第8話 準備①

「あーやの! 昨日は上手うまくやれたみたいじゃない」


 綾乃あやのが初めての成功体験を果たした翌日。職場では明るく弾んだ咲希さきの声が響いていた。沓名綾乃くつなあやのはその声に顔が赤くなるのが分かる。


「これは、大きな一歩だよ? 綾乃」


 自分のことのように喜んでくれる咲希の声に、綾乃は思わず俯きかける。


「あの、まだ他のお客様に同じようなことが出来るかって言われたら、自信はなくて……」


 おずおずと口を開いた綾乃へ、咲希は笑顔のまま声をかける。


「いいの、いいの。綾乃は綾乃のペースでゆっくりやっていこう?」

「いいの、かな……」


 自信なさげに呟かれる綾乃の声に、咲希は明るくいいの、と言う。そして、その笑顔をにんまり顔へと変えた。


「そ、れ、よ、り、も~」


 ニヤニヤと楽しそうな表情を浮かべている咲希は、そのまま綾乃の二の腕をつつく。


「な、何ですか?」


 突然の咲希の行動に綾乃は狼狽ろうばいを隠せない。


「昨日綾乃が天野さんに勧めた本って、劇場版が決まっているんでしょう?」

「はい」

「その映画、天野さんから誘ってくれるかもよ?」


 つんつんと綾乃の二の腕を何かのリズムにのせながらつつき続けて言う咲希に、綾乃は突如真顔になる。


「それはないです」


 冷たく無機質な声で返す綾乃は勤務開始時間が近かったこともあり、ニヤニヤ笑いを浮かべている咲希を残して事務所を後にした。そんな綾乃の背中に、


「分かんないわよ~? 綾乃はもっと自分に自信持ちなさいって!」


 咲希の嘆かわしげな声が投げかけられるのだった。




 日中の業務をいつものように滞りなくこなしていった綾乃は、少し遅めの昼休憩を終えて午後の業務に戻った。巡回を終え、レジにてPOPを書いていた綾乃は自動ドアが開く音にちらりと視線を向ける。


「いらっしゃいませ」


 条件反射でいつものように無機質な声音で挨拶をするが、そこに居た人物に鼓動が早くなるのを抑えられなくなった。天野楓あまのかえでが来店したのだ。


(どう、どうして? 昨日来たばかりだったのに……)


 完全に油断していた綾乃は楓の姿にバクバクと脈打つ心臓を止めることが出来ない。そして混乱する思考の中、綾乃はひとつの考えを導き出す。


(もしかして、昨日の本は好みじゃなかった、のかな……)


 1度マイナス思考に陥った綾乃は怖くなってしまい、レジから出ることが出来なくなっていた。レジ奥にあるPOP制作台の上でどうしよう、と思案していると、おずおずといった調子で声をかけられる。


「お、お願いします……」


 その声が天野楓のものだと分かった綾乃の思考が停止する。


(ど、どうしよう……)


 しかし客を待たせる訳にはいかない。綾乃は本で読んだことのある営業スマイルをすることにした。


「いらっしゃいませ。カバーはお付けしますか?」

「はい。あの……」


(うまく、笑えているかな……)


 内心気が気ではない綾乃は、先程まで考えていた不安を思わず口に出してしまっていた。


「昨日の本はもう読み終わったんですね。どうでしたか? お好みに合っていたら良いのですが……」


(自分の好みの押しつけになっていたらどうしよう……)


 不安で震えそうになるのを懸命に抑えながら出てしまった言葉。そして顔を上げた瞬間にばちっと楓と目があった。すると突然、


「とても面白く、拝読させて頂きました!」


 はっきりとした声で楓はそう答えた。そして一息ついた後、


「それで、あの。今から少しお時間戴けませんか?」


 綾乃は思ってもみなかった楓からの誘いの言葉に驚いて目を丸くする。綾乃がじっと楓を見つめていると、


「あの、忙しかったら、またの機会にでも……」


 そう言う楓に向かい咄嗟に、


「少々お待ちください!」


 そう言ってバックヤードへと駆け込む。


「先輩! レジ、お願いしてもいいですか!」


 綾乃はバックヤードで休憩をしていた咲希へと声をかけた。咲希は何事かと言う顔をしているが、綾乃はそれ以上の事情を説明できず、急いでバックヤードから飛び出した。

 バックヤードを飛び出す綾乃の後ろ姿を見送りながら咲希は、


(後で何があったのかしっかり説明してもらわないと)


 そう決意するのだった。




 バックヤードを飛び出した綾乃は急いで楓の前に立った。


「お待たせしました」


 綾乃は急いできた以上に、楓からの呼び出しに恥ずかしいやら何を言われるのやら不安で顔が赤くなってしまう。

 楓はそんな綾乃を連れて店の外へと出てしまう。どこまで行くのか不安に思いながらついて行くと駐車場の端で楓が立ち止まった。そしてゆっくりと振り返ると、


「急にすみません。昨日の本、とても感動しました。沓名さんがこういう本が好きなんだなって分かって。それで、あの……」


 何かを言いたそうにしている楓の言葉を待っていると、


「あの、昨日の本の映画、一緒に観にいきませんか?」


 突然の誘いの言葉に、一瞬綾乃の思考が停止する。今朝事務所で咲希にからかわれたことが現実になったのだ。綾乃はその事実に至って顔が紅潮していくのが自分でも分かった。しかし言葉は自然と出ていた。


「是非、一緒に行きたい、です……」


 紅潮した顔を見られたくない綾乃は顔を上げられない。そんな綾乃の頭上からは不安そうな、しかし優しい声音が降ってくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る