5. 変わって行く季節。変わって行くぼくたち。

 土曜日にはまず昼食の下ごしらえをしてから、川沿いのサイクリングコースを走り始めた。二十kmに挑戦すると言ったら、久住くじゅう先生も乗り気になって一緒についてきて、食訓しょっくんも一緒に食べることになった。


 ぼくとまっきーが並んで先頭を走り、その後ろにりょうさん、そして最後尾に先生が走っている。


「俺、ハーフマラソンのベストは一時間四十七分だからな。フルがなかなか四時間切れない。」


「先生のハーフのタイム、聞きすぎてもう覚えちゃいましたよ。今日は先生はオマケなので、おとなしくついてきてください。」


「くそー両神りょうかみ、次のビレイの練習、重りの代わりに旭にしてやる。」


 風のない穏やかな日だった。山岳部に入って以来、風があるかないかについて敏感になった気がする。風以外にも、公園や道路脇、家々の庭先などに咲いている花も気になり、家に帰って何の花だったのか調べることも多くなった。今までにも目に入っていたはずなのに、ぼくは全くその花々について考えようとしてこなかった。


 今はつつじが咲いている。小さい頃、つつじの花の根元の蜜を吸っていたことを思い出す。


「なんかさあ、今まで植物にあんまり興味なかったんだけど、最近、街中の花や街路樹が気になるようになってきたんだよね。」


と、隣を走るまっきーに話す。


「あー、分かるかも。わたしも山岳部に入ってから植物に興味が出てきて、いろいろ調べたりしてるよ。先生やりょうさんは花の名前いっぱい知ってて、なんだか悔しかったのが最初のきっかけなんだけど、分かってきたらなんだかちょっと景色が違って見えるようになってきたよ。」


「今、つつじがきれいに咲いてるけど、今度の歩荷ボッカのときには原生種のミツバツツジってやつが見られるはずだよ。街のつつじより小さくて、紫色で、すごくきれい。あと、シロヤシオっていう白いつつじもたくさん咲いてたな。まあ、歩荷のときはそんなふうに花を見る余裕はないかもしれないけど。」


と、後ろを走っている稜さんが言う。


「小学生の頃は学校の帰りにつつじの花の蜜を吸ったりしてたんですよね。でもだんだんつつじが目に入らなくなってきていました。高校に入った今になって、ぼくが気にしてなくても毎年つつじは咲いてたんだなっていうことを再発見してる感じです。まっきーの言う通り、周りがちょっと違って見え来た気がします。」


「つつじ、毒があるやつもあるからな。朱色に近い真っ赤な奴はだめだぞ。」


と、先生は言い、


「さすがにもう、花をむしって吸ったりしませんよ。」


と、ぼくは笑う。そして、さらに付け加えてこう言う。


「あと、地形ですね。住宅街でも、この宅地が開かれる前はどんなふうに景色が見えていたんだろうってよく考えるようになりました。横浜の地形はけっこうアップダウンが多いので、高くなっているところは雑木林だったのかなとか。今は昔の航空写真が見られるサイトとかもあるので、よくそういうのを見てます。」


 つい一か月前までただそこにあるだけだった風景が、ぼくの中で意味を持ってつながりつつあった。今まで移動したことのない距離を自分の足で動くことで、いま、ぼくがいるこの場所と、いま、この場所を感じているぼくの意識とは、本当は分けて考えてはいけないのではないかと思い始めていた。




 ぼくが先頭で作っているペースが正しいのかよく分からなくなってきたので、少しずつペースを落として後ろに下がった。稜さんは今日は髪を高く結っていて、脚の動きに合わせてその髪が軽やかに揺れる。首筋に汗が光り、着地のたびにふくらはぎの筋肉が緊張する。たぶんどこかで百合が咲いていて、その甘い匂いがする。


「つるちゃん、下がったね。ペース速い?」


 急に稜さんは振り返り、まともに目が合う。稜さんの後姿を見ていたことを悟られなかっただろうか。ぼくは耐え切れなくなってなってちょっと目をそらしながら、


「いえ、全然そんなことないです。山に行って以来、稜さんの後ろにいるのがなんだか落ち着くようになって……」


と、しどろもどろになる。


「どこ見て走ってるの? やらしいなあ。」


と稜さんは笑い、一番前を走っていたまっきーが下がってきて、


「視線ブローック!」


と言いながらぼくと稜さんの間に割り込む。まっきーが筆のようにまとめているボブの髪のおくれ毛が風になびき、稜さんの脚と同じくらい筋肉の付いた脚が躍動している。


「そんな変なこと考えてませんよう。」


とぼくは嘘をつきながら、これ以上変なことを考えないように、また先頭に立つために少しスピードを上げる。




 十km地点で折り返し、いままで左側に見えていた丹沢の山々が右側に見えるようになった。塔ノ岳からこの辺りが見えていたので、あの山々のどれかが塔ノ岳のはずだった。まだ全然大丈夫だ。脚も、呼吸も。手を広げて風を感じてみる。


「つるちゃん、それ、好きだね。」


と、後ろで走っている稜さんから声がかかる。振り向くと稜さんも両手を広げている。まっきーと先生も笑いながら広げる。


「確かに、こうすると風が気持ちいいね。世界に触れる面積が広くなる気がする。」


 稜さんは言いながら、一瞬だけ目を瞑る。


「はい。こうするの、好きかもしれません。ぼくはたぶん、単純に外にいるのが好きなんだと思います。昼間の暖かい空気も、夜の刺すような空気も、両方好きです。」


 そう。稜さんと二人で外に出た、あんな夜の空気も。


 だんだん脚に疲労を感じてきた。ただ、前のように止まってしまう心配はない。疲労は、ぼくたちが移動してきたことの証拠だった。ぼくと、世界がちゃんと関係しているということの証拠だった。




