第二百八十七話・蟹江の現状

Side:久遠一馬


 久々に訪れた蟹江は驚くほど賑わっていた。


 工事はまだ土地の造成の段階だが、それよりも賑わっているのは港町の建設予定地の外に設けていた仮設の町だろう。


 ここの工事は周辺の領民と知多半島の佐治さんの大野から派遣してもらった人たちに、長島や北伊勢から派遣してもらった人たちが参加している。


 そのうち佐治さんの大野と長島と北伊勢の人たちがここに滞在して働いているけど、彼らの住む長屋の周りに商人や遊女が店や住居を建てていて、いつの間にか仮設の町が拡大している。


「ここ、港が完成したら取り壊すんですけど……」


「存じております。それまでならば構わぬかと。お望みとあらば、すぐに立ち退かせまするが」


 案内役は前田利久さん。史実で前田慶次の義父となった人だ。ここの管理を信秀さんから任されてる二十歳過ぎの人。どうも体が弱かったらしく武芸が得意ではないようで文官衆のひとりになっている。


 史実だと滝川益氏の妹を妻にして慶次を養子にしたらしいが、この世界ではそもそも滝川家も前田家も立場が違うのでそんな話すらない。


 滝川家はウチの重臣だし、前田家は林家の与力だったが林の乱で信秀さんの直臣となり今に至る。


 ああ、実はこの人もケティの治療により病弱な体調はだいぶよくなったらしいね。


「いや、それならいいけど。これ警備兵がいるな。エル、何人か寄越せる?」


「すぐにとなると、五十人ほどでしょうか。ジュリアとセレスに確認して手配してもらいましょう。あとこのままでは火事が起きたら延焼します。もう少し建物のあいだを離すようにしてください」


 商魂逞しいのはいいんだけど、建物を密集して建てるのはまずいよね。それと治安も少し悪化している。


 今日、視察に来たのもそんな報告があったからなんだよね。今の尾張は伊勢湾の経済の中心と言っても過言ではない。


 その分だけ他国から様々な人々やそれに紛れて間者が集まってくる。蟹江の港は特に注目を集めてるし気を付けないと駄目なんだよね。


「順調ですね」


「そうですな。皆、やる気を出しております」


 港の工事は順調だった。やっぱりこの時代、人海戦術が一番らしいね。


 それに去年からの工業村や牧場を皮切りに次々と始まる建設工事で、尾張の人たちが賦役に慣れたこともある。特に現場管理している下級武士たちなんかは、お昼ご飯を出して休憩させる新しい賦役のやり方に順応している。


 無理をさせ過ぎない。一言で言えばそれが尾張の新しい賦役の特徴だ。費用は当然、従来の賦役よりかかるが、統治の効率と経済的な利点を考えるとプラスだろう。


 ちなみにここの工事では尾張での製造が軌道に乗り始めた鉄製の工事道具と大八車を投入している。


 数は当然ながらまだまだ足りないものの、それでも工事の効率は上がっているだろう。


 問題は土地の造成用の土砂の運搬だ。陸路と海路で運んでいるが、やはり人力では時間が掛かっている。想定の範囲内だろうけど。


「尾張のあちこちでこれほどの賦役を実施しておるとは。織田家も大きくなりましたな」


「皆さんが頑張っているからですよ。使った銭は回りまわって尾張を豊かにするんです」


 利久さんは土地の造成で働く人たちを見ながら、感慨深げに織田の現状を口にした。


 現在、大きな賦役は清洲の城の改築と町の拡張に、那古野の町の拡張とここの港と町の建設だ。他にも荒廃した田畑の復旧や村の復興、堤防工事などを尾張各地でいろいろやっている。


 以前の織田家ならばどれか一つでも家中総出の大事業になるんだろうが、今ではそれをあちこちでやっているからね。みんな驚くんだろう。


 まあ、大変なのは今も変わらない。とはいえ伊勢湾と周辺諸国から集まる物資と、ウチに集まる銭を出来るだけ尾張に流すにはこれくらいの賦役が必要になる。


「それに、ここは織田による伊勢の内海を使ってする交易の中核になるところなんですよ」


「まさか、尾張に大湊や堺のような湊を造ることになるとは思いもらぬことでございますな」


 蟹江港の全容はまだ一部の人しか知らない。ここが交易の港のみならず伊勢湾沿岸、さらには東海沿岸にと睨みを利かせる軍港になることはまだ秘密だ。


 もっとも勘のいい人は部分的には気付いているんだろうけど。これだけの港を守るには相応の軍事施設が要るのは言うまでもないからね。それが伊勢の国への押さえの城になるとは考えても、軍港を基点とした制海権の重要性にまで至るのは難しいと思う。


