第5話 テキーラ・サンライズに照らされて

 いつも通りに開店準備を終えた尊は、ちらりと腕時計を見やる。もう何度目か数え切れないくらいほど、同じ仕草を繰り返していた。

 時計の針は開店五分前を指していた。彼は思わずぼやくように言う。


「どうすんだよ、おい。不安で髪が抜けちまいそうだ」


 助っ人の上杉暁がまだ来ないのだ。

 先代の一番弟子ということは、腕もいいのだろう。真輝よりも厳しいかもしれない。尊は初対面でうまく接することができるか心配になりながら、深いため息をもらした。

 そのとき、待ちに待った呼び鈴の音がした。しかし、入ってきたのは、お凜さんだった。


「おやおや、まだ暁は来てないのか。道理でこの時間なのに外灯もついてないはずだ。様子を見にきて正解だね」


 彼女は歩み寄るなり、大口を開けて笑う。


「なんだい、尊。まるで捨てられた猫みたいな顔してるよ」


「だって、誰も来ないんですよ、お凜さん!」


 情けない声を上げる尊に、お凜さんが『しょうがない奴だ』と言わんばかりにひらひら手を振った。


「大丈夫、暁が来るまでいてやるから、さっさと店を開けな」


「お客さん来たらどうするんですか」


 すると、彼女はカウンターのいつもの席に腰を下ろし、にやりとした。


「こちとら先代の頃から通い詰めてるんだ。どこに何がしまってあるか、あんたより知ってるから大丈夫だ」


「本当ですか?」


 またもや弱音を吐く尊に、お凜さんが何か言おうと口を開いたときだ。


「すみません、遅くなりました」


 呼び鈴の音と共に、明るい男の声が響いた。そこに立っていたのは、背が高く、彫りの深い顔立ちをしたバーテンダー服の男。浅黒い肌をし、真っ白い歯が目立っている。


「あれ、おババ様! うわぁ、久しぶり!」


 彼は顔を輝かせて、お凜さんにハグをした。いつもは落ち着き払っているお凜さんが顔を歪ませた。


「だぁ、鬱陶しい! そんなことより先に尊に挨拶でもしないかい! 助っ人のくせに遅れてくるなんて、だらしない!」


 お凜さんは彼を手荒く突き飛ばすが、その声はまるで母親の叱咤のようで、この男が嫌いではないことが窺えた。


「ごめんごめん。電車に乗り遅れてさぁ。あ、そうだそうだ。えっと、君が尊君かな? 俺、上杉暁っていいます」


 呆気にとられている尊に向き直り、彼はにこやかに白い歯を見せた。


「はい。あの、今日はよろしくお願いします」


「こちらこそよろしくね。ここの先代の弟子で、今は独立してバーを経営してるんだよ」


 白い歯を見せて笑いながら自己紹介をする彼を一言で表すなら『色男』だろう。ボタンを外した襟元からのぞく鎖骨。ベストを着ていても彼の身体が筋肉でほどよく締まっているのが伺える。陽気だが、どこか堂々としていて単なる軽薄な男には見えない。


「今日は『エル・ドミンゴ』の方はいいのかい?」


「うん、うちの若いもんに任せてあるから」


 お凜さんと暁はいかにも旧知の仲といったやりとりをしている。尊が思い切って口を開いた。


「あの、俺、本当にこの仕事始めたばかりで足をひっぱると思うんですけれど、よろしくお願いします」


 すると、彼は「あぁ」と笑う。


「真輝から聞いてるよ。あいつも鬼だよなぁ。新人さんにいきなり店番って。まぁ、仕方ないんだけど」


 暁が真輝を名前で呼んだことで、心に何かがひっかかる。お凜さんも呼び捨てにしているが、彼が『真輝』と名を口にするだけで胸がざわついた。


「あいつ、顔は遙さん似なのに仕事は先代似だからな。厳しいっしょ?」


 そう笑う暁の目には優しい光が漂っていた。

 先代の弟子なら、自分が知らない真輝の顔を沢山知っているのだろうと思うと、ちょっと羨ましい気がした。


 そんなことを考えている尊の前で、暁はワイシャツのボタンをきちんと留め、ポケットから取り出した蝶ネクタイをつける。そしてバッグから黒いサロンを取り出し、慣れた手つきで素早く腰に巻いた。

