8. 意識朦朧階段地獄。
二本目は階段を登り切ったところにある『
稜さんもまっきーもぼくも、止まるたびに何か口にして、シャリバテを警戒している。
「さあ、このあとはちょっとだけ平らになるけれど、そこを過ぎてからが本番だから、覚悟しろよ。」
と、先生は言い、ちょうど十分間の休みを取った後、九時四十七分に再スタートした。
先生が言った通り、この先で尾根道はちょっとしたピークになっていて、その周辺は平坦な道になっていた。ピークを越えるといったん道は下りになり、ぼくはちょっとだけ階段歩荷の下りを思い出した。
「ここからが『バカ尾根』の真骨頂だ。気合い入れてけ!」
後ろから先生が檄を飛ばす。
「大倉尾根はバカみたいにつまらない登りが続くから『バカ尾根』なんて呼ばれてるんだ。ここからしばらく行くと、頂上まで体感的にほとんど階段だからね。階段は一歩の負荷が大きいので、調子に乗って登るとすぐに脚がいっぱいになっちゃうから、ゆっくり登ることを心掛けて。」
稜さんも振り向いてぼくとまっきーに声を掛ける。
再び登り始めるとすぐに『
ここからは大きな石が地面に転がる、いわゆる『ガレ場』が多くなってくる。足を乗せると動いてしまう『
階段が続いていた。永遠に終わらないような階段。膝に手を置いて登るなんて、初めての階段歩荷の日以来だ。流れる汗を拭うこともできない。
階段が木道になり、地形が平らになる。ここが
「つるちゃん、出るよ。」
肩をたたかれて気付くと、目の前に稜さんの顔がある。さすがの稜さんも少し疲れた様子で、顎から汗が滴っている。ああ、ほんのちょっとの間寝てしまったんだな、ぼくは。手には食べかけのおにぎり。おにぎりを口に押し込み、ザックを膝に乗せ……持ち上がらない。
「んうっ!!」
声を出してようやく膝までザックが持ち上がる。腕をねじ込む。ははは、いいなやっぱり右手に腕時計してると。十時五十三分スタート。
階段。また階段だよ。一段登って休み、一段登って休み。
「つるちゃん、辛くても前屈みにならない。前屈みになると姿勢の維持だけで体力を消耗するよ。」
そうだ。前屈みになるとふらふらする。元に戻すのだけで変な筋肉を使ってしまう。でも、もう膝に手をつかないと体が持ち上がらない。とにかくヒップベルトを強く締めて、重心を高く保とう。
まっきー、どうしてるかな。さっきの休みの間、まっきーの顔見なかった気がする。おにぎり、食べられたかな。ああ、まっきーの息の音がする。ちゃんと後ろにいるんだ。とりあえず体を起こして、前を向こう。ああああ、階段の終わりが見えないよ。階段の向こうは空だよ。天気いいなあ。こんな日に散歩したら気持ちいいよなあ。って、今も歩いてるじゃん。木がまばらになって来たな。後ろ、海が見えてるかもな。散歩。これは散歩。エクストリーム散歩。眠い。やべっ、浮石!
朦朧とした意識の中で浮石に足を乗せてしまい、体勢を崩す。その瞬間、右足の大腿四頭筋が
「稜さん、すいません。ちょっとだけストップ。右足が攣っちゃいました。」
柵の支柱に手を置いて体を支えながら、右足を曲げてストレッチする。
「だいじょうぶ? みーち。実はわたしもさっきから攣りそうなんだけど。」
後ろを歩くまっきーが心配して声を掛けてくれる。
「うん。何とかなりそう。このおかげでちょっと目が覚めたかも。」
脚が攣ったことによって危機感を感じたせいか、眠気が薄れて意識がはっきりしてきた。
「大丈夫、
「私が去年攣ったのもこの辺りだったよ。それでも何とか登り切れた。行けるよ、今のつるちゃんなら。大丈夫。」
先生と稜さんからも励ましを受ける。
「大丈夫です。行きましょう。」
ぼくは再び、足を前に出した。
階段の段差を左足で越えるようにしていたところ、十分ほどで左足にも限界が訪れる。両足とも攣りそうだった。手を脚に添えるのはもう仕方ない。ただ、体は起こそう。膝ではなく、太腿の上部を押せばいい。
やっと階段が途切れ、小屋が顔を見せる。大倉尾根には小屋がたくさんあるが、ここが頂上以外では最後になる
ここは大きく木々が刈り取られているため、展望がよかった。富士山も顔を出している。南には相模湾が広がり、伊豆諸島らしき島々まで見えた。ただ、景色を見ている暇はない。この十分の間にストレッチ、補給、給水をしなければならない。おにぎりとパンを大急ぎで口に入れ、水で流し込む。水は残り三百ccほどか。
稜さんもまっきーもストレッチをしていた。
「みーち、眠いの、分かった。今の一本わたしも半分寝ながら歩いてた。」
