第23話 さようなら、ベネディクト

 モニカが去った数分後、私はようやく外に出た。

 

 先ほどから気持ちを静めようと努力しているが、彼女の向けてくる身勝手な悪意に呆れると同時に、腹が立って仕方ない。

 エリックとマリーの逢瀬を見た時でさえ、こんな気持ちにならなかったのに。

 今はぐるぐると渦を巻く感情に我を忘れそうだ。


 父様に頼めば、モニカの実家に圧力をかけて、彼女を追放させることも出来るだろう。

 

 しかし、それだけはしたくなかった。


 伯爵家の力は私自身の力ではない。貴族権力を振りかざして彼女を排除して得た場所で、私は今までのように過ごせるだろうか。

 いいえ。きっと私は、貴族として、一人の人間として、自分を恥じて責める。

 

 冷静になろうと思えば思うほど上手くいかない。

 ふと自分の手を見ると、血の気を失って冷たくなった指先が怒りで震えていた。


「落ち着け、私。冷静になるのよ」


 渦巻く感情を整理するために深呼吸していると、しずかな廊下に忙しない足音が響いた。音は声になり、近付いてくる。


「ミスティ、お前どこに行ってたんだよ!」


 駆け寄ってくるベネディクトに、いつものように「遅くなってすみません。帰りましょう」と言いかけて口をつぐむ。

 先ほどのモニカの言葉が頭をよぎった。


 思わず数歩後ろに下がってしまう。


「ミスティ?どした、顔色悪いぞ。大丈夫か」


 心配そうにこちらを見つめる彼に言葉を返そうとして――できなかった。


(いま、私があなたの側にいるのは、果たして正解なのでしょうか)

 

 もういない兄のために近衛騎士になりたい――綺麗な瞳で語る彼の足を、引っ張りたくない。

 私を明るく照らしてくれる彼の大事な夢を壊したくない。


 本当はモニカの悪意になんか負けたくないけれど、混乱した今の私が迂闊に近づけば、きっと彼を傷つけてしまう。大切な夢を壊してしまう。

 

(私は、あなたが大切です。いいヤツだと褒めてくれた、私が変わるきっかけをくれた、あなたを傷つけたくない。守りたいんです。だからきっと……私は、あなたのそばに、いない方がいい)


 一人でいることには慣れている。さようならを言うことにも慣れている。

 私はまた一匹狼に戻って、ベネディクトは剣試合で勝ちを狙いに行き、夢を叶える。


 もともと私たちは婚約者でも親友でもない、一緒に帰るだけの曖昧な関係だったのだ。

 

(『一緒にいたい』、なんて言える立場じゃない)


 母様は私がわがままを言ったから亡くなった。

 

 私が、ぬいぐるみが欲しいと駄々をこねなければ、今も幸せに生きていたはず。


(あの時、もう二度とわがままは言わないと決めたはずよ)


 私が離れることでベネディクトが幸せになれるのなら。

 彼のくれた温もりと優しさに報いることが出来るのなら、何も迷うことはない。

 

 温かな夢のような日々はいつか終わりを迎える。きっと今がその時。

 私たちは、それぞれの現実に戻って、いつもどおりの日常を送る。そうすれば、誰も傷つかず幸せになれるのだ。難しく考える必要なんてない。簡単なことじゃないか。


「ミスティ?おーい、ミスティさーん、応答ねがいまーす。なんだよー、ぼーっとして。お前なんか見えてんの?ま、まさか、幽霊か!幽霊なのかっ」

「ベネディクト」


 一人で青くなったり身震いしたり、無邪気に騒いでいた彼が「ん?」と首をかしげた。


「しばらく、帰りが遅くなるので、今日から別々に帰りましょう。私はもう少し残業してから帰ります」


 私は努めて普段どおりに告げた。

 

 こうやって会う機会を減らすことで、徐々に関係を希薄にしてゆくつもりだ。ひどい言葉で彼を拒絶して傷つけることだけはしたくなかった。

 