 ふうっと軽く息を吐きながら、彼はベストの襟を正す。それはまるでこれから戦地に向かう戦士のような凛々しさだった。男の尊から見ても、惚れ惚れしてしまう立ち姿だ。

 暁は軽く腕時計の位置を直して、ぼそりと呟いた。


「さぁ、始めようか」


 その合図と共に真輝のいない琥珀亭が開店した。

 看板と外灯が照らされ、店内にジャズが流れ出す。そして、お凜さんにメーカーズマークとチェイサーが出された。

 暁がロックグラスに氷を入れるとき、尊はじっと挑むような目で見ていた。

 アイス・トングで氷を掴んでグラスに収まるまでが早い。しかも氷の手頃な大きさを迷うことなく瞬時に選んでるのか、グラスへの収まりがよかった。ボトルのキャップを開けるのも流れるような手つきで滑らかだ。それなのにただ早いだけという感じがしなくて上品なのは、ボトルを置くときにふっと早さが緩くなるせいだった。どうしても急ぐと置いたときに物音がするものだが、彼の場合は最後が特に丁寧で、物静かなのだ。


「相変わらず、おババ様はこればっかりだなぁ」


 彼は笑いながらロックグラスにメーカーズマークを注ぎ、軽くバー・スプーンで氷と馴染ませてから出す。

 そのバー・スプーンの回し方も、さりげなくて綺麗だった。

 お凜さんはふんと鼻を鳴らし、グラスに手を伸ばす。


「今日だけは、最後にブッカーズにするよ。尊が心配で来たものの、本当は一人で飲む予定だったんだ」


「俺も付き合うよ。ハーフ・ロックでね」


 暁は恩師の好きな飲み方を口にすると、ふと切なそうに微笑んだ。

 遠巻きにそれを見ていた尊は、自分ももっと早く琥珀亭を知っていればよかったと悔しくなった。先代の蓮太郎が、お凜さんたちからどれだけ愛されているか肌で感じたのだ。と、同時に自分だけ彼を知らないことに、疎外感を味わってしまった。


 この日の客は多くもなく、少なくもなく、尊の給料くらいは出るかという程度だった。暁の給料の出所はわからないが、こればかりは水商売だから何とも言えない。

 常連客の何人かは、暁が来たことで嬉しそうな顔をしていた。

 九時過ぎにきた客も、にこやかにカウンター越しに声をかけていた。


「暁君じゃないか! 久しぶりだな。ここで修行していた頃より、なんだか痩せたんじゃないか?」


「お久しぶりです。鍛えてるんですよ、これでも。で、今夜もジャックでいきます?」


「はは、よく覚えているもんだな」


 この常連客はいつもジャックダニエルをロックで飲み、必ずチェイサーをねだる。暁はそれをきちんと把握していた。

 やがて常連客が職場の若い人たちとの付き合い方について語り出した頃、暁は「うんうん、わかりますよ。でも、そう言えるのって器が大きいですね」などと神妙な顔で頷いている。

 常連客が話せば話すほど、その顔つきがすっきりしていく。まるで酒を片手に吐き出すことで頭の中を整理しているように見えた。帰る頃にはすっかり、すがすがしい顔になっていた。


「久しぶりに暁君に会えてよかった。尊君、また来るね」


「ありがとうございました!」


 暁が客を見送っている合間に、お凜さんが笑う。


「あの客があんな風に声をかけるなんて珍しい。よほど居心地がよかったと見えるね」


「そうですね」


 尊はぐっと唇を噛んだ。昨日まで、自分が何を話していいかわからないと焦ってばかりいたが、一番大事なことを見失っていたことに気づかされた。彼は、今まで帰り際の客がどんな顔つきをしているか、気にする余裕がなかったのだ。客が居心地のいい時間を過ごせたかなんて、考えたこともなかった。

 次に来た客はカクテル好きの男だった。真輝さんがいないのを知って、オーダーを訊ねた尊に落胆を隠さず言う。


「君がカクテル作るの?」


 ぐっと言葉に詰まったとき、横から暁が進みでた。


「今夜のお通しは尊君が作ったんで美味しいですよ。彼がお通しをお出しする間に、カクテルは俺がお作りします。何になさいます?」


「君が? ふぅん、じゃあ、ギムレットで」


 尊は情けない顔で調理場へ逃げるように向かった。

 暁のシェイクは余裕がにじみ出ていた。真輝のシェイクも綺麗なものだが、暁には力強さも加わってまた違う魅力がある。なにより、カクテルを差し出すときのにこやかな笑顔が『楽しんで』って言わんばかりで、相手を和ませる。


