第2話 広がる世界

 次の日、聞きなれない音が聞こえた気がして目を覚ました。

 じっと耳をすませると、確かに聞こえてくる。

 雨の音とは別の、何かが近づいてくる音が。


 窓から様子をうかがっていると、草をかき分け誰かがこの家に向かってきていた。


 ――いつもとちがう。


 とまどいを感じたけど、同時にうれしさがこみ上げてきた。

 

 どうやら玄関に向かっているようだから、わたしも急いでそこに向かう。

 昨日置いたバケツを跳びこえて、ろうかを駆ける。


 玄関についたその時、ちょうど扉をたたく音がした。

 わたしはその扉を勢いよく開けた。


 ゴツン、という鈍い音がした。


 「あ……」


 目の前に立っているということを考えていなかった。

 扉の先には、お兄さんが顔を押さえてうずくまっていた。


 「ご、ごめんなさい……」


 ちょっと申し訳なかったけど、彼は手を上げて応えてくれた。

 たぶん、「大丈夫だよ」ということだと思う。

 ちょっと安心した。


 「痛たたた……」


 顏を押さえながらも、ふらりと立ち上がった。

 ……鼻血が垂れていた。

 全然大丈夫じゃなさそう。


「君、ここの子かい?」


「うん。ここに住んでるの」


「お母さんかお父さんはいるかな?」


「いないよ?」


「そうか。どこにいるかわかる?」


 ……変なことを聞くなぁ。

 さっきちゃんと答えたのに。


「だから、いないよ」


「え? だから、どこにいるのかって、あ……」


 ようやく気付いたようだった。

 まったく、言葉が通じないのかと思ったよ。


「……そうか。じゃあ、君に聞きたいんだけど、少しの間中に入れてくれないかな」


「いいけど、どうして?」


 お兄さんは通ってきたところを振り返りながら答えた。


「馬車の屋根が破けてね。ここの森が思っていたよりも深くて、木の枝に引っかかったんだ。いつもなら構わないんだけど、今回は本を積んでるから濡らすわけにはいかないんだよ」


「本があるの!?」


 予想もしていないことだった。

 もしかしたら、たくさん読ませてくれるかもしれない。

 

「その本、読んでもいい?」


「ああ、屋根を直している間なら、かまわないよ」


「やったぁ!」 

 

 思わず、とびはねて喜んだ。

 少しでも新しい本を読めるなら、じゅうぶんだった。


「使わせてもらってもいいかな?」


「いいよ。だから早く早く!」


「ありがとう。それじゃ、持ってくるからね。」

 

 彼は足早に物を取りにいった。

 しばらくして、大きな木箱を抱えて戻ってきた。


「ほら、これが本だよ。できるだけ大切に読んでね」


「うん。ありがとう!」


 昨日アミーカと遊んだ部屋にもっていって、さっそく読もう。


「重いから、ぼくが運んで行ってあげるよ」


 彼はそう言っていたけど、実際持ってみるとそこまでの重さは感じなかった。

 持ち上げて見せると、彼がぽかんと口を開けていた。

 これ、全然重くないんだけど……。


 ――いや、そういうことね。


「お兄さん、ニンゲンなんだね」


「は?」

 

 お兄さんは間抜けな声をだした。


 だって、わたしにとって軽い木箱でも、お兄さんにとっては重いんでしょう?

 ニンゲンって、わたしたちより体が弱いんだから。

 だから、お兄さんもニンゲンだよね。


「屋根なおすのに、どれくらかかるの?」


「え、ええと……日が暮れる前にはおわると思うよ。屋根って言っても、布だから」


 それなら、一冊くらいは読めるかな。 

 早く面白そうな本を探して読まないと。


 お兄さんが玄関から出ていく気配がした。壊れた物となおす道具を取りに行ったのだろう。

 わたしは木箱を開けてどんな本があるか探した。


 中に入っていたのは、いろいろな種類の本だった。

 物語、伝記、旅行記など。


「……これは?」


 その中から、わたしは見慣れない旅行記を見つけた。

 わたしもいくつかの旅行記は読んだけど、それは今まで見たことのないものだった。


 その本には、とてもリアルな絵がたくさん使われていた。

 白と黒だけで描かれているものの、ここまで細かく描かれた絵は初めて見た。


 すぐ近くで物音がして、お兄さんが戻ってきたのが分かった。


「これってなに?」


 その絵をお兄さんに見せると、教えてくれた。


「それは、写真っていうもので、風景をそっくりそのまま写せる道具で作ったものだよ。少し前に発明されたものだから、まだ珍しいけどね」


「しゃしん……」


 そのしゃしんというものに描かれているものは、どれも息をのむほどにきれいなものばかり。

 ついうっとりと見とれた。


「ねえ、ここにあるしゃしんの場所って、ほんとうにあるの?」


「もちろん。僕も全部見たわけではないけど、いくつか見たことあるよ。それは白黒で味気ないように見えるかもしれないけど、本物はもっときれいだよ」


「もっときれい……」


 これだけでも十分なのに、もっとだなんて……。


 わたしは、ただひたすら写真に見入っていた。

 となりでお兄さんが布の屋根を直しているのも気にせずに。





「そろそろいいかな」


 振り返ると、お兄さんが道具を片付けていた。

 もう、終わりの時間になってしまった。


「あと、ちょっとだけ……」


 お兄さんが、困ったように笑う。


「ごめんね。ちょっといそいでるから」


「そうなんだ……」


 もっと読んでいたいけど、約束だから返さなくてはいけない。

 でも、全然読み足りなかった。

 世界中の美しい光景を、もっとながめていたかった。


「まあ、家を使わせてもらったから、その本はお礼としてきみにあげるよ」


「ほんとう!?」


「うん。まあ、ちょっと高いけど、君にとってはそれ以上の価値があるみたいだからね」

 

 これを、わたしに……。


「さっきも言ったけど、本物はもっとすごいんだ。その本には、写真の場所の行き方も書いてある。きみも、いつか行ってみるといいよ」


「でも……」

  

 そとでは、ずっと雨がふっている。雨が止む日なんてほとんどない。

 だからわたしは、外に出ることができないのに。


「外は、君が思っているよりもずっと広くって、ずっときれいで、全然退屈しないんだ。君も外を旅してみれば、すごく楽しいと思うよ」


「退屈しない……」


「そう。全部が違って、全部が美しいんだ」


 このまま、この家にずっと閉じこもっていたら、わたしは気が狂ってどうにかなってしまいそうだ。

 ……それならば、たとえ不可能でも、この素晴らしい景色を見にいきたい。


「……うん。分かった。わたし、いつか外を旅してみるよ」


 お兄さんは、わたしの頭をなでて、部屋から出ていった。

 

 雨音でない、外の馬車の音が聞こえなくなるまで、わたしは本を抱きしめ続けた。

 


 

 

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