第千百五十八話・信濃の憂鬱
Side:久遠一馬
暦は十月半ばに入っている。季節は初冬といったところだ。
先日には、観音寺城から飛騨守護に任じるという使者がやってきた。事前に書状で知らせは届いていたけど、これで名実ともに義統さんは飛騨守護になった。
使者は与一郎さんの兄で、足利家奉行衆の三淵藤之さんだった。菊丸さんが旅をしていることを知っており、万が一にもおかしなことを言い出さない人を使者にしたのは奉行衆でも人選に気を使ったんだろう。
こちらとしては礼銭と礼物を渡して気持ちよく帰ってもらった。
「そうか。戦というのも難しいね」
武田と今川の戦が終わったと伊賀者から知らせが届いた。結論からいえば決着はつかず。
「信濃は随分と荒らされたようでございまする。また甲斐は双方ともに被害がそれなりにあったとか」
望月さんの報告にオレは素直には喜べなかった。憎しみの連鎖が広がっていると感じたからだ。
武田はよく守っている。史実では攻めの戦が多かった晴信だけど、守りの戦も出来るみたい。
今までだと信濃がメインで甲斐の湯之奥の戦はそこまで激しくなかったようだけど、今年は湯之奥の戦も相応に激しかったようだ。戦略か、それとも焦りか。いくら昆虫型偵察機があっても人の胸の内までは覗けないので分からないね。
武田方の信濃衆は退けないところまできている。武田に従って同じ信濃の国人を攻めていた人も多いからね。今更、武田を裏切り寝返ったところで小笠原さんたち反武田の国人たちは決して許さないだろう。
まあ、今川は味方に迎えると思うが、それをやると信濃の情勢がさらに混迷するだろう。義元はそこの隙を突いて信濃を領有したいんだろうね。
「甲斐は先代の頃から他国から奪うことで暮らしてきた国です。仕方ないところもありますが、それが当たり前となり、もはや武田ですら止められないようです。遅かれ早かれ武田は窮地に陥ったのかもしれません」
オレはどうしても元の世界というフィルターを通して見てしまいがちだ。ただエルもまたオレと同じく、元の世界とこの世界を比べていたのかもしれない。
一般的には表面上だけでも体裁を整えようとするんだけどね。同盟破りにしても裏切りにしてもね。だけど武田はそれすらしようとしない。
もっとも、戦国時代という一括りで甲斐を見るのは間違っているとも思う。各地の言葉だって方言で分かりにくいことがあるように、常識や価値観だって地域によって違うはずだ。だから甲斐の常識は畿内では非常識ということだってあるだろう。甲斐ではそれで成り立っているというのが現実なんだ。
まあ、同盟破りにしたって若い晴信が独断で決めたとは思えないしね。晴信を擁立して先代の信虎を追い出した重臣たちが晴信にあれこれと口を出したはずだ。
実際、そんな同盟破りやら敵地で非道なことを主導したと思われる重臣たちは過去の戦で亡くなっていて、現状ではほぼ残っていないみたいだけどね。
現状は晴信ひとりの責任とは言えない状況だ。もちろんそんな重臣たちを統制できなかった責任は晴信にあるんだろうけどさ。この時代ではそれが普通なんだ。
戦略としては、武田と今川を争わせて疲弊させるというこの策は間違ってはいないと確信している。そもそも武田と今川の争いは今川が始めたことだしね。こちらはどちらにも関わらないとしているだけだ。
極論になるが、オレは元の世界の倫理や価値観をこの世界にそのまま持ち込む気はない。必要とあれば敵地での根切りだって命じる覚悟はしているつもりだ。百人を殺すことで一万人の命を救えるのならば為政者として百人を殺すのを選ぶのは正しい判断なんだ。綺麗事だけじゃ済まないからね。
でもね。武田と今川の報告を聞くと、気持ちが晴れないのも事実なんだ。
政治も戦も本当に難しいな。