「うん、美味い。君、やるもんだなぁ」


 気むずかしい顔をしていた客が、カクテルを飲んだ途端、にこやかになった。この客は暁が先代の弟子ということを知らなかったらしい。

 自分の不出来さをまざまざと見せつけられたような気もしたし、純粋に暁を凄いとも思った。けれど、なにより悔しさがこみあげた。


 夜の十二時を過ぎて客足も落ち着くと、店にいる客はお凜さんだけになった。


「尊、せっかくだから暁のカクテルを味見させてもらったらどうだい?」


 お凜さんが不意にこう言い出した。尊の顔色から悔しさを嗅ぎとったらしく、唇の端に小さな笑みを浮かべている。

 暁は「もうお客さんもひけたし、いいよ」と笑って応えた。


「尊君、何飲みたい?」


「じゃあ、テキーラ・サンライズを」


 尊は戸惑いつつ、小さな声でこう言った。

 テキーラ・サンライズはその名の通りテキーラ・ベースのカクテルだ。

 尊が琥珀亭に初めて来たとき、真輝がふるまってくれたカクテルでもあった。

 真輝のテキーラ・サンライズはとても飲みやすくて優しい味がしたが、同じものを彼が作るとどうなるのかという好奇心からのオーダーだった。

 それを聞いた暁が顔を輝かせる。


「君とは気が合いそうだ。なんたって俺はテキーラ・サンライズの男だからね」


 そう言ってグラスを取り出す彼を、お凛さんが苦笑して見ていた。

 テキーラ・サンライズのレシピはグラスに直接材料を入れて混ぜる、ビルドという技法だ。

 一般的なレシピとしては氷を入れたグラスにテキーラ45mlとオレンジ・ジュースを加えて混ぜ、静かにグレナデン・シロップというざくろのシロップをティースプーン二杯分沈めれば出来上がりとなる。

 ザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーも気に入っていたカクテルだ。

 暁はオレンジを手早くプレスし、グラスに氷を入れた。テキーラのボトルを持つと、豪快にそのままグラスに注ぎはじめる。


「メジャー・カップは使わないんですか?」


 尊が思わず素っ頓狂な声を上げると、彼は高らかに笑った。


「ごめんごめん、うちの店の流儀でやっちまった。けど、俺の目分量は正確だぜ?」


 そう言いながら、オレンジ・ジュースを注ぐと、バー・スプーンで器用に混ぜ始めた。

 その見事な手さばきに、尊が感嘆のため息を漏らす。


「暁さん、ステア上手いですよね。俺はどうも苦手なんです」


 ステアというのは、バー・スプーンで混ぜることを言う。

 暁はグレナデン・シロップのキャップを素早く外しながら白い歯を見せた。


「まだまだだよ。ステアは真輝のほうが上手いね。あいつには負ける」


 謙遜でもないらしく、暁の声には悔しそうな響きがあった。

 やがて、スプーンの背を使って真っ赤なシロップがしずしずとグラスに沈んでいく。


「さぁ、どうぞ」


 差し出されたカクテルは、名前の通り夜明けを思わせる暖かみのあるオレンジ色をしていた。そのグラスの底に漂うのは深紅のシロップ。手を付けるのがもったいないと感じるほどの美しさだった。


「あの、いただきます」


 そっと口に運ぶと、テキーラの風味とオレンジの香りが鼻腔に突き抜ける。


「どう?」


 にこやかに笑う暁に、尊は「美味いです」と答えるしかなかった。

 練習で何度か作った自分のテキーラ・サンライズとはまるで違う。同じレシピでも、ステアのスピードやシロップの沈め方が雲泥の差だからだろう。

 けれど、それは真輝のカクテルとも少し違っていた。暁のテキーラ・サンライズはしっかりとテキーラの味がした。

 そのとき、彼は真輝が酒に弱い自分のためにテキーラを加減してくれたのだと、初めて気がついた。

 暁の技術も凄いが、その彼に「ステアは負ける」と言わしめる真輝もやはり凄いのだ。それに、客に合わせてレシピを加減するなんて余裕はまだまだ持てそうになかった。

 完敗した気分で、尊は唇を噛み締めた。

 自分も早く「美味い」と喜んでもらえるバーテンダーになりたい。真輝が助っ人を呼ばなくてもいいような、頼れる仕事仲間でありたい。そう心から思った。


 尊がカクテルを飲み干す頃、ふと、暁が腕時計に目をやった。


「閉店まであと十五分。おババ様、そろそろいっとこうか」


「あぁ、そうだね」


 彼は「よし」と短く頷き、バックバーから一本のボトルを取り出す。それはお凛さんの部屋で見たボトルと同じ、ブッカーズだった。

 暁はロック・グラスを三つ用意し、氷とウイスキー、そして水を注ぐ。


「なんだか色々思い出すね」


 お凛さんが自分のメーカーズマークの入ったグラスをよけながら、呟くように言った。


「若い頃、ブッカーズをキープボトルにしたいと言ったら『お前はただでさえ強く見られるんだからやめておけ』って蓮さんに止められたんだ。こんな酒を飲んだら男が近寄らないから、こいつ辺りにしとけってメーカーズマークを勧めてくれたのさ」