 ああ、長島からの人足も順調に尾張の賦役の仕組みとやり方に慣れてきているようだ。


 尾張だと頑張れば飢えはしない。それを長島と伊勢の人に知ってもらうことも、ここでの賦役の目的になる。一向一揆の可能性は出来るだけ低くしたいんだ。


 みんな、いい顔をしている。大変でも希望があると思ってくれている顔に見える。


 そんなみんなが、織田の天下統一の原動力になるといいな。




Side:堺の会合衆


「上手くいきまへんな」


「まったくや」


 尾張のことを話すために会合衆が集まったが、みなの表情は冴えんな。


 尾張に行った商人が帰ってきたものの、やはり金色酒は買えんかったようだ。銅塊を売って良銭を得たらしく儲けはあるみたいだが。


 現状では銅塊や銀を尾張で売り良銭を得て、向こうで売っている米や雑穀を買い堺銭で払えば儲けは大きい。忌々いまいましい事に銅も銀も質を調べられて、粗鋳そちゅうは買い叩かれるがな。東夷あずまえびすごときが思い上がりよって!


 とはいえ欲しいのは金色酒だ。畿内から西国まで引く手数多だからな。


 畿内に入ってくるのは伊勢大湊と近江の商人が運んでくる僅かな量しかない。あとは織田様が朝廷や公方様に献上しておる分と、石山本願寺が長島の願証寺から運ばせておる分だけであろう。


 尾張の商人は、我らがいかほどの値を付けても、誰にも売らん。旧知の商人も金色酒だけは駄目だと言う。理由は織田様が許さんというもの。大元おおもとは金色酒を造っておる久遠様の意向らしいが。


 僅か一年ほど前に尾張に来たばかりだというのに、瞬く間に尾張と伊勢の商人を黙らせ従えているお人だ。


 逆らった桑名は、荷留で今や見る影もないほど寂れた。嘘か真か久遠様は東の海の向こうに本領があると言う。


「織田は我らの銭にも不満があるようだ。織田の良銭と我らの銭では価値がまったく違うからな」


「なっ……、織田は堺が要らぬというのか!?」


「そこまで言うたかは分からぬが、悪銭ばかり持ってくる堺の商人は要らんということらしいわ」


 今の尾張には、その久遠様が明から得たという渡来銭が潤沢じゅんたくにある。表向き銭の価値は選銭令で決まっておるが、誰も守ってなどおらん。当然、堺で造っておる粗悪な銭を押し付けられたらいい気分はせんだろうな。


 金色酒もそれが関係しておるのかもしれん。


 大湊の商人も久遠様が来てからというもの態度が変わった。堺でなくば手に入らぬものが、今では尾張で手に入るのだからな。我らに必要以上に妥協する気がなくなったらしい。


 それに伊勢より東から来ておった銅や銀はほとんど来なくなったし、こっちの絹や木綿が売れなくなった。買いに来るのは織田様と対立しておる今川様が武具を買いに来るくらいだ。


「困るな。博多に続いて尾張もか?」


「そうは言うがどないする? どっかに頼むんか?」


「三好様は直に尾張に船を出したそうや。わざわざ尾張を敵に回す必要もないからな」


 明との正規の貿易は博多にとられ、西国の取引先を持っていかれた。堺には明の密貿易船はくるが、東国の取引先を尾張に持っていかれると苦しいな。


 それにしても気に入らんのならば交渉すればいいはずだ。なんで露骨に我らを締め出すのだ?


 いずこかに頼んでもいいが、火に油を注ぐのは避けたい。尾張ばかりか大湊と伊勢商人が敵に回ればどないなるか分からん。


 そもそも、いずこに頼むのだ? 三好様と細川様は対立し三好様は直に船を出した、残るは細川様だが、片方にだけ肩入れすれば、それこそ桑名の二の舞いになる。


 本願寺は子飼いの寺を使うて、金色酒を手に入れておる。頼めば仲介くらいしてくれるだろうが、それ以上は望めまい。まして本願寺に金色酒をとられても困る。


 公方様が無難なんだろうが、三好様と細川様の対立がな。


 堺に来る明の商人は久遠様など知らんと言うし。困ったものだ。



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