 私は、彼を悲しませたいわけじゃない。ただ、幸せになってほしい。


「残業するって……。もう日付変わるぞ?最後の乗合逃したらどうやって帰るつもりだよ」

「私は貴族ですよ。我が家の馬車を呼びますのでご安心ください。お気遣いありがとうございます。私は大丈夫なので、先に帰って下さい」


 以前の他人行儀な口調で突き放すように言うと、彼は戸惑いを隠せない様子で私の手首をやんわりと捕らえた。


「何があった?誰かに何かされたのか?」

「違いますよ。ただ、一人になりたいんです。私はもともと、他人と接するのが苦手です。一人の方が楽なのです。だから、お願いですから、私を、一人にしてください」


 一言一言はっきり口にして、手首にある温かな指先をほどく。


 その瞬間、ベネディクトが切ない表情を浮かべた。何か言おうとして口を開くが、私の無表情に何と言って良いか分からなくて、口を閉じる。


 言葉を探して、必死に私を引き留めようとしてくれる彼の優しさに、胸が苦しくなって、涙がこみ上げそうになる。

 

(ごめんなさい。あなたに、そんな顔をさせたくなかった。ごめんなさい。こんな方法しか思いつかなくて、ごめんなさい。ベネディクト)


 顔を見られたくなくて、私は彼に背を向けた。


「さようなら。ベネディクト」


 「ミスティ!」と名を呼ぶ彼に答えることなく、私は廊下をまっすぐ進んだ。

 彼は右の玄関口へ、私は左の執務室へ。それぞれ別の道を進めばいい。

 

 歩いているうちに、まるで暗い海に沈んでゆくように視界がゆらゆらと揺れた。

 

 涙が危うく零れそうになるのを、すんでの所で上を向いてこらえる。


(剣試合、頑張ってくださいね。お兄さんが叶えられなかった夢を、絶対掴んでください。あなたは喧嘩っ早い所があるから、トラブルには気をつけて。ちゃんと食べて、寝てください。あと、間違った言葉を覚えないように。あとは)


 伝えられなかった言葉たちを心の中で並べる。

 彼と知り合ってまだそんなに長くないのに、言いたいことは沢山思いついた。

 

 婚約者でも親友でもない、ただの知り合い。なのに、いつの間にか、彼の存在が私の中で大きくなっていたのだと、今更ながらに実感する。

 

 それでも、まだ間に合う。私は、きちんと、さようならが言えた。

 

 まだ間に合う。間に合うんだ。


♢♢♢


 それから数日。

 ベネディクトは変わらず私に朝の挨拶をして、すれ違ったら「よお!」と笑い、帰り際には「今日も一人か?」と尋ねてくる。

 

 私がいくら他人行儀な口調でそっけなく返しても、彼は少し寂しそうに笑うだけだ。

 

 今日の業務終了後もまた、彼は懲りずに執務室のに来た。いつもの明るい笑顔で、私の机の横に立つ。

 

「よ!そんで?まーだ、お前のお一人様月間は終わらないわけ?」

「はい」

「そーですかー。ようやく懐いたと思ったら、また最初に逆戻りしやがって。しかたねぇ、また明日くるわ」

「あなたは――」


 思わず言葉をかけそうになって、周囲を見回す。幸い、モニカの姿はなかった。

 それでも、私は思ったことを口にできない。どこに彼女の取り巻きがいて告げ口されるか分からないからだ。


 本当はこう聞きたかった。

 『あなたはなんで、私にそんなに優しくしてくれるんですか』と。


(いま知っても意味ないわ。もう、私はベネディクトと関わらないって決めたんだもの)


 彼を引き留めようとして浮かしかけた腰を元の位置におろした瞬間、執務室の出入り口付近でバタン!という誰かが倒れる音が聞こえた。


 視線を向けると、そこには壁に寄りかかって何とか体を支えているベネディクトの姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る