第千百六十四話・希望
Side:甲斐の領民
「うう、おっとぅ」
十を過ぎてやっと一人前になるかという子が泣いておる。朝起きたら父親が冷たくなっておったという。
ようあることだ。甲斐の冬は厳しい。ここ数年は米もあまり採れぬことで飢える者も珍しくないのだ。冬の寒さを凌ぐことが出来ぬ者が次々と亡くなっていく。
働き盛りの男が亡くなると家は厳しい。されど憐れむ者はおっても手を差し伸べる者はおらぬ。皆、己と家族のことだけで精いっぱいなのだ。
それに……、村にある食べ物は限られておるからな。ひとり亡くなれば、誰かが生きるだけのことだ。
「戦に駆り出されたとて得るものがない。武田様はいかに考えておられるのか」
「他国からは東国一の卑怯者と謗られておるとか」
「今のお殿様はようないの」
爺様たちは不満を口にして憚らぬ。昔は良かった。そんな話など聞き飽きたわ。
昔話などしておる暇などない。食えるものを探さねば飢えてしまうのだ。近隣との争いも増えた。勝手に山に入ると罰を受けるが、それでも山に行って食えるものを探さねばならねえ。
「今川め。武田様と同盟をしておったというのに裏切ったというではないか。向こうも卑怯者であろうに」
口を開けば武田様への不満と駿河の今川への怒りばかり。うんざりするわ。
ふと西の空を見上げると、先日、旅のお坊様が言うていたことを思い出す。
尾張では仏の弾正忠様が民に施しを与えて飢えぬようにされておる。あの国はこの世のものとは思えぬ国であった。と、そんなことを言うておられた。
数年前から幾度か聞いたことだ。初めは信じるに値せぬ話と笑うておったが、今ではそんな尾張を目指して村を捨てる者もちらほらとおる。
その者らがいかになったかは知らぬがな。
甲斐では昔から腹が膨れて人が亡くなることが多い。信濃者など甲斐は祟りの国だと陰口を叩いておるとも聞く。
飢えぬ国か。まことにあるのならば、行ってみたいものだな。
Side:牧場の老人
殿の子が生まれたことでここ牧場村も大賑わいじゃ。皆で毎晩神仏に祈りを捧げた甲斐があったと喜んでおる。
「菓子、美味しそう!」
「町衆に配るんだからな」
「うん!」
わしらは御家から那古野の民に施す菓子を作っておる。生まれた日から施しておるのじゃが、ここで作って施しておるのだ。子らは菓子の作り方も覚えておるでな。頼もしい限りじゃ。
「赤子、見に行きたいね」
「七日を過ぎるまで待つのじゃ。お屋敷は祝いの客で忙しいでな」
「はーい!」
子らが怪我などせぬように見守るのがわしの役目じゃ。小麦の粉を使った菓子でな。なんでも南蛮ではビスケットと呼ぶ菓子とのことで、ここでは堅ケイキと呼ばれておる。
もっともケイキと比べると硬いだけで、わしのような年寄りでも食えるくらいの硬さの美味い菓子じゃ。
「オレがお仕えして守ってやるんだ!」
皆、いい子じゃ。殿と慈母の方様を筆頭にしたお方様方が、我が子同然にお育てしていることもあってな。すでに元服した子もいて美濃の牧場に行った者もおるが、その者らには殿がわざわざ直臣として取り立ててやったほど。
よほど案じたのであろう。警護にと年配の家臣も共に美濃に遣わしたと聞いた時には少し驚いたほどだ。
殿は慈悲深く、巷では仏の弾正忠様のために天が遣わした使いだとも言われておるが、わしは知っておる。殿が人として皆を慈しみ守って下されておることを。決して神仏のお力ではない人の力でな。
我らのような死を待つだけの者ですら気遣うてくれるが、一方で己の身勝手で子を捨てた者には厳しい。
捨てた子が久遠家の下で働いておると聞くと、己も使うてほしいと押しかけてくることがようあるが、誰ひとりとして召し抱えてやったことがないからの。申し訳ないと頭を下げて会いに来る者には手を差し伸べておるがな。
ひとりの人として殿は生きておる。故にわしも生きてお仕えせねばならぬ。
さて、喜ぶ子らと共にもうひと働きするかの。
Side:久遠一馬
赤ちゃんが生まれて数日。オレはお祝いに来てくれる人たちの応対などで忙しい日々を過ごしている。
大武丸と希美の時にも経験したけど、これはこれでなかなか大変なんだよね。ただ、ウチのみんなで応対をきちんと出来たことで、久遠家も変わったなと思う。
ジュリアの産んだ子どもの名は
発表は生後七日を待ってする慣例があるので、まだ家中の外には言ってないけどね。
「まーま!」
ああ、輝が生まれた影響は大武丸にもあった。みんなが赤ちゃんに構うからか、自分も構ってほしいとアピールするようになったんだ。
呼び方に関しては、生みの母親であるエルを『はーは』にして、他のみんなを『まーま』と呼ぶように教えている。大陸の言葉にも通じるし、また欧州の言葉にも通じる。
さすがにみんなを母にすると、紛らわしいしね。大武丸と希美が呼ぶとみんな振り返るからさ。
そんな大武丸だが、今まで以上にみんなに自分を見てほしいとアピールして『まーま』と呼ぶことが増えた。
「大武丸、妹だよ。わかるかい?」
「あーい!」
特にジュリアのところによく行っていて、ジュリアは授乳の合間に大武丸と希美の相手もしている。もちろん侍女さんたちが複数いるから負担はないようにしているけど。
大武丸を抱きかかえたジュリアは輝を見せて覚えさせようとしているけど、大武丸は抱っこされたことでご機嫌な様子だ。
ここ最近は、産休のジュリアやシンディやアーシャがよく相手していたからなぁ。構ってあげないと寂しいみたい。
「はいはい、希美もいい子ですわね」
希美に関しては大武丸と違いあまりアピールをしないものの、ひとりにしておくと寂しくなるようで泣いてしまったことがあった。なのでみんな希美の様子も気にかけていて、今もシンディが抱っこしてあげていると嬉しいようでご機嫌だ。
子供って大変だなと思う。ウチは人も多いし、ロボ一家も傍にいるので全然負担は少ないけどね。特にロボとブランカは、赤ちゃんを自分たちが守るくらいの認識があるようにも見える。
「大武丸、ジュリアは休む刻限なのです。さあ、あちらで遊んであげます」
「姫様、ありがとうね」
ああ、もうそんな時間か。お市ちゃんが大武丸と希美を連れて別室に移動していった。
エルの時の経験もあるお市ちゃん、ウチの出産と育児を覚えちゃったからな。ジュリアもそんなしっかり者のお市ちゃんに笑みを見せた。
最近だと清洲城の女衆にもウチのやり方を教えていると、土田御前が言っていたね。おませな性格もあって、あちこちでウチの出産と育児の素晴らしさを布教している。
おかげでケティたちのもとには出産と育児の相談も増えたくらいだ。身分のある人が認めると一気に普及するんだよな。ほんと。
実際、お市ちゃんの明るさと成長はエルたちも喜んでいて、特に妊娠期間中は励みにもなるとエルが言っていた。
ほんと、お市ちゃんには助けられているな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます