奥にしまったパンフレットの行き先、全部揃えてある。他にもいろんな国のやつを足してある。どこでも行きたいところを選んでくれ!」


「え? あの、え?」


 おどおどする妻に、真輝が優しく話しかける。


「奥様、こちらのカクテルは『世界一周』という意味なんですよ。旦那様のご希望で、是非奥様に召し上がっていただきたいと」


 彼女はぽかんとしたまま、自分の夫を見つめていた。水沢はまだ頭を上げられずにいた。


「本当はさ、そのパンフレットの行き先全部って言ってやりたいんだ。だけど、情けないけどそうは言えないからさ。せめてカクテルだけは『世界一周』しようと思ってお願いしたんだよ。一カ所でごめんな?」


「ていうか、カズ君、飛行機乗れないでしょ?」


「ごめん。本当にごめん」


 彼が苦々しく繰り返す。


「……実は、俺、平気なんだ」


「カズ君……」


「本当は飛行機なんて怖くもなんともないんだ。だけど、新婚旅行のとき、お前の両親に世話になりっぱなしの自分が情けなくて、せめて旅行はいつか自分の手で行きたくて、思わず嘘をついたんだ」


 妻が無言で見守る中、彼はびくびくしながら頭を上げた。


「ごめんな。俺、ずっとお前に嘘ついてたんだ。だけど……」


「もう、いいよ」


 水沢の言葉を、妻が打ち消した。


「……怒ってるか?」


 その答えを、その場にいた誰もが固唾をのんで待った。すると彼女は「仕方ない人ねぇ」と苦笑したのだ。


「私、とっくに知ってたよ」


 今度は水沢がぽかんと口を開ける番だった。


「カズ君ってば、気づかないと思ってたの? カズ君が飛行機に平気で乗れることくらい、とっくにわかってたよ」


「どうして? なんで?」


「だって出張で飛行機に乗らなきゃならないのに、一言も『嫌だ』とか『怖い』とか言わないで平気な顔してるんだもん」


「へ? あ、あぁ、あぁ」


 まるでキツネに化かされたかのように、水沢が腑抜けた声を上げている。私は隣で笑いを堪えている大地を肘で小突いた。


「そうかぁ、そうだよなぁ」


 水沢は呆然としている。すると、妻が目を細めて、そんな彼を見つめた。自信に満ちた声でこう言いながら。


「私を誰だと思ってるの? カズ君の奥さんだよ?」


 真輝が吹き出す。


「水沢さん、奥様の方が上手でしたね」


「本当に。はは、本当だ」


 たまらず、誰もが笑い出した。しかし、それも落ち着くと、水沢がしんみりした顔になる。


「ごめんな。あのとき、本当は新婚旅行に行きたかったんだろ?」


 すると、彼女は何とも言えぬ複雑な顔をした。


「正直、あのときはね。でも、いいの。なにも旅先でなくても、私たちにはすぐにとびきりの思い出が出来たじゃない」


「え?」


「子どもが生まれてからは、毎日が新鮮だったでしょ。旅なんかよりずっと驚きの光景の連続だったもん」


「はは、そうだよなぁ」


 妻は静かな笑みを浮かべた。そして、私たちを見回して、深く深く頭を下げた。


「皆さん、ありがとうございました。とびきりの記念日になりました」


 そう言った彼女の顔は、誰よりも晴れ晴れとしていた。

 きっと、結婚式の日も彼女はこんな顔をしていたんだろう。けれど、今日はそのときよりももっと美しい笑顔のはずだ。


 水沢夫婦は何度も何度も礼を言い、肩を寄せ合って帰って行った。

 残されたカウンターで、大地がネクタイを緩めながら言う。


「いいなぁ、あの夫婦。俺も千里とあんな風になれるかなぁ?」


「何を言ってんだか」


 私はニヤニヤして孫に言ってやった。こいつの彼女の千里は図書館司書をしていて、大地よりも年上だ。小動物のような可愛い顔をして、なかなかのしっかり者だからね。


「あんたは水沢よりも、もっと嫁の手のひらの上で転がされるよ」


「ひどいなぁ、ばあちゃん!」


 真輝と尊も高らかに笑う。その場にいた誰もが私の言葉に同意らしい。

 ふてくされた大地が、空になった『アラウンド・ザ・ワールド』のグラスを指でつついた。


「あの人たち、どこの国に行くのかな?」


 すると真輝が妙に自信たっぷりに言いきる。


「どこにも行かないと思うわ」


 きょとんとする大地に、真輝がにっこり微笑む。


「だって、我が家が一番ですもの」


 はは、真輝らしい一言だ。大地はいまいち解せない様子だが。


「そういうもんなの? 家にいるより旅行のほうが楽しいじゃない?」


「楽しさはどこにでも転がっているし、とびきりの光景ほど家の中に隠れているものよ。まぁ、私は飛行機が嫌いなだけですけどね」


「そうだよなぁ、真輝の飛行機嫌いは根強いからね」


 苦笑する尊に、真輝の目が光る。


「あら、船旅ならいいのよ? 新婚旅行のときはなかったけど、今ならあなたのへそくりも増えたし、それでどこかに行きましょうか? スコットランドで蒸留所巡りでもどう?」


「冗談だろ? ていうか、あのとき貯金足りなかったこと知ってたの?」


「そりゃあ、だって、あなたの妻ですもの」


 琥珀亭にまた笑いが溢れた。ときには頬が痛くなるくらい笑うってのも、いいもんだ。たとえバーで酒も飲まずにただ働きしたとしてもね。


 私は今日初めての一杯を口に含ませて目を細めた。しんみり優しい味がしたよ。

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