【拾肆】



◇◆◇


 ――慶長20年(1615年)、正月。江戸の片隅で、その日は雪がひどい時期だった。

 打ち据えられた体が痛む。雪の冷たさも合わされ、徐々に指先から力が奪われていく。

(このまま、終わるのか……)

 ひいらぎは、地面に倒れ込んだ。霜柱が割れる音とともに、徐々に自身の終わりが近くなっていく。

(なにも、成せぬまま……ただの雑草として……)

 見上げた空は灰色そのもの。まさに、冬に木の下に捨てられた柊の命日としてはふさわしい。雪深い土地であれば、このまま雪に覆われて春には骨となって見つかるのだろう。しかし、人もほとんど通らないが雪もあまり降らない江戸において、死体が雪に隠れることはまずない。腹をすかせた野良犬にとっては、たとえ骨と皮だけでもご馳走に見えることだろう。――この体が、毒に蝕まれているのだとしても。

 空が、ますます暗くなる。意識も遠くなりかけた時、甘い匂いを感じた。

「あら……」

 若い、女の声である。瞼を持ち上げると、そこにいたのは上等な反物で仕立てられた、小袖姿の女人が立っていた。虫の垂衣で覆われた市女笠を被っているので、素顔は見えない。後ろに控えている侍女らしき女も、同じく上等な衣を着ていた。もし柊にもう少し力が残っていたら、真っ先に獲物として狙うだろう。

「生きてるんか? 死んでるのか?」

 まるで、春の鳥が歌うような、軽やかな声であった。

 市女笠の女は、柊の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。

「質問を変えよう。――死にたいか? 生きたいか?」

 一方で、雪のような声だった。柊は必死で口を動かした。

「そう」

 女はたいした興味もなさそうに、立ち上がった。

「生きる気ぃあるなら、そなたを拾おう。その代わり、やってほしいことある」

「姫様」

 侍女は反対のようだったが、女は柊を拾うと決めたようだった。護衛の男達に柊を担がせると、屋敷に運んだ。

(ここは――)

 運ばれた屋敷に掲げられた家紋にはっとする。竹にと雀の紋――伊達家の紋であった。

「ああ、そうそう――まだ名乗ってまへんどしたなぁ」

 女が市女笠を外した。光を放つように輝かんばかりの長い髪と、白い肌。類い稀なる美貌を醸し出したその女は、五郎八いろは姫と名乗った。

「そなたがどこの誰であろうと、私には興味はあらへん。私に刃を向けようと、好きにしてええ。私か、それとも元の主か。どちらを選ぼうと、そらそなたの自由や」

 ほどなくして、粥が運ばれて来た。草も混じっていない、白い米と梅干だけの、粥であった。

 差し出された椀を払い除ける勇気などあるわけない。柊は、椀ごと飲み込むような勢いで、粥にむしゃぶりついた。

「そなたには、仙台せんだいに行ってもらう」

「……仙台?」

「あら、喋れるんやな。意外と愛らしい声をしてるちゃうか」

「…………」

「はいはい、無駄話はやめときまひょ。そなたには、私の妹の護衛を頼みたい。乳母として、私の妹の傍におってほしいねん」

 妹……。米がこびり付いた唇を動かす。

 腹が膨れると、五郎八姫は侍女達に命じ、柊を着替えさせた。髪を梳かせ、顔だけでなく首筋にまで、白粉を塗り重ねられる。

「私の妹は今年7歳になるんやけど、少し前に乳母を亡くしてもうてな。そなたには、その乳母のふりをしてほしおす」

「7歳……」

 流石に化粧をしたところで、物心がついて久しい少女に、乳母のふりが通じるものだろうか。しかし、五郎八姫はあっけらかんと、化粧をすれば大抵同じような顔になる、と言い切った。

「私の言うとおりに、動いてくれたらええ。――なに、特段ややこしい命を与えるつもりはあらへんよ。『病は治り切ってへんが、姫のために療養を取りやめ戻って来た。ただ、今も薬を飲んでるさかい、人変わってもうた』っちゅうだけやで」

