第三百八十七話・今川家家臣から見た三河

Side:山田景隆やまだかげたか


「殿、駿府の御屋形様はなんと?」


「今のままだそうだ」


 家臣の問いに駿府からの指示を伝えると思わず周囲からため息が漏れた。


 わしは山田新次郎景隆。今川家に仕えて三河を任されておる。


 岡崎を始めとする諸々の状況を伝えて指示を仰いだが、未だ御屋形様は動かれぬとは。三河では今川は織田の金色砲に臆したのだと言われておるというのに。


 三河は相も変わらず混沌としておる。親織田と親今川があちこちにおるが、そこに加えて面従腹背めんじゅうふくはいとは、これぞまさしくとばかりな支持と本音がまた違う。


 近頃では、矢作川西岸ばかりか、東岸の国人衆にも親織田が増えておるというのに。何故、御屋形様はなにも手を打たんのだ?


「岡崎の広忠は織田に寝返るつもりでは?」


「さあな。だが奴の心情も分からんではない。あれだけ自身が先頭に立って織田と戦い、嫡男すら見捨てたのだぞ? それをろくに後詰めも出さぬのだ。誰がかような者に臣従しよう。岡崎が見捨てられるのではと疑心暗鬼になったのも無理はない」


 ここ一、二年で三河はすっかり変わってしまった。


 広忠は今川に臣従してでも三河を織田から取り戻さんとしたが、駿府の御屋形様は松平宗家への後詰めもろくに出さずに、織田との交易で得られる利で動かなくなってしまわれた。


 その結果、今では三河には駿河ではなく尾張の商人が多く入ってきており、駿河の商人を駆逐する程の勢いがある。


 さっさと織田を攻めてしまえばよかったものを。安祥城はすっかり別物と言えるほど改築されたばかりか、弾正忠と久遠の助力で鉄砲や見知らぬ武器を使い、織田領に攻め入った国人衆に連戦連勝だ。


 奪えるものもなく被害ばかり増えたことで、今年に入ってからは国人衆でさえも動かなくなってしもうた。


 懸念は商いだ。尾張の商人が売る品は安い。織田は南蛮船の交易の利で大湊と組んだようで品物を大量に動かせる。塩や兵糧はもとより酒や木綿に絹などだ。忌々しいことに、いずれも駿河を意識した値で売っておる。


 岡崎も以前は尾張より駿河の商人を遇しておったが、今ではいずれも遇せず来る者を拒まぬようになった。実のところ、尾張の商人を受け入れたのだ。


 我ら今川家の者や親今川の者はそれを非難しておるし、駿河の商人からは尾張の商人の排除と己らを遇するようにと嘆願が届いておる。だが親織田の連中は、織田との決戦のために力を蓄えるためだと詭弁を語る。


 わしも広忠に対しては怒りや苛立ちはある。ただ、広忠の言い分も理解出来る。御屋形様が動かぬ以上は、なにも出来ぬのだ。わしと同じように動かぬ御屋形様に苛立ちがあるのかもしれん。


 こうなる前に幾度いくども織田を攻めるべきだと進言したのだぞ。それを無視しおって。


 もっとも親今川の国人衆も尾張の商人と取り引きをしておるがな。値が安い上に質が良いのだから当然と言えば当然だが。


 そもそも連中は織田よりも今川が強いと考えて従っておるだけのこと。三河の無能な猪武者は獣と同じなのだ。


 だからこそ力を見せねばならぬのに。


「しかし、殿。織田と戦って勝てますかな?」


「なにが言いたい?」


「織田は北条と結んだ様子。東の押さえを残せば、三河に送れる兵力はせいぜい一万でございましょう。それでは安祥は落ちますまい」


 困ったことに、我が家中ですら織田との戦には最早乗り気にはなれぬ者がおるのだ。もっとも、その者たちの言い分もまた正しいのだが。


「懸念は久遠と佐治の水軍にもありまする。海はいずこから来るかわかりませぬ」


 そう。織田との戦に乗り気になれぬ大きな原因は水軍だ。久遠の南蛮船は少なく見積もっても五隻から十隻。そこに佐治水軍の南蛮船もどきもある。


 それが関東まで今川領を無視して行けるのは確か。駿府を直に攻めることも叶うのであろう。


 無論、数隻の船で駿府が落ちるなど考えられぬが、駿府を攻められれば今川家の威信は地に落ちる。そこに気付かぬ織田ではあるまい。


 結果として海から近い城は南蛮船の備えをせねばならぬ。三河に一万など送れぬかもしれぬのだ。


 故に、久遠が来た頃にさっさと織田を三河から叩き出しておけばよかったのだ。それなのに……


 しかし、今川が生き残るには織田に勝たねばならぬ。時は織田の味方だ。


 一刻も早よう、叶う限りの大軍で織田と戦わねばならぬ。信秀を戦場に引きずり出して大敗させれば潮目も変わるはずだ。


 このままでは今川家は終わりぞ。何故それが御屋形様にはわからぬのだ!?




