第九十三話・エールと水飴と信秀さん

side:久遠一馬


 リンメイが持ってきたエールを飲む。


「こんなもんなのか?」


「単純なエールはこんなものネ」


 春になったとは言え、今でも時々冬に逆戻りしたような寒い日がある。この日もそんな寒い中、リンメイが新しくエールと水飴を作ったと言うので津島の屋敷に味見しに来たけど、オレにはエールはイマイチ美味しいとは思えなかった。


 共に原料は大麦。戦国時代では米より安いので、尾張の庶民向けのお酒と甘味として安く売ろうと作ったみたい。


 金色酒は尾張国内には安くしてあるけど、それでも庶民の口に入るにはまだまだ高い。砂糖や蜂蜜ももちろん同じだ。


 エールのほうはホップを使わなかったので、元の世界のビールと比べてあまり美味しくないらしい。あくまでも庶民向けに安くするために作ったからね。


「売れそうかな?」


「売れると思うよ」


 ああ、清酒の第一次生産分は、なんとすべて信秀さんが買い上げた。贈答品や家臣に下賜するらしい。


 太っ腹というか品物の価値を理解してるというか、とにかく凄いね。


 結果として次回の清酒が出来るまでは、高級な金色酒や砂糖と、比較的安いエールや水飴で商売をするつもりだ。


 エールと水飴はあくまでも尾張国内向けの商品なんで、それほど大量生産しなくていいし。味はオレとしては微妙な気もするけど、酒造りを任せてるリンメイは自信ありげなんだよね。


「問題は食糧難かな?」


 この冬の間で尾張はだいぶ変わった。少なくとも織田弾正忠家では飢えさせないことが出来たのは大きいと思う。


 だけど日ノ本全体で見ると、食糧難は深刻だ。身近なところでは三河の食糧難が酷く、松平宗家側から攻められる原因だ。まあ攻められると言うより飢えて襲ってくると表現したほうが正しいのかもしれないが。信広さんは大変だよ。


