第百三十八話・病院と学校と分国法
side:久遠一馬
分国法は直ちに尾張の国人衆に書状で送られた。織田と敵対している河内の服部家は除かれたけど。
反応は様々なようだ。
よく分からないという者が多く、改めて臣従を迫ったのかと考える程度の者もいるみたい。
「反発は大きくないか」
「勝てませぬからな。大殿には」
ただ、オレが考えていたより静かな反応なのは、資清さんが理由を口にしたことではっきりした。
「結局はそこなんだね」
「左様でございますな。いろいろと理由を付けはしましょうが、多少の謀反では勝てませぬので」
負担と規制のバランスとか真剣に考えたのにな。
よく見れば決して悪い法じゃない。困ったら助けるから常識の範囲内で土地を治めろ。そんな内容になっている。
やるなとは言わない。やる前に報告しろってだけの話だ。報告・連絡・相談のいわゆる、ほう・れん・そうをやらせる法律なんて元の世界だと笑われるだろうな。
「立派な建物だね」
分国法の説明なんかは文官衆にお任せするとして、オレたちは次の仕事に取り掛からねばならない。
町を拡大している那古野城下から少し離れた場所にぽつんとある、ふたつの立派な屋敷というか建屋。そこに信長さんとエルにケティとパメラと、ケティたちの助手の皆さんと一緒に来ている。
屋敷の広さはウチの屋敷の倍以上ある。ここが病院と学校になる建物だ。
町から離した場所に建てたのは感染症対策で、そのために病院と学校の周りにも
設計はエルがして、耐震性と免震性を重要視した地上二階建ての建物になる。技術的に既存の大工では少し厳しかったらしく、熱田の宮大工に作ってもらった。口説くのに少し苦労したけど。
自分たちは宮大工であり、神社仏閣しか建てないとか言って嫌がったんだけど、工業村に続きなんとか引き受けてくれた。
歴史に熱田の宮大工の名が残る。その一言が引き受けてくれた理由らしい。実際に歴史に名が残るだろう。日本初の近代病院なんだからね。
内部は元の世界の病院を意識している。病室にはベッドがあり、診察室や手術室もある。
「これは何だ?」
「黒板です。こちらの白い石が白墨。これで字を書くのです。これならば一度に多数の人に教えられます」
一方の学校だが、こちらは昔の田舎の学校に見えるね。まあガラス窓がないので厳密には違うが。
信長さんが興味を持ったのは黒地の木製黒板だ。黒板自体は黒い板そのものだけど、当然チョークも用意した。
エルが信長さんに説明しながら字を書くと、信長さんや小姓や護衛の皆さんが驚きの声をあげた。
黒板は原型と言われるものがこの時代の頃からヨーロッパにはあるらしいし、黒い板に白いチョークで書くのは発想的にはこの時代にあってもおかしくはない。
それに学校には必要だからね。紙も墨も安くないから。チョークの原料は貝殻から作れるから、これも佐治さんに頼むか。
ここで使う分くらいならたいした手間じゃない。
「病院はすぐに始められる」
「学校は師と学徒を集める必要があります。書物も優先して集めておりますが、まったく足りませんね。本格的に始めるには少し準備期間が必要でしょう」
ちなみに学校は、元の世界のような腰掛けるタイプの机と椅子を用意している。この時代だと正座とかさせるからなぁ。悪くはないけど勉強に集中してほしい。
病院のほうは医療用具や薬を運べば近日中にも始められるけど、学校は教師も生徒もまだ決まっていない。
ウチの関係者と親交のある人たちに声をかけてみるけど、どうなるかはやってみないと分からないところもある。
医師の育成は元より、武士には領内統治に関わることとか、戦に関する座学とかやりたいけど、どこまで人が集まるのやら。
この学校は初等教育から高等教育まで幅広く教える予定で、警備兵の中からも基礎訓練が終わった者を中心に、行政知識や医術を教える計画はあるけどね。
side:織田家家臣