「あぁ、それでお凛さんはいつもそのボトルなんですね」


 尊が頷いていると、暁がそっとグラスを差し出した。


「師匠の命日とお盆は、こいつを飲むのが俺とおババ様の習慣なんだ。尊君も付き合ってよ」


 三つのグラスが寄せられ、お凛さんの静かな声が琥珀亭に響いた。


「辛気くさい話はなしだ。蓮さんがいるからこの場所がある。そしてあたしたちもいる。それに感謝しようじゃないか」


 どこか切なく、それでいて慈しむような目だった。暁はどこまでも静かに口元に笑みを浮かべる。

 尊は、こんな乾杯もあるんだなと、ブッカーズを味わいながら俯いた。

 その傍らで、暁が懐かしむような目で言う。


「師匠は厳しいけど面倒見がよかったな。バーテンダーになりたいって突然店に来た俺を、ここまで育ててくれたんだ」


「あのときはあたしも居合わせたんだがね、こいつときたら、店に入るなりいきなり大声で『ここに置いてください!』って頭下げてね」


 二人が声を上げて笑っている。


「俺は板前になるのが夢だったんだけど、調理師専門学校を卒業しても、やっぱりバーテンダーになるしかないって思ってね。カクテルなんて飲んだこともないくせにさ」


 尊は呆気にとられたが、そのあとで思わず笑みを漏らした。

 暁も自分と同じようなスタートだったことで、自分も頑張らなきゃと励まされた気がした。

 彼は蝶ネクタイを外し、無造作にポケットにねじこんだ。


「さぁ、もう店じまいしようか。今日はお疲れ様でした」


「はい! ありがとうございました」


 尊が勢いよく一礼し、外灯の電気を消した。

 全員がブッカーズを飲み干したらグラスを洗って帰ろうと思ったとき、階段を駆け足で上がってくる音に気がついた。


「よかった、間に合った」


 軽く息を弾ませて入ってきたのは、真輝だった。


「真輝さん!」


 今日は会えないものと思っていただけに、尊の顔が緩む。

 彼女は清楚なスカート姿で、髪を緩くサイドでまとめていた。尊を見るなり、申し訳なさそうな顔になる。


「尊さん、今日はすみませんでした。無事終わりました?」


「はい。暁さんのおかげです」


 暁は返事の代わりに、ブッカーズのグラスに口をつけたまま「ん」と言って片手を上げた。


「暁、ありがとう。大丈夫だった?」


 真輝が歩み寄ると、彼は肩をすくめてみせた。


「どうってことないよ。おばさん、元気だった?」


「えぇ」


 『おばさん』とは誰のことだろう。そう眉根を寄せた尊の前で、二人はちょっと切ない顔をして笑みを交わす。


「お凜さんもありがとう」


「なぁに。で、あんたはどうしてここに?」


 真輝が音をたてて車のキーを掲げた。


「暁、家まで送るわ。それとも実家に泊まる?」


「俺の店まで送ってもらえたら助かるよ。伝票整理だけして帰りたい」


 尊はただただ二人のやりとりを黙って見ていた。

 真輝が敬語を使わずに話すのを聞いたのは初めてで、どうしようもなく暁が羨ましかった。


「実家に泊まるんじゃないの?」


「うん、車は俺の店の駐車場に置いてきた」


「どうやってここまできたの?」


「電車」


「相変わらず後先考えないわね。終電はとっくに出ちゃったわよ」


「真輝んとこに泊めてもらおうと思ってた」


「ふざけてないで、支度して」


「へいへい」


 なんとも軽妙なやりとりだった。遠慮のない真輝も、今までになく優しい眼差しで彼女を見る暁も、新鮮だった。

 真輝は尊に向き直って深々と頭を下げた。


「尊さん、後片付けは明日にでも私がやりますから、今日は何もしないで直帰していいですよ。本当にお疲れ様でした。ありがとうございます」


「どうってことありませんよ。頭を上げてください」


 思わず萎縮した尊に、彼女は微笑む。そして今度はお凜さんに顔を向けた。


「お凜さん、発表会の支度はもう落ち着いたんですか?」


「ぼちぼちね」


「今日はありがとうございます」


「なぁに。あたしゃ尊と帰るから、早く暁を送ってやんな」


「はい。暁、外でエンジンかけてるから、降りてきてね」


「あぁ」


「じゃあ、おやすみなさい」


 真輝が軽い足取りで店を出て行く。暁はグラスに残っていたブッカーズを一気に飲み干し、カウンターを出た。


