第六百七十五話・上洛を前に
Side:久遠一馬
浅井の件について話し合いが終わった。北近江三郡は六角の支配下となるが、六角は朝倉や織田の不利益になるようなことはしないと誓紙に誓うことでまとまっている。
朝倉はそのうえで国境沿いの領地や、京の都への街道の一部に影響力を残すのだろう。両属状態の国人や土豪など珍しくないからね。そこはやり過ぎないならば問題にならないはずだ。
織田としても同じことは出来なくもないが、今のところやる価値はあまりない。そもそも織田は曖昧な統治や臣従をはっきりさせることを試しているので、わざわざ曖昧にする政策は逆効果になる。
現在は上洛と留守中の準備をしている。守護である義統さん、実質的な統治者である信秀さんと嫡男の信長さん。この三人が一度に抜けるのは過去にないことだ。
西は問題ないだろう。六角と朝倉とは話が付いている。気になるのは東だ。今川がとうとう兵を集め始めた。武田との戦がいつ始まってもおかしくはないし、美濃の独立領主だって騒ぎを起こしてもおかしくはない。
まあ対策はしていく。留守を任せる信康さんや信光さんがいれば大丈夫だろう。この時代の常識で言えば留守を任せる彼らが乗っ取りや謀叛を企むことを疑うべきかもしれないが、現在の尾張では織田弾正忠家とウチが大きな力を持っているので、極論を言えば織田弾正忠家を押さえても謀叛は成功しない。
言い方を変えれば、一番謀叛が成功しそうなオレを連れていく時点で領内は問題ないとも言える。
「わーい!」
「わん! わん!」
上洛を間近に控えたこの日、蟹江郊外にある砂浜に来ている。真っ先に海に駆けていくお市ちゃんとロボとブランカを見ながら、オレは砂浜で一息つく。
今年二回目の海水浴に来たんだ。一回目はウチの家臣や奉公人などの関係者の家族と、孤児院の子供たちに領民も手の空いている人を集めて来たんだが、今回は信秀さんが主催となっていて織田一族と義統さんの家族がいる。
信秀さんたちは数年前から海水浴に来ているものの、義統さんは今回が初めてだ。
「潮湯治は聞いたことがあるが、こうして余暇を過ごすとは面白いの」
一番楽しげなのは義統さんだ。もうこの人、守護家とか三管領とか本当にどうでもいいと考えているのかもしれない。信秀さんになんで誘ってくれないんだと言ったらしいからね。
さすがの信秀さんも答えに困ったとか。海水浴はあくまでもウチの遊びだ。この時代では欧州でもないだろう。建前としては狭い島が本領なので海で遊んでいたということにしたけど。
海水浴に関して武士には広まり始めている。なんというか新しい遊びのような感じか。ただ領民にはあまり広まっていない。理由は休みがないからだろう。
海沿いの村の子供が海で泳いで遊ぶことはあるだろうが、砂浜で泳いだり日光浴をしたりすることはまずない。
そもそも領民は年に一度の祭りなどがないと仕事を休まないし、雨が降ったりして賦役を休みにしても内職をしているほどだ。
領民にも銭が渡るようになったし生活が楽になっているとはいえ、それでも余暇に遊ぶほどの余裕はまだないところがほとんどだ。食べられるようにはなっているが、着物や家財道具なんかはまだまだ高価で高嶺の花になる。
頑張って働いて、年に数回は甘いお菓子や酒をみんなで楽しむのが織田領の領民の贅沢と言える。
領民が余暇を楽しむには、もう少し収入を上げて物価を下げる必要があるだろうね。
「これが日焼け止めの薬。よく塗るといい」
子供たちが海や砂浜で遊ぶ中、ケティは女衆の皆さんに日焼け止めの薬を配っている。あんなもの持ち込んだのか。まあいいけど。
この時代の女性はどうしても美白を好む傾向がある。身分が高い女性は外に出ないことで色白だからね。さらに古来より暗い部屋で映える白粉を塗った姿が好まれる時代なんだ。
