たぬきのあい(母親は二人もいらない 番外編)

壁にかかっているアンティーク調の仕掛け時計を見るが、どうしてか時刻が読めなかった。

ベッドから身体を起こそうとして感じた不自由さに両手首を拘束されていることに気づく。

フローリングに足をつけてベッドの端の方に腰掛けながら、ピンク色の内側ファー付きベルトの手枷が嵌められた手首を胸の前に掲げて途方に暮れる。

目線を下に落とすと、谷間が見えるほど開いた胸元に大きなリボンが結ばれた純白のベビードールを着せられていることに気づいて目眩がした。

少女趣味全開のフリルまみれで、裾の丈は二十代後半の女の子が着てギリギリ許されるレベルの短さだ。


肩紐が細くて、心許ない。

「甘奈(あまな)ちゃん、おはよう。よく眠れた?」

いつの間にやら部屋に居た逢瀬(おうせ)くんは、黒いTシャツに細身のジーパンといったラフな格好をしていた。

青い瞳から大粒の涙が零れている。

しかし、見開かれた瞳には同情を誘うような弱さはなく、まるで世界そのものを嫉むような攻撃性で陰っていた。

「ねえ、仕事行くのもう辞めてよ。俺は家に縛られたのに甘奈ちゃんだけ色んな人と遊んでて不公平だよ」

「あ、遊びって……言いがかりはやめなよ。仕事付き合いしかしてないわ」


「信じられないよ。俺には甘奈ちゃんしかいないのに、甘奈ちゃんにとって俺は沢山いる担当アイドルのうちの一人でしかないなんて。俺みたいな顔が綺麗なだけでろくな人生経験もない男は飽きたら簡単に捨てられるしかないんだ。そんなの許せない」

「そんなこと思ってないってば……逢瀬くんはわたしにとって特別。今だってそれは変わらない。絶対に」

「どうだか。口先だけならいくらでも言えるよね。同じことを何人に言った?甘奈ちゃんは俺のこと別に好きじゃないでしょ」

「今日はどうしてそんなに攻撃的なのよ」

わたしの溜息混じりの返答に、逢瀬くんはぐるぐると猜疑心が渦巻く瞳を向ける。


「ずっと思ってたことだよ。今日も愛するよって言ってよ。甘奈ちゃんがさ。足りないんだよ、全然。ずっと一緒に居て、駄目なら死んでよ。仕事中だろうと電話にすぐ出てよ。俺が会いたいって言ったんだから会議なんて放り投げてすぐ帰ってきてよ。俺以外の人間と二人きりになんてならないで。他人とご飯なんて食べに行かないでいいでしょ。俺だけいたらいいじゃん。俺の顔好きでしょ。難しいこと言ってる?俺ってそんなにおかしいの。もっとちゃんと愛してよ。なんで出来ないの。俺は甘奈ちゃんの為に進学もしないでアイドルをして、それだって甘奈ちゃんが言うから一生懸命築いたキャリアを捨てて、俺は甘奈ちゃんの為に大切な人生めちゃくちゃにしたのに……甘奈ちゃんもめちゃくちゃになってよ。俺だけじゃ寂しいよ」


「……ごめん。でも今のあなたはお話にならない……この手枷つけたの逢瀬くんよね?鍵はどこ?仕事に行かなきゃいけないの」

目の前の男は明らかに正気ではない。

お茶を濁す態度を取って、手枷が邪魔でふらつきながらもベッドから立ち上がった。

逢瀬くんは隣を通り過ぎようとしたわたしの足を自身の足で引っ掛けて転ばせる。

フローリングの床に腰を強打して痛みに悶えた。

与えられた痛み以上に逢瀬くんから暴力を振るわれたことに驚いて、涙で視界が溶けていく。

それから逢瀬くんはわたしの手首を掴んで頭上に一纏めに押さえつけると、ズボンの後ろポケットから何かを取り出した。

次の瞬間、バチバチッという鋭い音、目の前が激しく光り、腹部に針の太い注射器を何本もいっぺんに刺されたような激痛が走る。


四肢が引き攣って、別の生き物みたいにビクビクと跳ねた。

キーンと耳がおかしくなって、奥歯を食いしばると、激しくなる心臓の音が嫌に脳に響く。

「そんなに痛くないでしょ。俺も前に足で試したけど、ちょっと動けなくなるくらいじゃん。でも大袈裟に泣いてるの、かぁいいね。ずっと俺のせいで泣いてたらいいのに」

逢瀬くんの少しだけ響きが変わった声。

揺らぐ視界に、にんまりと上がる口角を捉えて背筋が震えた。

足の爪先まで彼に支配されてしまうかのような錯覚。

逢瀬くんは荒々しい手つきでベビードールの白く薄い布を捲りあげる。

わたしの鳩尾にはスタンガンの高圧電流で出来た小さな火傷の痕があった。


尋常ではない事態に身体を揺らして逃げようとしたら、逢瀬くんは濁った視線を向ける。

「スタンガン、好き?」

スタンガンはわたしに見せつけるようにして火花を散らし、雷のような激しい光がバチバチッと目の前で発生した。

たったそれだけで、放電による痛みを覚えた身体が自分の意志とは無関係に震えてしまう。

恐怖で涙がポロッと落ちて、荒くなった息を必死に鎮める。

どろどろとした不安が毒のように胸に広がって止まらない。

「や、やら……そ、れ」

全身が心臓になったみたいに激しく脈動する。

年甲斐もなく、迫り来る痛みを想像して、縺れる舌を必死に動かした。

「ご、ごえ、ごえんな、さ」

目の前の男の綺麗な二重の目が、緊張の糸を抜いたようにすっと細くなって笑う。


逢瀬くんは敵意の無さをアピールするように、スタンガンを部屋の隅に放る。

ガチャンとプラスチックが床とぶつかる音がした。

わたしに白い指先を伸ばし、乱れた前髪を左右に分けるように整えると、無防備な額にキスが落とされる。

その唇がわたしのものと重なると、角度を変えて貪るように逢瀬くんの舌が口内を荒らした。

歯列をなぞる舌から逃れようとしたら、その行為を叱るように舌先を甘く噛まれる。

背筋がぞくぞくと痺れて、お腹の奥が熱くて仕方ない。

キスの合間合間に「や、」と拙い拒絶を告げようとするが、言葉ごと飲み込むようなキスの嵐に見舞われて、思考がとろけていく。

酸欠で頭がぼーっとし始めたタイミングで唇が離れる。


逢瀬くんはゾッとするほど昏い目で、淡々と言った。

「年下の男に支配されるのって、どんな気分?」

かちゃりと金属が擦れる音が聞こえて、わたしは自分が彼に縛られていることを思い出す。

そこで目が覚めた。

早朝の寝室はカーテン越しの窓から差し込む陽光が弱くて薄暗い。

ベッドからあわてて半身を起こして、わたしは叫ぶ。

「いや、支配するのはわたしなんだけど!?」

スーツのまま寝たせいか、悪い夢を見たせいか、身体は妙にぐったりと疲れている。

寝相が悪くて頭の位置が寝た時とは逆さまになった状態の逢瀬くんは、わたしの隣で夢の中の不穏な彼とは違ってすやすやと安らかな寝顔を晒していた。


▼ E N D

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