「じゃあ、おババ様、またな。俺の店で生演奏の打ち合わせ、よろしく」


「ん? なんだっけ?」


「ほら、月末に夏をテーマにするやつ。今回は大地も呼ぶんだろ?」


「あぁ、そうだね。明日の昼に電話するよ」


「よろしく」


 暁はお凜さんと話しながら、サロンを脱いでバッグにねじこんだ。そして、バッグの中から名刺入れを取りだした。


「尊君、これ」


 差し出された名刺には、『El Domingo』という店名と彼の名前、店舗情報が記されている。その裏には深紅のインクで日の出を模した絵が描かれていた。


「それね、俺の店で『エル・ドミンゴ』っていうんだ。今度遊びに来てよ。君とはじっくり話してみたいからね」


 そう言うと、彼は颯爽と出て行く。

 取り残された尊は名刺を見つめたまま、ぼうっと立ち尽くしていた。

 彼の足音が聞こえなくなると、ブッカーズを味わっているお凜さんの隣に、腰を下ろす。


「疲れたかい?」


 静かに笑うお凜さんに、こくりと頷いた。


「いや、もう。色々と疲れました」


 彼は打ちひしがれたように、肩を落とす。

 暁には敵わない気がして、劣等感が押し寄せる。堂々として、腕もよくて、顔もよくて、真輝と並んでもお似合いだ。

 そう考えたとき、思わず「あっ」と短い声が漏れた。

 もしかして、暁が真輝の夫、もしくは元の夫だろうか。そんな考えがよぎった。


「お凜さん!」


「どうした?」


「あの、あの……」


 訊きたいことが山ほどあった。真輝は何故苗字が変わっているのか。暁とどんな関係なのか。

 だが、それが口をついて出ることはなかった。自分が驚くほど彼女を意識していることに気づいたのだ。

 今頃、車の中で真輝と暁はどんな会話をしているのか考えるだけで、居ても立っても居られない。

 バーテンダーとして、一人の男として、彼は自分でも戸惑うほど嫉妬していた。

 ブッカーズを飲み干したお凜さんを真っ直ぐ見据えて、こう言った。


「暁さんの店の場所、詳しく教えてください」


 すると、お凜さんはしばらく黙っていたが、不意にふっと笑った。


「うん、いい目になってきたね。あたしゃ、そういう目は嫌いじゃないよ」


 彼女はコースターの裏に、暁の店『エル・ドミンゴ』への道を簡単に書いて尊に手渡す。


「すまないが、これから孫と会うんでね、尊は先に帰っておくれ」


 お凜さんは会計を済ませると、ひらひらと手を振って店を出て行った。

 残された尊は戸締まりをし、真夜中の飲み屋街を抜ける。

 暁の鮮やかな仕事ぶりと、和やかに話す真輝。二人の顔が交互にちらついて、気がつけばいつの間にか琥珀荘の入り口に立っていた。

 尊の意識を戻したのは、猫の鳴き声だった。どうも、琥珀荘の中から響いているようだ。

 琥珀荘の外への入り口は、ガラス張りで横にスライドする扉だけだった。北海道では珍しくない造りだが、その扉を開けると、玄関フードと呼ぶ吹き抜けの空間になっていて、そこに各部屋への入り口や階段がある。雪にさらされないようになっているため、寝ている間に吹雪がきて玄関が埋もれることはない。おまけに玄関フードの中には雪かきの道具や自転車も置ける。北国にはもってこいの仕様だった。

 玄関フードの入り口を開けると、猫の鳴き声が更に大きくなった。


「スモーキー? ピーティーか?」


 声の大きさからして、この中にいるはずだが、蛍光灯の薄暗い灯りの中を見回しても見つからない。


「上かな」


 鉄階段を上がると、「んなぁ、んなぁ」という人恋しい声が、途端に「んにゃお」という嬉しそうな鳴き声に変わった。


「ピーティーじゃないか」


 真輝の部屋の前に座り込んでいるのは、白猫のピーティーだった。ビー玉のような青い目で尊をじっと見つめている。


「おいで。一緒にご主人様の帰りを待っててあげるから」


 尊がしゃがんで手を差し出すと、それに応えるようにピーティーが頬をすり寄せてきた。

 一緒に部屋に入ると、バーテンダーの服から着替え、ピーティーと靴紐で遊んでやる。

 尊は紐にじゃれつく愛くるしさに目を細めながら、心の底からこの白猫に感謝した。真輝が帰ってくるまで悶々としそうだったが、いい気晴らしになるし、彼女に会える口実にもなってくれたわけだ。


