第二百二十九話・芦ノ湖でのんびりと

side:久遠一馬


「これは絶景ですな」


 信安さんはそう告げると移動で疲れた体をほぐしていた。


 箱根権現を参拝して一泊した翌日には、芦ノ湖まで足を延ばしている。元の世界だと観光地である芦ノ湖も、この時代では大自然の一部でしかない。


 ただ芦ノ湖から眺める富士山は絶景で、旅の疲れが吹き飛ぶほどのインパクトがある。


「せっかくですので、茶の湯でもいかがでしょうか?」


 オレたちは湖畔で休息をとることにしたが、エルは周りからまきになる枝などを集めさせると野点の準備を始めていた。


 荷物を運ぶ馬が何頭もいるのは理解していたけど、茶の湯の道具まで持ってきていたのは知らなかった。


「これは風情があって良いものでございますな」


「まことに」


 文化人である政秀さん、信安さん、幻庵さんは、エルの粋な計らいに喜んでいるね。個人的に茶の湯って嫌いじゃないけど、あの狭い部屋でやる意味はあまり理解できない。


 信秀さんもどちらかと言えば、広い場所で茶の湯を楽しむことが好きみたいだしね。オレもそっちのほうがいい。


 文化にケチ付ける気はないけど、あまり史実にあった利休の茶の湯を持てはやす気もない。まあ利休は利休で頑張ってほしいもんだ。殺伐とした時代に金満・権威・選民主義に走らないのなら、茶の湯は有効だからね。でも、堺に根深く関係しているから敵対する可能性もあるんだけど。


 メルティは慶次と共に芦ノ湖から見る富士山の絵を描き始めている。この旅路でも幾つか絵を描いているし、尾張に戻ったら仕上げるつもりみたいだ。


「あそこに登ってみたいな」


「富士の山ですか。大変そうですね」


 一方、信長さんはじっと富士山を眺めていて、独り言のように登りたいと言い出した。好奇心旺盛なアウトドア派の信長さんらしいけど。この時代だと大変だろうなぁ。


「旅はいいな。一面に広がる海に、富士の山があれほど大きく見えるとは」


 ああ、富士山に登りたそうな人がもうひとり。信光さんだ。


 船は揺れるし、陸路は獣道のようなところをひたすら進むだけの過酷な旅なのに、すっかり旅好きになっちゃったよ。


 政秀さんと幻庵さんは信安さんたちと和歌を詠み始めてるし、みんなそれぞれに楽しんでいるんだけどね。


「いつか。天竺や南蛮に行ってみたいものだ」


「ああ。そうだな。お前はまだ若いのだ。行けるかもしれぬな」


「叔父上こそ、機会があれば隠居してでも行くと言い出すのではないのか?」


「もちろん。機会があればな」


 あの。信長さんと信光さん。天竺とか南蛮に行くのはさすがに無理ですよ。


 史実でも織田信長の新し物好きはあったみたいだし、こっちの信長さんは史実より南蛮が身近に感じるだけに、本当に行きたいとか考えていそう。


 天下統一よりそっちに興味を持たれるとさすがに困るな。もしそうなれば誰かが代わりに天下統一をするかな?


 無理だよね。天下統一は武将の器や能力だけでは成し得ないものだ。特にこの時代に来てそう思う。


 奥州の伊達政宗が天下を望んでいたなんて言うけど、奥州からでは天下統一は無理だろう。経済規模とか地理的に不利すぎる。それに鎌倉後期から室町初期の間で、文明が停滞した地域が覇権を望むのはちょっとねぇ。


 武田と上杉くらいならまだ可能性はあるかな? とはいえ武田と上杉も足の引っ張り合いに忙しくなるしね。仮に京の都を押さえたとしても、史実の織田同様に、今度は押さえた人を周りが邪魔し始めるだろう。