 二時間十五分ほどで二十kmを走り終えた。部室棟の水道で、生ぬるい水をがぶがぶと飲む。


「疲れたけど、ちゃんと走れたよ。中学のときのぼくじゃ考えられなかったな。」


と、隣で汗を拭っているまっきーに言った。


「わたしも、前に走ったときよりずっと楽だった。ただ、喉が渇いて仕方なくて、最後五kmはずっと水飲むことばっかり考えて走ってたよ。」


「この先もっと暑くなると、二十km走るなら給水がいるな。」


と、久住先生が言った。


「給水ってどうするんですか?」


「たいてい、俺が自転車でポリタン持って伴走するんだよ。一人で走るときは、おれはこういうポーチみたいなのにソフトボトルを入れて走る。まあ、何千円かしちゃうんだけどね。トレイルランニングの人はもう少し荷物の入るベストみたいなのを使うことも多いよ。」


 先生は伸縮性の腰に巻くベルトを見せてくれた。そのベルトには五百ccのボトルが入れられるようになっていて、走りながら取り出して飲むことができる。

「あとは、チャリチャリ言わないようにポケットの中のお金をテープで固定して、途中の自販機で買うのもありだよ。」


 長い距離を走ることが、ぼくは結構好きなのかもしれない。水のボトルを運ぶポーチを買おうと、ぼくはそのとき心に決めた。




 体育館でシャワーを浴びて着替え、部室に戻って食訓をした。今日は時間に余裕があるのでストーブのうち一台はブスだ。稜さんは志願して、ブスのプレヒートをして点火する。まっきーが手際よく肉じゃがを作っている間にぼくは米を炊き、昨日スーパーでもらってきた大根の葉っぱを刻み、塩で揉む。


「あらかじめ刻んで塩に漬けたやつなら、結構日持ちするよ。半分漬物みたいな感じだね。白いご飯よりも食が進むから、山に向いてる食事だよ。いやー、しかしおなかすいたね。肉じゃがはちょっと時間がかかるのが欠点だな。ジャガイモ薄く切ったらさすがに気分が出ないしね。」


 それでも四十分ほどで準備も終わり、食事の時間になった。塩の利いた菜飯が肉じゃがとよく合い、ぼくは三杯もお代わりをした。


五合ごんごう炊いといてよかったね。おにぎりにして後で食べようと思ったんだけど、おにぎり一個分しか残らなかったよ。旭さんいないのに。みーち、その食欲だとそのうち旭さん化しちゃうのかな。」


 まっきーは笑い、


「食料重くなるからやめて! あと、ビレイも大変。」


と、稜さんもそれを受けて笑う。


「でも、食べられる人は強い人だからね。女子二人も上市のこと言えないくらい食べてるよ。なんというか、ここ数年で一番食べるかもしれない、君らは。それに、ここ数年で一番手際が良くて、しかもおいしい。両神も食当しょくとうに苦手意識持つ必要ないよ。こないだの秩父の朝食、すごく手際が良かった。」


「たぶん、つるちゃんが自分よりできるのがちょっと悔しかったんです。まっきーが私より調理がうまいのは半分あきらめてましたけど。でも、まっきーは歩荷でも強くなったし、このままだと私が勝てるものがなくなっちゃいそうなので、調理もこれからは頑張ってみようと思います。」


 ぼくは自分の変化にばかり気を取られていたが、稜さんにも変化が起こっていることに、そのとき気付いた。今まで当たり前のように稜さんに指導を受けてきたけれど、つい一か月前まで、稜さんは下級生だったのだ。まあ、ぼくみたいに素直な下級生だったとは思えないけど。下級生だったときの稜さんのことを考えていたらなんだか顔がにやけていたようで、


「つるちゃん何笑ってるの? 何か変なこと思い出した? さっきしきりに私の後ろを走ろうとしてたことと何か関係ある?」


と、容赦ない突っ込みを受ける。


「そそそれは関係ないです。ただ、去年の今頃の稜さんがどんなふうだったのかなって、ちょっと想像しただけで……」


 ぼくはまたしてもしどろもどろになり、


「うーん、変に山に登ったことがある分、生意気な新入生だったと思う。もう旭さんとけんかしてたんじゃないかな。でもさ、今のまっきーやつるちゃんを見てると、もっと素直にいろいろ吸収しておけば、今の私はもっと違ってたかなって思うな。」


と、稜さんはちょっと恥ずかしそうに答えてくれた。そして、照れを隠すように、


「やー、今日はまっきーもつるちゃんも余裕で二十km走れることが分かったし、私はブスとちょっと仲良くなれたし、収穫が多い日だったな。」


と付け加えた。




 午後は部室の片づけをした。別に早く帰ってもよかったのだが、なんだか帰り難くて、そのまま部室の長机で三人で勉強をした。そろそろ中間テストのプレッシャーを感じ始めたことも確かだが、この部室に流れている時間に、少しでも長く浸っていたいと思った。稜さんやまっきーもそう感じてくれてたらいいなと思いながら、ぼくはブスをプレヒートしてお茶を入れ始める。

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