 充分ややこしい設定である。しかし、柊は唾をのみ込んだ。もし、仙台に行ったら、まともに飯にありつけるのだろうか。蛆が沸いたねずみの死骸を貪り、毒がある草を無理やり飲み込まなくてもよいのだろうか。

「――そなたの名は、今日から」

 死んでたまるものか、と思った。主が誰かは、迫られた時に決めればいいのだ。

 その日、柊はそれまでの名を捨てた。代わりに別の人の名をもらった。



 もともと、子供の相手は得意ではない。殺すことは得意でも、育てた経験などなかった。

 五郎八姫は、妹姫に慈愛を持てとは言わなかった。人が変わってしまったのだから、不愛想に接してよい、と。

(追い出されぬ程度に……適当に。粥が啜れるなら万々歳だ)

 たいが、すみを紹介する。習った通り、白粉は厚く、眉と紅は濃いめに塗って来た。そして、妹姫の乳母が愛用していた香も焚き染めておいた。しかし、いざ妹姫の姿を見ると、ばれやしないかと背筋が冷えた。

「すみっ!」

 抱き着いて来た時は、一瞬突き飛ばしたくなるのをぐっと堪えた。童特有の甘ったるい匂いは、食えるわけではないので、ただひたすらに鬱陶しいだけであった。

 牟宇むう、と妹姫は名乗った。なんとも奇天烈な、変わった名である。

 牟宇姫は、伊達政宗だてまさむねの若い側室が生んだという、五郎八姫以来14年ぶりの女児らしい。むう、などという変な名だが、政宗は殊の外この姫を溺愛しているのだそうだ。

 すみが黙っていると、牟宇姫の生母であるおやまかたが「仔細は承知である」と言った。なるほど、お山の方はすみがなぜ再び現れたのか、理由を知っているらしい。

(正室の姫と、当主の側室が通じている、のか……? なんぞたくらんでいるのか?)

 すみは黙ってお山の方と、江戸にいる新しい仮の主を思い浮かべた。

「すみは、いろはひめさまのところにいたのか?」

 すみは、頷いて見せた。

「いろはひめさま……とても、綺麗なお方だった気がする……」

 すみはまた頷いた。確かに、絶世と呼んで相違ない女人である。きっと花の精達とて、五郎八姫の前では霞んでしまうだろう。

「すみ、いろはひめさま、はどのようなお方か?」

 幼い姫君の言葉に、すみは軽く首を捻った。どう、と訊かれても答え難い。

 確かに、美しい人である。周囲の人は、あの美女を百合の花だ、桜の精だと持て囃す。しかし、すみが知る五郎八姫は、そのような女人ではない。

 あれはむしろ――地獄の華――その美しさに近付くと、花の毒によって殺されてしまう。曼殊沙華のような、恐ろしい女である。

「姫様がお気になさるようなことは、なにもありませぬ」

 粥のために仕える主――とはいえ、あの苛烈な女人とは、なるべく近づけない方が幼い姫の心は健やかに育つかもしれない、とすみは考えた。


      *


 最初は、互いに探り探りの関係であった。

 牟宇姫は人が変わったような(実際文字どおり人が違うのだが)すみに怯えていたし、すみもまた幼子の相手に苦戦した。

 しかし、4年も一緒にいれば、牟宇姫はすみのぶっきらぼうぶりにも慣れたらしい。そしてすみも、牟宇姫がどうすれば喜ぶのかが分かるようになって来た。

(どうにか怪我も病もなく、育ってくれた)

 情が沸いたわけではない――しかし、牟宇姫が一門衆の石川宗昭いしかわむねあきに輿入れすることが決まった時は、肩の荷が下りた気がした。

 最初は、もっといい家に縁付けばいいのにと不満もよぎった。8歳になる牟宇姫に「桜だ」と言い張りながら年寄り臭い反物を贈り付けたのを見た時は、姫の許婚の人柄を疑ったものだが、3年の間で充分鍛えられたのだろう。12歳になった宗昭は、今度は品のいい反物を贈って来た。