この日も土田御前とかは、日傘の下で水着の上から浴衣のような着物を一枚羽織る形で過ごすらしいが、日焼け止めの薬を喜んでいるね。
まあ、適度の日光浴は体にいいからとケティが勧めているので、土田御前たちもそこまで青白いわけではない。
ちなみに日焼け止めの薬は主にお市ちゃん用だったんだよね。放っておくと農民の子のように日に焼けそうでさ。当然エルたちとかも使っているんだけど。
「今日は海からの風が気持ちいいですね」
日傘の下で海をのんびりと眺めていると、隣にいるエルの髪が揺れた。抜群のプロポーションの白い肌に少し日焼けした跡がなんともいい。共に生きているんだなと実感する。
「鼻の下伸びているわよ」
揺れた髪を整えるエルの姿を思わず見入っていると、泳ぎに行っていたはずのミレイがいつの間にか後ろにいて突っ込まれてしまった。
「結構なことなワケ。草食男子とかよりよほどいいわ」
元から肌が地黒気味であるエミールは、オレをからかうように背後から抱き着いてくるとニヤニヤしている。
君たちどちらかと言えば肉食系女子なんだよね。そんな設定してなかったのに。
もっともアンドロイドのみんなは人形じゃない。成長もするし失敗もする。それに女性も別に待ってばかりじゃないのは、元の世界もこの時代も同じだ。もっとも生存競争の激しいこの時代の女性のほうが積極的かもしれないが。
「殿、エル様たちも飲み物はいかがですか?」
なんか若干絡まれているようにも見えなくないオレだが、周りはいつものことだと気にしていない。お清ちゃんはそんなオレたちに、海で冷やしていた麦茶を持ってきてくれた。
彼女もワンピースの水着だ。多少恥ずかしさはあるらしく恥じらいの表情でもあるが、それでも着慣れてもいる。
千代女さんと彼女もすっかりオレの奥さんとして落ち着いたな。お清ちゃんは特にエルたちの侍女としてずっと働いていたけど、今では侍女が仕える側だ。
もっともエルたちも働くので彼女も相変わらず働いている。ケティの話では彼女は看護師として優秀らしく、後進の育成を任せ始めたんだとか。
日頃から細かいことに気が利くようで、患者さんの親身になって医者のサポートをすることが得意らしい。
「甘い! 足元に気を取られ過ぎだよ!」
ふと見渡すとジュリアが、勘十郎君と岩竜丸君と竹千代君などを相手に砂浜で武芸の稽古をしている。相変わらず相手が誰でも遠慮もしないし態度もほとんど変わらない。
ただまあ、面倒見がいいので本気で武芸を学ぶ人には評判がいいんだよね。岩竜丸君も時々武闘派に混じって稽古を付けてもらっているらしい。
最初は個別に稽古との話だったんだけどね。学校の影響か他の皆さんと一緒に稽古をしているみたいだ。
「かずまー、えるー。かい、たくさんひろった!」
「あらあら、たくさん拾いましたね」
みんな自分の好きなように海を楽しんでいたが、ロボとブランカを連れたお市ちゃんと姉妹たちが桶に結構な貝を拾ってきた。エルが受け取ったけど、食べられる貝がほとんどらしい。
アサリとかハマグリとかマテ貝とかあるみたいだ。孤児院の子供たちと一緒に来た時は、みんなで貝拾いするからなぁ。
貝は砂を吐かせて料理に使えるし、残った貝殻はチョークの材料となる。最近だと貝殻だけでも買い取っているんだよね。
紙芝居とかで漁村を回る人が買い取る場合もあるし、商人で買い取っている人もいる。最終的には工業村に搬入されて、今ではあそこでチョークを作っているんだ。
しかし水着と麦わら帽子姿のお市ちゃんを見ていると、いつの時代の子供かわからなくなるね。
このまま上洛なんてしないで毎日のんびり暮らせばいいのにと思わなくもないね。
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