第千百六十七話・冬のこと
Side:三木直頼
「上様は随分と穏やかになられた。以前はあのような御方ではなかったのじゃ。触れた者を傷つける抜き身の刃のような御方でな」
御屋形様のお言葉に驚きを隠せぬ。わしには、とてもそうは見えなんだが。
「某は肝が冷えまして、ございます」
「臣下の差か。かつての近習らは上様の信を得られなんだが、今は塚原殿や久遠殿がおるおかげで、上様は臣下を信じておられるようにお見受けする。そなたはいい時に会うたものだ」
少し寂しげに語っておられる御屋形様の言葉に噓はあるまい。お仕えしておった主君に信じていただけなんだ。それは無念というよりは寂しく辛いものなのであろう。
「前にも言うたが、管領はいかんともしようがない愚かな男でな。されど、あの男は亡き大御所様ですら一目置かれるほどの力があったのだ。あの男にこびへつらう我らを、上様が汚らわしきものを見るように冷たい目で見ておられたのが思い出される」
わしが公方様からの
あの場で言及がなかったのは、すべて忘れろということなのだろう。
それにしても織田と争わなくて良かったわ。もとより意地を見せる一戦さえもやれぬほどの力の差があったが、公方様のご不興を買えば、わしなど一族郎党さらし首にされてしまうわ。
公方様がここまで斯波と織田を信じておられたとは……。
「尾張で大人しゅう余生を生きるとするか。
国人や土豪、寺社からの領地召し上げですら公方様は認めておるということだな。今までのやり方では日ノ本が治まらぬのは分からんでもないが。
とはいえ、もっとも驚いたのは素性を隠して諸国を巡っておられたことか。常人ではとても考えぬことをする。城から出ると生きることが難しい今の世で身分を捨てるなど信じられぬわ。
正直、上様も尾張も分からぬことが多い。
上様のことは触れぬほうが良いのは確かであろう。わしと三木の家如きが関わってよいことではない。
わしが考えるべきは、京極の御屋形様と京極家のことだけでよいのかもしれぬ。京極の名跡を戴く倅は上手くやっていけようか、もう飛騨一国の中で生きるを考えるでは、済まぬ立場に据えてしまった。倅には唐突であったろうな。
飛騨も直に織田の下でまとまるであろう。江馬と内ヶ島は知らぬこととはいえ織田に従わぬのは公方様に逆らうようなものよ。それに歯向こうて騒いだところで味方になる者などおるまい。
世は広いのだな。かようなあり得ぬと思えることが数多あるのであろうな。怖いものよ。
Side:奥平定国
絶縁された長兄と次兄とその子らが城と領地を織田へ引き渡すことを拒絶して、奥平本家に城を落とされたと知らせが届いた。
領民が兄たちに従わなかったようで、戦にもならず城を包囲されて早々に諦めたらしいがな。恥を晒しただけだな。
兄らのことは一族ということもあり本家は此度だけは許したようで、俸禄を与えることにしたとのこと。
実のところ、この手の騒ぎは織田に従う者らのところでは珍しゅうない。織田の力を知っておっても土地を召し上げられることには素直に従わぬのだ。下の者にとって誰が主でもあまり関わりないことだからな。
一所懸命。己が所領がすべてなのだ。
奥平の殿が兄らを許したのは、わしを気遣ってくれたからであろうな。あのような兄らでも血のつながりがある者らだからな。大殿の直臣であるわしの兄弟に本家とはいえ厳しき沙汰をすると、わしの面目が立たぬかもしれぬと案じてくれたのであろう。
もっとも、わしはすでにあの者らと縁がないと思うておる故、好きにされてもよかったのだが。
唯一わしを庇ってくれたひとつ上の兄上は、すでに尾張におり、今では清洲城で役目をいただいて励んでおるからな。
兄上は昔から武芸より学問が得意だったが、それは今も変わらぬらしい。織田家では文官の仕事が多く人手が足りぬとよく聞く。兄上も文官として召し抱えられたのだ。
長兄と次兄はそれにも怒っておったと風の噂で聞いたが、知ったことか。すでにわしと兄上は別家になっておるのだ。とやかく言われる筋合いはない。
本家の体裁もあろうことから騒ぐ気はないが、こちらから二度と会うつもりはない。
三河の土を踏むことも役目でもなければあるまい。ちと寂しい気持ちはあるがな。
Side:久遠一馬
飛騨や北美濃などでは雪が積もっていると知らせが届いた。関ヶ原では氷作りが順調だという報告もある。
今年から領内で本格的に広めている炭窯による炭焼きも、試行錯誤しながらではあるものの進んでいる。植林や竹林の造成による竹炭や
山岳部の暮らしに関しては、椎茸の人工栽培なども拡大するか検討中だ。人工栽培をウチが管理する場所から広げると栽培方法が漏れることも考慮しなくてはならないし、椎茸の流通量が増えすぎれば販売価格が下落しかねないんだよね。
ウチの儲けが減るだけならいいけど、山岳部では天然ものの椎茸販売は貴重な収入源だから、今後の暮らしへの影響を考えて慎重に決めなくてはならない。
また沿岸部も順調だ。一部の魚貝類で産卵期に漁業を控える禁漁も、賦役への参加を促し漁業の代わりになる収入を与えることである程度は出来た。回遊魚などは禁漁などしなくても大丈夫だけどね。この時代だと元の世界のような遠洋漁業がないから。
それと久遠船も増えてきたことから水軍が伊勢湾の沖合で漁業と訓練を並行してやっていて、水軍の収入源にもなっているくらいだ。
織田家とその領地は全体として過渡期に入っている。古い価値観と新しい価値観が入り混じっている。
いい面でいえば必ずしも法治という概念がないことから、変わることに抵抗がない人が少なからずいることか。寺社や武士などはそれなりに積み重ねたものがあるけど、領民レベルではそうでもないんだよね。
「ひとつ変わると、その影響で他がどう変わるか予想がなかなか難しいね」
「仏という俗称は私たちが望んだものではありません。有利であり危ういことでもありますね」
オレは大武丸と希美と
オレたちが伝えた新しいものは更なる変化をしつつある。時代の流れを敏感に感じて変わろうとしている人が思った以上に多い。
エルが特に気にしているのは信秀さんの仏の弾正忠という異名だ。あれが織田にとって統治に役立っていることは確かだけど、何事にも利点と欠点があるからね。
「仕方ないね。みんな、それぞれに家や命を懸けているんだ」
ジュリアの言葉はもっともだ。オレも甘く見ていたつもりはないけど、危機感と覚悟はこの時代の人たちが上だろう。
それに、この時代の人たちの変えたいという意欲に驚かされることが増えたのも事実なんだ。
織田家は新時代を担う家になる。そのためになるべくリスクを減らしていきたいとエルたちはいろいろと考えてくれているんだ。
「ちーち、はーは……」
そんな話をしていると、大武丸が起きてしまった。そんなにうるさくしていたつもりもないし、そろそろ起きる時間だったんだろう。
大武丸は近くで伏せていたロボに手を伸ばしつつ、オレとエルがいることで嬉しそうに笑みを見せた。
子供たちと一緒にいる時間は大切にしたい。忙しいし、今後も子供が増えるとそうもいかなくなるのかもしれないけど。可能な限り一緒にいたいね。
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