Side:久遠一馬


 生徒も増えている学校では、いくつかの新しい試みを試している。そんな中で特に教えているのは楷書体での筆記だ。


 この時代では草書体、いわゆる文字を崩して繋げて書くのが通例で、ある意味、属人的な暗号と識別符に近いので、書く側・読む側共に『文字を介して、内密に遣り取り出来る。俺たちって凄え』の潜在的な自意識があるのだが、それでは書く人により文字の癖が強く出過ぎて、判読不能や誤読がつねになってしまう。将来的な公文書は楷書体での筆記を目指しているので、学校では楷書体での筆記を推奨している。


 本当は元の世界のように漢字の簡素化をしたり、日本語としてより確立させることもしたいが、それは時期尚早だろう。ちなみに、平素のおきょうやおふだは兎も角、経典きょうてんを草書で書かれたのを、オレは見た事がない。こんなところにも宗教の先進性を感じる。


 学校では、すでに翻訳または写本した本は基本的に楷書体で書くようにしていて、図書室と書物庫と小笠原諸島に収蔵している。


 まあその前に極秘裏に電子化して、宇宙要塞のデータベースにも保存してあるけど。


 書物庫は書物専用の蔵として建築した。当然、火気厳禁と地震や雷の対策をしてある。北条幻庵さんからの写本もここに保管していて、ほかには公家なんかから流れてきたと思われる古い本とか明から流れてきた本を収集している。


 ウチは現物さえしっかりしていれば高くても買うので、最近は商人なんかが直接持ち込むことが増えた。


 これだけやれば、ある程度は後世にこの時代の本が残るだろう。書物庫は織田が天下を収めたら拡大して増やすつもりだ。朝廷が保管している書物も多い時代だ。原本は朝廷が、写本は織田が管理するのもいいかもしれない。写本は、複数作って各地に分散保管するのも考える必要があるだろう。災害大国だからな、保管施設ごと物理的に消滅することも想定するべきだ。


 史実では、題名だけで、後世まで内容が伝わらなかった書物も少なくない。個人で収蔵していた本なんかが残ってはいるが、出来ればきちんと残したいからね。




「これはようございますな」


 この日ウチの屋敷には、とある新しい紙が届いていた。それを見た資清さんが思わず驚いた。先に原料を教えていたからだろう。


 実は工業村の近隣にある職人町にわら半紙を試作させたんだ。


 職人町とは工業村に入る資格がない職人が集まった場所だ。主に尾張以外からやってきた職人が集まる場所になる。


 元々領外からやってきた職人は、津島、熱田、清洲などに割り振っていたんだけどね。どこも職人を工業村に引き抜かれて人手不足になっていたし。しばらくしたら人手不足は解消したんだけど、人の流入が止まらなくてね。街中需要の局地的な人手不足が解消してからは、職人町として工業村に隣接する場所を指定し、そこに集めたんだ。


 職人の中には他国と繋がりがある人もいる。あちこちから集まってきているからね。そんな町なので、わら半紙を作ってもらったんだ。他国に広まっても困らない技術だし機密にするものでもない。


「紙の需要が多すぎて生産が追いつかないからさ。欠点はあんまり保存向きじゃないことかな」


 わら半紙の実用化はひとえに紙の需要が増大したことにある。統治を曲がりなりにも文治統治にしたので、書類はきちんと作り報告させることをした影響だろう。


 美濃紙で有名な美濃から紙は買っているけど、一時的な文章やらかわら版まで和紙にする必要はない。


 もっともわらもこの時代では重要な資源だ。草鞋わらじかさみのなどの着るものから、籠や縄など日常に欠かせないものになる。そして冬には保温寝具として、庶民には命綱いのちづなとなる。他国が安易にわら半紙を真似て、そのまま冬を迎えると、どうなるかはオレたちにも判らない。


 ただ、紙の需要を考えるとわら半紙が必要だろう、和紙だけでは間に合わない。当面は学校で使う消耗品として使っていく予定だ。尾張、美濃、伊勢は、この時代では日本有数の米が採れる地域でもある。近隣ではあんまり裕福でない三河も、わらを売ることで多少は楽になるだろう。オレたちは藁を売った村や、街町まちまちで藁を頼りにする人たちから、凍死者が出ない様にするだけだ。


 今後は稲わらや麦わらを買ってわら半紙を生産していこう。美濃がもう少し安定したら、わら半紙は美濃での生産に移行する予定だけど。


 産業を美濃にも広げないと間に合わないし、不満が出るだろう。美濃は紙で有名だし高品質高価格な美濃紙と、低品質低価格なわら半紙で住み分けも可能だ。


「ちょっとした文や清書前の報告などならば、これで充分でございましょう」


「麻からも紙を作ってみてるけど、これが一番簡単でいいんだよね。八郎殿。だれか任せられる人に任せてやってもらって」


 そうそうメモ魔であり、最近は以前に関東に行った時の記録を道中記として書いてる太田さんも呼んで感想を聞いてみるが、反応はいい。


 歴史的な観点からみるとちょっとしたメモも貴重になるが、残したいものと残したくないものは分けたいのが、この時代に生きてる人間としては本音だ。


 資清さんも太田さんも忙しいから、だれが適任者を探して任せよう。




◆◆


 わら半紙の歴史は古く、戦国時代にまで遡る。


 尾張の織田家に仕官した久遠一馬が天文十八年に紙の需要の増大から作らせたとの記録が、滝川家に残る『資清日記』にある。


 織田学校や久遠病院などを建築して、尾張の統治においても税や諸雑務をきちんと明文化することを始めていた織田家では、慢性的な紙不足が発生していたと伝わる。


 『資清日記』によればいくつかの方法を試していたようだが、実用化が簡単で素材が手に入りやすい、わら半紙が一番量産に長けていたとある。


 なお『資清日記』には久遠家では貴重な紙が、あっという間になくなるという愚痴のような記載もある。


 最終的には子供たちの字の練習や玩具として使われていたようである。


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