「すみ、この反物を着物に仕立ててくれるか? 打掛が良い。この打掛で、くまを出迎える……」

 最初は、臣下の者に嫁がせるなど牟宇姫を軽んじているのか、と政宗に対して疑問を抱いた。しかし、季節ごとに牟宇姫に機嫌を伺う文や贈り物を寄越したり、実際に会った宗昭が幼いながらも立派な青年になろうとしていたりするのを見た時、安堵した。何より、牟宇姫自身も再会した宗昭に対して満更ではないようであった。むしろ、好いているようである。

「すみ、これからも……角田でも、牟宇の世話をしてくれるな?」

 牟宇姫の確認に、すみは無意識に頷いていた。

(なにを、馬鹿なことを――私のまことの主は、牟宇姫様ではないのに)

 それでも、見たいと思ってしまった。白無垢を来た牟宇姫の姿を。そして、牟宇姫が生んだ子も世話してやりたいとさえ思ってしまった。



      *


 その名を呼ばれたのは、ほんとうに久しかった。すみが訝しげに振り返ると、以前、牟宇姫の館で花瓶を割ったどんくさい侍女がいた。しかし、先ほどおどおどとしていた侍女と、雰囲気が違う。

 と呼ばれていた侍女の顔をじっと見ているうちに、柊はその者が同じ里の出であることを思い出した。

「探すのに手間取ったわ。あんた、随分化粧を変えていたから……いつのまに伊達家に忍んでいたの?」

 すみはおりの問いかけに答えることなく、紫陽花を手折った。牟宇姫が活けたいと言うので、良い花を選んでやらなければいけなかった。

「随分と、あの姫を気に入っているのね」

「……お仕えしている方だから」

「そうみたいね。でも、私達のまことの主が誰なのか、忘れたわけではないでしょう」

 おりの言葉に、一瞬頭が冷えた。すみはおりを振り返った。おりは頭に笠を被り、絵には風呂敷を持っている。

「ね、これ見て」

 おりは楽しそうに包みを開いた。この反物は、五郎八姫と牟宇姫が贈り物を交わし合うのによく使っている。おりが明けた箱の中には、明るい黄色の生地が焦げたような、甘い菓子が入っていた。

「こんな不気味な菓子の何が良いのか知らないけど……」

 すみは、この菓子を知っていた。以前牟宇姫が、政宗が作ってくれたのだと喜んで、こっそり袖の下に隠したのを持って帰って来てくれたことがある。

「細工するなら、やめた方がいい。するなら、別の時にしないと……。お使いの品を使ってやっては、足がつく」

「そうなる前に逃げるわよ」おりは自信満々に言い切った。捕まらない気は充分持っているらしい。「牟宇姫が殺されたら――それも、正室の、徳川に嫁いでいた姫に。ふふっ、そうしたら政宗は、幕府に盾突くかしら? それとも、娘を斬り捨てる? いずれにせよ、伊達家を潰す理由になり得るかもしれないわ」

「……なにをする気?」

「何をって」おりは驚いたように、小動物のような眼を動かした。「決まっている。――主の命に従うまで。かかる火の粉は、打ち払わなければならない。そのために我らはいる。忘れたの? 柊」

 すみは、目を見開いた。――そして、

「……そうね」

 と首を縦に振った。

「良かった。仲間殺しなんて面倒なことをしないで済んで」

 おりはころころと笑うと、隣を通り抜けようとした。すみはその腕を素早く掴んだ。

「……あなたの毒よりも、もっと強い毒を作ることができるわ」

「なんですって?」

 雑草は、しょせんは道端の草に過ぎない。――桜にはなれない。そのことを、忘れていた。

 こちらが騙しているのも知らずに、喜んで抱き着いて来た姫の姿を打ち払う。

「――私が牟宇姫を殺す」

 すみは、高らかに宣言した。視界の端に、まだ花を咲かせていない秋の花が、地獄へ招こうと手を振っていた。


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