【純文学】殴られ屋
『殴られ屋:1分100円』
駅前を歩いていると、そんな看板を発見した。
看板の隣に、青い小さなレジャーシートを敷いて、その上に男が正座している。彼が殴られ屋なのだろう。スーツを着ていて、長方形の眼鏡をかけていて、髪は整髪料で綺麗にセットしている。生真面目なサラリーマンといった印象だ。
俺が立ち止まって看板を見ていると、殴られ屋の男が立ちあがって話しかけてきた。
「いかがです?」
「殴られ屋というのは、なんですか?」
「文字通り殴られるんですよ、私が」
「ボクサーみたいに俊敏に避けたりしないんですか?」
「私はボクサーじゃなくて、ただのしがないサラリーマンですから、そんな俊敏に動けませんよ」男は朗らかに笑った。
「じゃあ、サンドバッグみたいにただただ殴られるんですか?」
「ええ」
「それって痛くないんですか?」
「痛いですよ、もちろん」
どうやら、痛覚を感じないであるとか痛覚をシャットアウトできるとか、そういう特殊な技能を持った人間ではないらしい。
男は貧弱というほどではないが、決して頑強な肉体とは思えない。中肉中背、普段それほど運動しなさそうなサラリーマン。
痛いのに『殴られ屋』なんて副業(?)をやっているのだから、きっと相当金に困っているのだろう。借金返済のためにやむなく、という事情があるのかも。
「お金に困ってるんですか?」と私は尋ねてみた。
「いえ」男は否定した。「私が勤めている会社は結構給料がいいですし、私自身、金遣いが荒いわけではありませんから。独身ですし」
「じゃあ、どうしてこんな副業をやっているんです?」
「単純ですよ」男は言った。「殴られたいからです」
「殴られたい?」
「ええ」
「それは……つまり……マゾヒズム的な?」
「その通りです」
「つまり、あなたは殴られ痛めつけられると、興奮すると?」
「まあ、そうですね。興奮する、ゾクゾクする――ちょっと恥ずかしいですけれども……」
「なるほど。自らの欲求を満たせて、なおかつ小金稼ぎにもなる。一石二鳥というわけですか……」
「ええ」男は頷いた。「それで……どうです? 私のことを殴ってみませんか?」
「んー……」
1分100円。10分で1000円。
俺は財布から1000円札を取り出すと、それを彼に渡した。
「10分でお願いします」
「わかりました」
男はジャケットを脱ぎ、靴を履くと、三歩前に出た。俺の前に立つと、「頭部や股間はなしでお願いします」と言った。
「はい」
一番殴りやすいのはやはり腹部だ。俺は軽く拳を構えると、8割程度の力で右左と交互に拳を振るった。
俺の拳がめり込むたびに、男は低く呻いた。それは呻き声であったが、同時に嬌声のようでもあった。喘ぐような、息の漏れ。顔を見ると、彼は恍惚としていた。世の中にはマゾな人間が確かにいるのだ、と俺は感心した。
サンドバッグのような物体を殴るのと、人間という――生きた物を殴るのとでは、確実に異なる。人間は生きて動いているのだから、殴るたびに感触が微妙に異なるのだ。
マゾヒズムはわからないが、サディズムはすこしわかったような気がした。これを逆転すると、マゾヒズムが解明できるというものだ。つまり、マゾな人間はやはり人間に痛めつけられたいのだ。機械的に動くロボットでは駄目なのだ。
10分が経過するのは、意外と早かった。
ピピピピ、とストップウォッチが鳴った。
「終了です。ありがとうございました」
男は一仕事を終えたような爽やかな顔ににじんだ汗を、ハンカチーフでよく拭き取ると、ジャケットを羽織った。
「私は仕事帰りに結構な頻度でここで殴られ屋をやってますので、よかったらまたご利用ください」
俺は頷くと、電車に乗って帰宅した。
◇
後日、同じ場所に向かうと、殴られ屋は腕に包帯を巻きつけていた。ファッションでないとすれば、骨折したことになる。話しかけて聞いてみると、先日、客に腕を折られたのだと言う。それはやりすぎ(やられすぎ)だろうと俺が言うと、骨が折れた感触が忘れられないのだと言う。
マゾヒズムもサディズムもほどほどのところで抑制しないと、やがて自らを――あるいは相手を――破滅へと導く危険性があるのだと、俺は学んだ。
◇
さらに数か月して、俺は殴られ屋のことを忘れかけていたが、テレビでニュースを見ていると、見覚えのある顔が映し出されていた。
「あの人は確か……殴られ屋の人だ」
彼の欲求はエスカレートしていき、破滅したのだ。
彼は全身痣だらけで死んでいた、とアナウンサーが伝える。死体は公園の茂みに放置されていたとのこと。犯人は不明だが、亡くなった男が『殴られ屋』なる副業を行っていたことが、随分と話題になった。
ネット上に、何者かが彼の遺体の写真をアップした。遺体は見るも無残な姿となっていたが、なぜか傷を負った彼の表情は幸せそうだった。
どうしてこんな表情を浮かべているのか、様々な議論が交わされたが、真に彼の気持ちを理解できる者はほとんどいなかった。
もちろん、俺もわからない。理解できない。今後も、理解できるようにはならないだろう。
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