Side:真田幸綱
信濃からの文にため息が漏れる。武田家と今川の戦は得るものがないまま毎年のように続いておる。真田郷からは助けを求める文が幾度となく届くが、わしに出来ることなどさして多くはない。
尾張に来て数年。そろそろ御屋形様に願い出て信濃に戻ることは出来よう。されどそれをすれば、織田との繋がりを自ら断つことになってしまう。
もはや武田も今川も信濃をまとめられまい。わしが戻れば真田一族が生き残る伝手を失うことにもなりかねん。
文化祭。先日あった那古野の祭りだ。わしも尾張者と共に祭りのために働いたことで悟ったのだ。武田と今川では決して織田には勝てぬとな。民が自ら領主のために働き、国を良くしようと励む。左様な国に奪うことしか出来ぬ国が勝てるはずがない。
もとより兵も武器も兵糧も城もすべてが、織田は圧倒しておる故、論外とも言えるがな。
同じ信濃先方衆であっても、望月のように久遠と繋がりがあり御屋形様も今川も安易に手を出せぬところはいいが、我が真田家は御屋形様に忠義を尽くした分だけ周囲に恨まれておろう。
酷なようだが、信濃の一族には耐えてもらうしかない。今は我が子をひとりこちらに呼び、西保三郎様の近習とするくらいがせいぜいか。嫡男の源太郎では御屋形様に無用な疑念を抱かれよう。ならば徳次郎か源五郎を呼ぶか。
御屋形様はただならぬ御方でご恩もある。されど真田の家をわしの代で潰すわけにはいかぬ。
世は無情で残酷であるな。
side:木曽義在
「そうか。よう知らせてくれたの」
武田と今川の戦が終わったと旧知の商人が教えに参った。勝敗はつかず。小笠原殿は守護でありながら国人らをまとめる力もなく、今川がまとめて戦っておるという。
当然ながら信濃衆同士が互いに疑心暗鬼となり、あちこちで係争地や遺恨がある者が小競り合いをしておる有様か。
「尾張の地はいかがでございましたか?」
「争いもなく、武士も坊主も民もよう働いておるわ。木曽の地から見ると西は極楽で東は地獄だな」
商人が知りたがったのは尾張のことだ。今や尾張と商いが出来ねば商人としてやっていけぬのが当然となっておるようだからな。
肝心の尾張の地は、この世のものとは思えぬほど豊かで争いのない国。信濃と比べるのもおこがましいとさえ思うわ。
「商いは織田様に頼んでおいた。ただし今川と武田には勝手に売るな。そなたの首だけではすまぬことになる。そなたの一族郎党どころかわしの首すら危ういことだ。肝に銘じておけ」
飛騨の姉小路と三木も織田に降った。江馬と内ケ島は動かぬようだが、相手が織田ではなにも出来まい。最後に勝手なことをするなと厳命して商人を下げると、ひとりで今後のことを思案する。
「いっそわしも……」
織田は自ら臣従をせよとは言わぬという。噂によれば織田家が近年で自ら臣従をと請うたのは久遠殿だけであるとか。美濃の斎藤や三河の松平でさえ自ら臣従を願い出たという。
木曽の地は、当面は今のままでも困ることはあるまい。美濃と飛騨を治める織田さえ怒らせねばな。されど武田と今川の戦の知らせを聞くたびに、間違ってもそちら側に付くわけにはいかぬと実感するわ。
今日明日にも決断を急ぐ必要はなかろうが、武田と今川の戦の行く末によっては織田に臣従を願い出る必要があるやもしれぬ。その時にすぐに臣従を許されるくらいには誼を深めておかねばならぬな。
戦で一戦交えてなどと考えて、一槍も交えられずに敗退して御家を潰した三河者のようにはなりとうないからな。
そうだ。尾張に屋敷を構えさせてもろうて孫の宗太郎を学校とやらに通わせるか。織田の地をよく知らねば今後は生きていけまいて。
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