と、まっきーがぼくを見て言う。いつも元気なまっきーがこんなに憔悴しているのを初めて見る。
「さ、じゃあ、行きますか。行きたくないけど。」
と、稜さんは立ち上がってザックを担ぎ、
「一歩一歩足を出せば、必ず頂上に着くから。時間は気にしなくていいから、まず頂上にたどり着くことが大切。頑張れ!」
とぼくたちを励ます。
ぼくはまた唸り声をあげてザックを引っ張り上げ、何とか肩の上に納める。小屋の脇にはすでに次の階段が見えている。十一時三十六分。
稜さんに言われたように、一歩一歩、脚に負担をかけないようにしながら体を持ち上げる。
「頑張れ!ここが一番きついから、もうちょっと行くと楽になるから!」
誰だ? 周りの登山者の方だ。ちょっと嬉しいな。ありがとうございます。
本当だ。ちょっとしたピークを越えたら平坦になった。ここで回復しないと。ちょっと下り。この下りの分をあとで登らなきゃいけないのが辛い。また登りだ。ゆっくりゆっくり。平坦で回復したと思ったけれど、また攣ってきた。もう塔ノ岳の頂上見えてるんだけどなあ。
「りょうさん、すいません。ちょっとストップ!」
まっきーも脚が攣ったようだ。膝を曲げて筋肉を伸ばしている。ぼくも伸ばしておこう。『
「まっきー、ここ、このあいだ帰りに通ったところだ。もうすぐだよ。」
「うん。わたしも思い出した。大丈夫、まだ行ける。」
二分ほど立ち止まり、すぐにリスタート。十二時八分。
最後の長い階段。もうすぐ。もうすぐ。脚が動かない。でももうすぐ。一歩一歩声が出る。空が青い。暑い。新歓でもここ来たな。覚えてるよ、きれいだったな、景色。まだあれから一か月経ってないのか。これ、稜さんがこのあいだ言ってたミツバツツジかな。ああ、もうすぐ。木の階段、滑るなあ。滑ったら絶対攣るなあ。あれ、空が広い。着いたのか。あそこ、山荘だ。
十二時三十四分、塔ノ岳頂上に到着。目標に四分及ばなかった。ザックを投げ出し、地面に大の字になる。
「よく頑張った。このタイムなら十分だ。」
と、先生が言う。ほかの登山者の方が拍手をしてくれていた。
「ここ、こうやって歩荷している人がたくさんいるから、よく登ってる人は分かってるんだよね。」
「そう言えばさっきも声を掛けてくれました。」
ぼくは稜さんの手を借りて起き上がりながら、先ほど声を掛けてくれた人のことを思い出す。
「目標のタイムに届かなかったのは、私の責任だと思う。ペースメイクが悪かった。疲れがないうちにもう少し距離を稼いでおくべきだったんだよね。ごめんね、二人とも。」
「そんなことないと思います。最初のペースが速かったら、もっと早く限界が来てた気がします。それにしても去年、稜さんたちは四時間十七分でここを登ったんですよね。『独標』に書いてありました。全然かなわなかったな。」
「去年は今日よりもずっと気温が低かったから、単純には比べられないよ。少なくともここに着いたときのヨレヨレ度合いは去年の私と今日のつるちゃんは同じくらい。」
と、稜さんは笑う。疲れの色は見えるが、まだ元気そうだ。稜さん一人だったらどのくらいのタイムで登るんだろう。
「大学の山岳部員だと、三十五kg背負って二時間半くらいで登っちゃう人もいるよ。」
と、先生が笑いながら言う。なんかそれはもう未知の世界だ。
三週間前に来たときと同じように、景色が遠くまで見えた。でも、三週間前とはちょっと違って見える。季節が少し進んだということだけではなく、ぼくの中の何かがどんどん変わって行っている気がした。
目標のタイムはクリアできなかったが、階段歩荷と同じ重さの荷物を背負って、四時間以上歩くことができて、少し自信がついた。
その後、ぼくは両足の内転筋が攣り、どうやっても両方いっぺんに伸ばせずに七転八倒し、それを見ながら先生と稜さんは大笑いしていた。その間、まっきーはザックにもたれてずっと寝ていた。
帰りのことはよく覚えていない。頂上で水を捨てたので荷は軽くなったが、脚が空回りしてしまって三回も転んだ。土だらけのままで電車に乗り、家に帰り、風呂に入り、ご飯を二合半食べて寝た。七時に寝たのに、翌朝起きたら十二時で、前の塔ノ岳のときと同じようにまっきーから大の字になったぼくの写真が添付されたLINEが届いていた。仕返しにぼくも、頂上でグーグー寝ているまっきーの写真を送る。
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