「お前は俺の味方かな?」


 すっかり懐いて膝の上で丸くなるピーティーを撫でてやると、彼女は大きなあくびをするだけだった。

 真輝が帰ってきたのはそれから一時間後だった。階段を上る足音が響くと、尊もピーティーも咄嗟に身体を起こす。

 白猫を抱きかかえて玄関を開けると、ちょうど真輝が二階に着いたところだった。突然現れた尊たちに驚いたのか、目を丸くしている。


「まぁ、ピーティー! すみません、尊さんのところにお邪魔してたんですね」


 真輝は何故かバケツを手にしていたが、それを床に置いて猫を受け取った。ピーティーは彼女の腕の中で嬉しそうに喉をごろごろ鳴らしている。

 尊はそんな白猫を羨ましそうに見ながら、「玄関のところで鳴いてたもんですから」と苦笑した。


「すみません。朝出るときに飛び出しちゃったのね。気がつかなかったわ」


 ふと見ると、バケツの中には生け花用の鋏や線香の箱、それに雑巾が入っている。

 彼の視線に気がついたのか、真輝がふっと眉を下げた。


「今日はお墓参りだったんです。尊さん、一日ありがとうございました」


「あ、いいえ」


 やはり、とも思ったが、釈然としない。

 普通なら墓参りは日中行くものだ。だが、それでも休みをもらったのは、両親とでも過ごしてきたのだろうか。そう思ったものの、口に出す勇気がなかった。彼女の顔がどことなく寂しそうで、これ以上この話をするべきではないと察したのだ。


「暁さん、無事帰りました?」


「えぇ」


「よかった」


「それじゃ、おやすみなさい」


 真輝が微笑む。が、ちょっと疲れたような顔をしていた。

 彼女は猫を抱えたまま片手でポケットから鍵を取り出す。扉を開けたとき、尊は床に置いたままだったバケツを持ち上げ、思わず声をかけた。


「ゆっくり休んでください」


「あの、ありがとうございます」


 真輝がおずおずとバケツを受け取り、礼を言った。


「おやすみなさい」


 尊が静かに玄関を閉じ、真輝の姿が見えなくなった。


「……おやすみなさい」


 尊はもう一度、声に出さず扉に向かって唇を動かした。彼女にこう言えるのは、ずっと自分だけでありたかった。

 本当はいろいろ訊きたいのだ。だが、すぐに別に何も教えてくれなくてもいいから、もっと顔を見ていたいとも思う。そして最後には、それより今日はちゃんと休んで、明日からまた元気に笑ってほしいと願うのだった。


 翌日から真輝はいつもと同じようにカウンターに立っていた。玄関先での疲れた顔が嘘のように穏やかな、いつもの笑顔だ。

 お凜さんは顔を出さない日もあれば、ほんの一杯だけひっかけて帰る日もある。なにやら上の空で片手を左右に動かしていたかと思えば、ふと思いついたようにバッグから譜面を取りだし、鉛筆で何か書き込んだりもしていた。

 尊はといえば、がむしゃらにカクテルの勉強をし、少しは動きが滑らかになってきていた。季節が秋に移り変わる頃には、顔なじみの客も増えてきた。

 暁との出会いで、尊の姿勢は少し違ったものになっていた。

 今までの練習では、いかにもバーテンダーらしいシェイクばかりに気を取られて、地味なステアの練習をおざなりにしていた。

 だが、暁と仕事をした翌日から、彼は逆にステアの練習に身を入れだした。バー・スプーンの独特のねじりで指の皮が剥けてもなお、氷と水の入ったグラスをかき混ぜ続ける。

 そして、家にウオッカの空き瓶を持ち帰り、中に水を注ぎ、酒の代わりにした。グラスにひたすらメジャー・カップで水を入れ、その手つきを少しでも滑らかにしようという練習だった。