分国法とやらを布告すると殿より書状が来た。いろいろと書いてあるが、ようは決まり事を明確にしたらしい。
「して、内容はいかなるものなのだ?」
「一言で言えば、勝手なことをするなということだろう」
訴訟の決まり事や喧嘩両成敗ならば理解するが、朱印とやらの意味が分からぬ。家中の分かりそうな者に尋ねるが、聞いてみると少し面白うない。
「勝手なことか」
「大和守家の家臣が騒ぎばかり起こしたからな。それに弾正忠家も大きくなった。家中を纏めるのにあれこれと命じられるのは当然だろう」
「今まで通りでは駄目なのか?」
「さあな。それは殿に聞いてくれ。利点もある。飢饉や水害の時には殿が民や家臣を食わせてくれるのだ。欠点は騒ぎを起こせば領地が召し上げられることか」
何故かような真似を? 今まで通りでいいではないか。上手くいっておるのだからな。
「また久遠殿の入れ知恵か?」
「知らぬ。されど分国法は今川にあると聞き及ぶ、目安箱は関東の北条が既にやっておるそうだ。敵を探っておれば分かることだ。向こうは複数の国を治めておる。それを真似したのであろうな」
あの男が尾張に来てから織田は変わった。良くも悪くもな。
尾張統一は殿ばかりか家中の悲願だった。それを成し得たのは久遠家の力が大きく貢献したのは事実であろう。
されどあの男のやることはわしには理解出来ぬ。
「この領内の移動と職業の自由と言うのは何なのだ?」
「殿は無能者を嫌う。仮に久遠殿が南蛮の間者でも織田に従い働くならば罪に問わぬのだろうが、無能なまま領内を荒らす者は忠義があっても嫌うからな」
「意味が分からぬ」
「伊勢守家や大和守家の家臣だった者の領地から、民が逃げてきておったのは知っておろう。あれを認めるということだ。今までならば同じ家中ならば返さねばならぬが。人が逃げるのが嫌ならば、逃げぬように治めよということだろう」
何故、左様なことを認めるのだ? 確かに殿は民から慕われておるが。左様なことをして大変なことにならぬのか?
民が逃げ出したら困るではないか。そもそも逃げるのを止めねばどうやって治めよというのだ。
「やはりわしには理解出来ぬ」
「そなたの領地は懸念あるまい。民と苦楽を共にしておるからな。飢えぬ程度に食わせておれば、罪に問われぬであろうよ。要はそれが出来ぬ愚か者が多いことだ」
確かにわしの領地から逃げ出す者はおらぬ。それほど大領とはいえぬし、民は皆、一族や家族のような者だからな。
民に槍を向けて働かせたところで、余計に働かなくなるのは言われずとも知れておること。
「それほど酷いのか?」
「召し上げられた領地に行ってみるがいい。我らの領地とはまったく違うぞ」
「米の取れる量は変わらぬであろう?」
「変わらぬから殿の怒りを買うたのだ」
考えてみれば、わしも自領と近隣の領地以外はほとんど見たことがない。
清洲の町は年始の挨拶で行ったこともあるが、あとは自領で田畑を耕し武芸の修練に励むのみ。父から受け継いだ領地を治めるのは当然で、恙なく治めれば騒動など起きぬはずなのだ。
後日。わしは召し上げられた領地を見に行き、ため息しか出んかった。
同じ尾張の下四郡にもかかわらず村は貧しく、民は殿の命で報酬の出る賦役をすることで食い繋いでおった。田植えは辛うじてやっておったが、草や木の皮を煮て食い、命を繋いでおったとのこと。
「あれは……」
そして偶然にもわしは久遠殿の奥方を見掛けた。泥と埃にまみれた貧民をひとりずつ診ていく女を、民は手を合わせて祈っておる。
以前流行り病の際には、わしの領地にも来た。自ら病に罹ることも
理解は出来ぬことも多いが、久遠殿も必死なのだろうな。
少なくとも裕福な暮らしに溺れておるようには見えぬ。殿が気に入られたのは、そんなところもあるのかもしれぬな。
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