 酒を米や麦から造るのはいいけど、やり過ぎると恨みを買いそう。とはいえこの段階で農業の改革なんかを、他国に広めるのはリスクが高すぎる。


「病気や冷害に強い品種は必要不可欠でしょう。米は来年から植えるものを、麦は今年の秋から植えるものを、それぞれ一部で新品種に変えたいと思います」


 エルが今後の計画を改めて説明してくれる。


 やはり尾張での農作物の生産量を増やさないと駄目だね。米や麦に限らず、菜種・綿花・麻などは新品種にする予定で、菜種・綿花・麻は今年から牧場に植える予定だ。


 ただ米は来年からになる。こちらは農業試験村でテストしたいんだけど、あそこは今年、既存の品種での農業技術導入のテストしなきゃ駄目だからな。


 植物の新品種は宇宙要塞のデータベースにある、史実の品種を基本にしつつ、新しく作った品種になる。


 それに栽培試験もしなきゃ駄目だから、すぐに大々的に広めるわけにもいかないんだよね。


「塩水での種籾選別くらいなら、今年からもっと広めてもよかったかな?」


「どうでしょう。管理出来ない場所でやるのは、リスクもあります。天候不順や疫病で収穫が落ちたら、私たちのせいにされかねません」


「うーん。難しいね」


 やりたいこともやれることも、まだまだある。だけどそれを人々が、必ずしも望んでるわけではない。


 直接オレの耳に入ってこないけど、誹謗や嫉妬は相当されているだろうし、揚げ足を取ろうとしてる人たちもいるだろう。


 織田弾正忠家の中も一枚岩ではないし、必ずしも信頼出来るわけではない。


 そういう意味では何事も慎重にやらねばならないし、中途半端にやれば誰のためにもならなくなるのは明らかだ。


 望む望まないに関わらず、やりたいことがあるなら、やらせるだけの力が必要なのは、戦国時代も同じだ。


 やはり経済と流通を優先させる方針が、一番効率的なんだろうな。他の人たちがあまり理解出来ないというのは、こちらの強みだからね。


 農業は五年くらいは先を見てやるしかないか。




 津島の屋敷から戻ると、滝川一族と郎党の子供たちに水飴をあげることにした。水飴といえば紙芝居だよね。


 絵が得意なメルティに描いてもらったものがあるから、桃太郎の紙芝居を見せながら水飴をあげよう。


 読み手は慶次だ。何故かは知らない。本人がやりたいって言ったんだ。


「むかし、むかし、あるところに……」


 慶次は子供にも人気で、よく一緒に遊んでやってるらしい。


 下手に恥ずかしがったりせずに、大きな声で抑揚やアクションまでも付けて読む慶次の紙芝居は、見ていても面白い。


 桃太郎は元の世界のよくあるお話そのままだ。元ネタの桃太郎の話はこの時代にもあるらしく、それを基にした創作の紙芝居ということにした。


 見る人が見ればこれは別物になるだろうが、子供向けの紙芝居なんだし構わないだろう。


 反応が良ければ、慶次には牧場の孤児院でもやってもらおうかな。


「絵解きか?」


 後ろから紙芝居を眺めていたら、突然信秀さんが数人の近習と裏口から入ってきて、ウチの家臣が慌てているよ。


 相変わらずフットワークが軽いな。ウチの殿様は。


「内容はただの物語です。仏様とかは関係ないので、子供たちの娯楽にはちょうどいいかなと思いまして」


 オレの知ってる紙芝居は、史実だと近世以降に誕生したものらしい。ただ、近世以前の日本にも絵解きと言われる、絵を見せて話を聞かせるものはあったらしい。


 どうもこの時代では宗教色の強いものが多いようだけど、大道芸的にやる人もいるにはいるらしいね。卑しい身分とか、あまりいい扱いを受けていないみたいだけど。


「考えてみれば坊主どもが説法をするのも、人を集めるためでもある。一向衆など、あれほど都合がいいことばかり言うても、人が集まるのだ。武家もまた、こちらの言い分をもっと伝える必要があるのではないか?」


「……それはその通りでしょう。しかし武士がそのようなことすれば、卑しいことをしてと言われるのでは?」


「言わせておけ。そなたが知っておるか分からぬが、尾張の坊主はまだ大人しいが、畿内では勝手極まりない坊主もおる。三河の一向衆もあるしな。せめて奴らだけでも、今のうちから力を削ぎたいのだ」


 縁側に座って温かい麦茶を飲みながら、信秀さんもしばらく紙芝居を見ていた。


 しばらくして水飴を欲しがったのであげると、それを舐めながらとんでもないことを思い付いたみたい。


 この時代でも領主が立て札を立てて、命令とかを掲示することはあるけど、積極的に領民に宣伝するようなことはしない。その点は宗教は優れていて説法をしたり、寺に集めたりして積極的に宗教の教えを宣伝している。


 そんなことが当たり前の環境で生きている信秀さんが、寺社のやり方から同じように対抗出来ないかと考えついたことには、素直に驚いた。


 確かに現状の織田弾正忠家で一番危険なのは、岩倉よりも三河の一向衆かもしれないんだよね。


 冬の流行り病の対策と飢えないようにする賦役を行ったが、この恩恵に与れなかったのが、矢作川の西側では本證寺ほんしょうじを中心とする一向衆の寺領だ。


 松平宗家同様に三河のあの辺りは昨年の収穫が悪く、それは一向衆の寺領も例外ではない。


 松平宗家みたいに周りを攻めて食べ物を略奪しないだけ、分別があるように見えるけど。一向衆の領地が貧しく病で死者を出したのには変わりない。面倒だからなにもしないことは、よりタチが悪いのかもしれない。


 三河の織田側の国人衆が、こちらから渡した兵糧を多少横流しして助けてるのもあるらしいけど、いつ暴発してもおかしくないんだよね。


 まあ、そんなこと信秀さんも百も承知なんだけど。兵糧も多少横流ししてもいいように送っている。


「加減が難しいですね。少し検討してみます」


「うむ。任せよう」


 紙芝居を使った広報活動か? いや宣伝工作か? とにかく一向衆をあまり刺激しないで影響力を落とすべきかな。


 あとは諸国の情報や織田家の良さを領民にアピールするのも必要かな。まあエルたちや資清さんたちと検討してみよう。




◆◆

 麦酒。

 現在でもおなじみのこの酒を日本で初めて製造販売したのは久遠家である。

 当初持ち込んだ金色酒が高騰してしまい領民の手に届かぬことから、唐の方こと久遠リンメイが尾張にある材料で製造したのが麦酒となる。

 当時の製法では現代ほどの味わいはないものの、飢えることも珍しくない時代に庶民が気軽に飲める酒として尾張を中心に織田領で広まることになる。

 焼いた煮干しを肴に麦酒を飲むのが当時の尾張者の流行となり、『こんな美味い酒を飲めない者は哀れで仕方ない』と他国との違いを語ったという逸話など残っている。


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