 それが一段落すると、今度はメジャー・カップを使わずに注ぎ、注いだものをメジャー・カップで量ることを繰り返す。暁の目分量の正確さを真似しようとしたのだ。

 出来る事ならなんでもよかった。尊は、何かに打ち込まなければ、自分の心許なさに潰されそうだった。

 何度も『エル・ドミンゴ』に行ってみようと思ったが、毎日の仕事に追われ、気がつけば彼の名刺とお凜さんが書いてくれた地図は財布にしまわれたまま、眠っている。

 忙しさを言い訳にしていたが、本当は自分に自信が持てないうちに彼の仕事場を見たら、完膚無きまでに叩きつぶされるような気がして怖じ気づいていたのだった。


 九月の中旬だった。

 小雨がしとしとと降り続ける夜、店内にはお凜さんともう一人の常連客がいた。

 発表会を終えたお凜さんはすっかり肩の荷を降ろしたようで、晴々とした顔をしていた。その隣に座る常連客は、飲み屋街からほど近いところにある古本屋の店主だった。


「この前、猫を拾ったんだが、左右の目の色が違うんだ。アレクサンドロス三世みたいで珍しいだろう? 名前も『アレクサンドロス三世』にしようと思うんだ」


 この店主は本好きのせいか、元からの性分かわからないが、ロマンチストだ。

 お凜さんは彼のそんなところが気に入っているらしく、「ずいぶん偉大な名前だ」と愉快そうに相手をしていた。


 談笑が続く中、真輝の携帯電話が鳴った。


「ちょっと失礼します」


 断りを入れ、電話に出ながら厨房へ駆け込んでいく。通りすがりに小声で「もしもし、暁? どうしたの?」と言うのが聞こえた。

 電話の相手が暁だということに何故かぎくりとしたが、尊は素知らぬふりでカウンターに立っていた。厨房からは相槌を打つ声が聞こえ、そのうち「じゃ、明日」と言って電話を切ったようだった。


「すみません」


 電話をポケットにしまいながら戻ってきた真輝に、お凜さんが訊ねる。


「暁かい?」


「えぇ」


 真輝はそれだけ言うと、猫の話に加わった。

 古本屋の猫の名前が『アレクサンドロス三世』に決まるのを横目に、尊の頭の中では暁のことを考えていた。明日、彼らは一緒にどこかに出かけるのだろうか。そう思うと、店主が帰り、お凜さんが帰り、店じまいをしている間も、どこか上の空だった。


 その日の帰り道、真輝がこう切り出した。


「尊さん、今度の金曜日は臨時休業でもいいですか?」


「暁さんと会うんですか?」


 そう言ってから、思わず口をつぐんだ。今度の金曜日といえば三日後で、明日ではないと口にしてから気づいたのだ。それに、口調が刺々しくなったと悔いた。

 だが、真輝は一瞬きょとんとして、すぐに眉を下げて笑い飛ばした。


「いいえ、違いますよ。私の同級生が結婚するんで、式に出席がてらカクテルを作るんです」


 それを聞いて、いつか店に来ていた女性を思い出す。確か、詩織と呼ばれていた。


「すみません、的外れなこと言って」


 真輝は暁については何も言わず、ふっと笑っただけだった。


 尊は自分の中に沸き起こるもどかしさに、思わず拳を握りしめた。

 暁との電話の内容を話そうとしないのは真輝の自由だし、当然のことだった。なのに、それがすごく嫌なのだ。

 彼は暁に妬いている自分に気づき、思わず項垂れた。男としてもバーテンダーとしても敵いそうもない上に、どこか憎めない魅力的な人物を相手にするなんて、無謀だとしか思えなかった。

 星の見えない曇り空が、まるで自分の心そのものみたいで嫌だった。


 翌朝には小雨は止んだものの、アパートの窓に映る空は、どんよりと分厚い雲で覆われていた。天気も気分もパッとしないが、それでも腹は減る。尊がトーストを頬張っていると、車のエンジン音が近づいて来て止まったのが聞こえた。

 何気なく窓を覗くと、黒のSUVがアパートの前に停まっていた。


「高そうな車だな」


 ろくに洗車もしない尊の愛車とは月とスッポンの輝くボディをしている。

 やがて玄関の向こうから鍵をかける音がした。ついで、階段を降りて行く足音が木霊する。

 あの黒のSUVの中には暁がいるのだと察した。彼に駆け寄る真輝を思い描き、尊はなんだか盗み見をしているようで気が咎めた。

 気がつかないふりでテレビでも観ようかと思っていると、何度か車のドアが閉まる音と、何か声をかけあっているのが聞こえた。


「まだ行かないのかな?」


 恐る恐る外から見えないようにゆっくり車のほうを覗くと、思わず「あっ」という短い声が漏れた。

 暁はワイシャツとジャケットで少しフォーマルな格好をしていた。真輝はシンプルな黒のワンピース姿だ。そして二人は車の後部座席のドアを開けたまま、向かい合って立って何かを話している。