 考えれば考えるほど畿内は魔境にしか思えない。誰がやっても血は流れるし平和的な解決は難しいだろうね。


 足利の室町幕府を再建しても、過去から続くしがらみと問題を完全に断ち切らないと、将軍が代替わりする時にまた混乱する。


 そう考えると歴史って上手く出来ているよね。史実だと織田家、豊臣家、徳川家の三家がそれぞれ頑張ってようやく太平の世に導いたんだから。織田が既存体制を破壊し、豊臣が新たな体制を構築し、徳川がそれを定着させたとみることも出来る。




side:北条氏康


 里見め。相変わらずだな。


義堯よしたからしいですな」


「策士気取りか」


 風魔が偶然にも里見義堯の密書を手に入れてきた。奴め。いかにも再び関東の勢力と今川の力を借りて戦をしたいらしい。


 だが、この密書を見た家臣たちは半ば呆れて笑うておるわ。確かに実現すれば北条は再び危機に陥る虞は高い。実現すればの話だがな。


 河越の戦での傷は上杉のほうが大きいのだ。それに今川が得にもならぬ関東に介入するとは思えん。なにより義堯の名では誰も本気にならぬことであろう。


「織田の黒船はいかほどの威と思う?」


「あれには大砲や鉄砲が多数ありまする。戦になっても容易く負けるとは思えませぬ。されど、今後交易の船が別に出れば、里見は少し邪魔になるやもしれませぬが」


 密書には里見が海戦にて当家の水軍を破り南蛮船を奪うとあるが、密書にそこまで書くのはうつけにしか思えん。


 南蛮船に関しても『ただ大きなだけで戦船ではない』と言い切っておる。船に乗った叔父上や西堂丸は恐ろしき戦船だと言うておったのとまるで違うな。


「国人衆も黒船には驚いておりますな。雷を呼ぶとの噂は半信半疑のようでございますが、あの大きさ故に驚かぬ者のほうが少ないかと思われまする」


 織田の武勇は関東にも伝わっておる。それを否定する者や疑う者も少なくないが、噂にもならぬ程度の者と一緒にするのは愚か者のすることだ。


 噂の雷は大砲の音故に本物の雷までは呼べぬであろうが、尾張では毎日玉薬を使って鉄砲の訓練をしておるほどなのだ。戦になれば更に玉薬を惜しまぬであろうな。


 水軍衆も織田の黒船は手強いと認めておるのだ。


「さて。いかがするか。また鎌倉を焼かれでもしたら厄介だな」


 相手が織田ならばいきなり小田原に現れても驚かぬが、里見が相手ではせいぜい鎌倉に攻めてくるのが精一杯であろう。伊豆辺りまで無理をして来て織田の帰りでも狙うか?


 そこまでの大胆さと覚悟は義堯にはあるまい。


「殿。三浦の水軍でこちらから攻めては?」


「出来れば誘き出したいところだな」


 織田の黒船で真っ先に釣れたのが里見だとはな。ちょうどよいと言えばちょうどよいが。とはいえ里見を攻め滅ぼすだけの余裕も今はあまりない。安房攻めは兵を水軍で運ばねばならんからな。


 いっそ織田を巻き込むか? いや、つまらぬ策を講じては義堯と同じではないか。


「とりあえず織田に知らせておいたほうがよろしいのでは?」


「そうだな。船の者に知らせてやるか。それと黒船の警護を増やしておけ」


 さすがに小田原でおかしなことなどされぬとは思うが、蚊帳の外に置かれて、面白いはずはあらぬからな。狙われておるのは織田でもあると教えておくか。


 久遠には甲賀衆が仕えておるようだ。こちらが隠しておることが露見して痛くもない腹を探られるのは御免だ。


 まあ、織田も狙われることなど百も承知かもしれんがな。それも含めての船団なのであろう。


 里見とすれば当家と織田の誼を壊すだけで損はないというところか。




◆◆

 芦ノ湖と富士


 絵師の方こと久遠メルティ作の西洋絵画になる。


 後に富士山が噴火をして形が変わる前の姿を残しているため、歴史的地学的な資料としても貴重な一枚となる。


 製作時期は天文十七年の小田原訪問の時と思われる。


 絵画から推測した写生場所に現在では同作のモニュメントがあり、当時の絵の写しと現在の姿を比較出来るようになっていて人気の観光スポットになっている。


 同作のオリジナルは重要文化財に指定されていて、名古屋の久遠メルティ記念美術館に展示されている。



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