 尊の目が釘付けになったのは、真輝が手にしていた花束だった。


「……俺、女に花を贈ったことってあったかな」


 尊は思わず苦笑する。きっと、暁なら花屋でスマートに花束をオーダーできるのだろうが、自分は店に入ることも躊躇われるだろう。

 暁は助手席のドアを開けて真輝に座るよう促した。彼女が微笑んで乗り込むと、ドアを閉めてやり、自分は運転席にまわる。

 そこまで見ると、尊は窓の下に座り込み、壁に背を預けた。小さなシミの見える天井を見つめ、思わず深いため息を漏らす。

 やきもちがこうまで辛いとは、知らなかった。すごく叫びたい気もするが、何を叫んでいいかもわからない。

 店のお通しを何にしようか考えなければならないのに、すぐに頭の中はさっきの二人で埋め尽くされる。

 真輝が出勤時間の四時までには帰ってくるとわかっていながら、車の音がするたびに窓際から外を覗き込んだ。帰りが遅い娘を待つ父親の心境を疑似体験しているようだった。


 午後二時を過ぎた頃だ。

 大きなエンジン音がアパートの前で止まったのを聞きつけ、尊はそそくさと外から見えないように、こっそり窓を覗く。あの黒のSUVがゆっくりと停まるところだった。


「結構、早かったんだ」


 そう口にしてみるものの、精神的には丸一日帰ってきてないような気がする。

 こうしてこそこそ待つ自分が情けなかった。もし誰かに『覗き見なんて格好悪いと思わないのか』と言われたら何も返す言葉がない。しかも、暁と真輝がどうしているか知りたい一心で窓を覗き込む姿は、ストーカーのようで気持ち悪い。

 車から二人が降りた。真輝は後部座席を開け、荷物を取ろうとしているようだった。すると、暁が彼女の背後に歩み寄る。

 尊は呼吸を一瞬忘れた。

 暁が真輝の体を引き寄せ、抱きしめたのだ。身じろいだ真輝を押さえ込むようにして、耳元で何か囁いている。後ろ姿の真輝はどんな顔をしているかわからなかったが、暁は真剣な顔をしていた。窓がしまっていたせいで、真輝の声がするものの、何を言っているのかは聞き取れなかった。

 真輝は暁を振りほどくと、アパートの中に駆け込んだ。階段を昇る音が小刻みに響き、いつもより大きな音をたててドアが閉まった。

 残された暁は肩を落とし、ため息を漏らしたようだった。気持ちを落ち着かせようとしているのか、首の後ろを掻いている。

 熱のこもった、それでいてちょっと切なそうな顔だ。


「俺が女だったら簡単に落ちるな」


 思わず呟いたとき、暁と目が合った。


「あっ」


 気まずい顔の尊に、暁は眉を下げて、力なく笑ってみせた。照れもなく、ただただ淋しそうな笑みだった。

 そして彼は運転席に戻ると、すぐに走り去ってしまった。

 尊は呆気にとられて車が走り去ったほうを見つめていた。心臓がいつもより大きく躍動している。

 自分のことを、朝日を模したカクテル『テキーラ・サンライズ』の男と自称する暁は、その名の通り尊に新しい夜明けをもたらした。

 暁という存在が太陽のように照らし出して見えたのは、尊の中で荒波のように暴れる嫉妬と後ろめたさと惨めさだった。特に、じりじりと焦がすような嫉妬の熱が彼を痛めつけた。

 真輝の手をとりたいが、立ち止まって波にもまれている意気地なしの尊を、暁という太陽が容赦なく焦がし続ける。

 その日、勤務が始まっても真輝が暁について何も話さないのが、余計に尊を苦しくさせた。

 友達でもないし、いちいち今日はどこに行ってきたか話さないのは理解できる。まして彼に抱きしめられたことなど話すわけがない。だが、頭ではわかっていても、知りたいと思うのだ。

 知らないからこそ辛いこともある。話すほどのことでもないのか、それとも話したくないのかわからない。ただ、自分が彼女にとって友人でもなく、ただの仕事仲間に過ぎないということは身にしみた。

 真輝の横顔がひたすら遠く感じる。

 今までも、なんだかどこかにこのまま消えてしまいそうな顔だと感じたことはある。だが、それは儚げな目もとと美貌のせいだと思っていたが、この日は何かが違っていた。

 尊は彼女の華奢な肩を掴んで、どこか遠くを見るような視線を自分に引き戻したい衝動を我慢していた。

 遠くに行かないで欲しい。初めてそう願っていた。

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