第3章 ザイルは伸び、無駄に荷物を背負い、二人は歩き、一人は助ける。
1. ぼくたちは、流動し、分散する。
「フォール!!」
残雪期山行の翌日も休日だったが、ぼくたちは朝から学校に集まり、シュラフを洗濯し、校庭の隅にテントを張って干した。シュラフとテントが乾くまでの間に、岩に乗って丸まったアイゼンをヤスリで研ぎ、先端に黒マジックを塗って錆止めにした。
テントはすぐに乾いたが、シュラフが乾くのは夕方になりそうだったので、午後は別の訓練をすることになった。ぼくは昼食の係を志願して、部室にある無洗米とブロックベーコンの端切れと人参と玉ねぎでチャーハンを作った。
いったんタンクに入れた燃料を使い切らなければならないため、今日の調理には『ブス』を使う。初めて使ったときはちょっと怖かったが、ポンピングやプレヒートという火をつけるまでの一手間がかえって楽しく思えてきた。
そして昼食後、ぼくたちはみんなヘルメットをかぶり、ハーネスを装着して
「最終支点から落下位置までが一mだから、土嚢は二m墜落したことになる。
と、渡り廊下の上の稜さんの横から顔を出した
「落下距離が長い方がザイルにテンションがかかる瞬間の速度が大きくて、衝撃が大きくなると思うんですが、全体のザイルの長さで割るのはどうしてですか?」
「墜落の衝撃が緩和されるのは、ザイルが伸びるからなんだ。そういう墜落の衝撃を伸びて吸収してくれるザイルを『ダイナミックロープ』というんだけれど、繰り出しているダイナミックロープが長ければ、墜落時の伸びが大きくなってそれだけ衝撃を吸収してくれる。物理でバネ定数のあたりを勉強したら、自分で計算してみるといいよ。」
確かに墜落を受け止める衝撃は、ザイルが伸びてくれたおかげで予想よりもずっと小さかった。ただ、ザイルの伸びを計算しないと墜落者が地面に落ちてしまう『グラウンドフォール』を起こしてしまう危険もある。
「さあ、次は
渡り廊下の上から大きい声で、いきなり女子に何を聞いてるんだ先生は。
「四十九kgです。」
躊躇なくまっきーは答える。いいのかよ。
「軽いなあ。じゃあ、とりあえず四十kgを落としてみようか。」
ぼくとまっきーはネットから土嚢を取り出してえっちらおっちら階段を登り、上にいる稜さんと先生に届ける。ザイルに付けたネットが引き上げられ、ぼくのときより一袋少ない土嚢をネットに詰め、カラビナを掛ける。
まっきーの確保もきれいに決まった。次は稜さんの番だ。しかし、毎回土嚢を運び上げるのが大変だ。
「上市、いいよ、もう、土嚢は。」
稜さんはもう何回もやってるから、確保の訓練はこれで終わりなのかな。
「上市、体重何kg?」
「六十二kgです。」
「
「六十一kgです。つるちゃん、だいぶ体重増えたんじゃない? 私より重かったんだ。」
まっきーと言い稜さんと言い、みんな体重をあっけらかんと口にするのでちょっとびっくりする。
「この一月で四kg増えました。」
「いいことだね。体ができてきた証拠だよ。いつの間にか、私は追い越されちゃったんだな。まあ、身長が私よりもあるから、もうちょっと体重があってもいいかな。」
「いま、一七七cmです。もう少し伸びそうな気がします。」
「私は一七二cmだけど、もう三年前から止まっちゃったからな。」
「わたしも一五二cmで止まっちゃった。りょうさんみたいに大きくなりたかったなあ。まあ、あの親じゃ無理か。」
「じゃあ、体重もほとんど変わらないし、上市、落ちて。巻機、部室からクラッシュパッド持ってきて。」
へ。
「ぼぼぼくが落ちるんですか土嚢じゃなく。」
「大丈夫、両神のビレイ、ものすごくうまいから。嫌なら俺が落ちるが。」
もう、覚悟を決めよう。落ちたときの感覚を知るのも訓練だ。
「やります。ぼくが落ちます。」
稜さんはまっきーから受け取ったビレイグローブをはめ、ビレイデバイスを通したザイルを、ハーネスの安全環付きカラビナに取り付ける。ぼくは渡り廊下に登り、先生にザイルの末端をハーネスのビレイループに
「ビレイよーし。」
稜さんから声がかかり、ぼくはセルフビレイを解除して、
「フォール!!」
と叫んで後ろに軽く飛ぶ。
大きな衝撃は全くなく、気付いたらぼくは空中に浮いていた。横には稜さんも浮いている。ゆっくりとロープが緩み、ぼくたちは地上に立つ。
「大丈夫だったろ。止めてくれるっていう信頼を持つことも、訓練の一つだからな。」
と、先生は言い、「ビレイ成功のあいさつ。」と、稜さんは片手を上げた。ぼくと稜さんはハイタッチを交わす。
「次回からは、巻機と上市にも人が落ちたときの確保を練習してもらうからな。じゃあ、次は俺が見本を見せるから、両神、落ちて。」
「こんなに垂直に落ちる状況は、うちの山岳部の山行ではまずないんだけどね。夏の剱では、雪渓で滑り落ちないように確保が必要になるので、そこで慌てないで済む練習だな、これは。」
と、先生は言った。剱岳の一般ルートを登るだけなら、ザイルは特に必要はない。ただ、ぼくたちが登るのはそうではないということは、もう『
先生と稜さんが確保をして、ぼくも、まっきーも、何回も落ちた。ザイルと、きちんとした支点があり、手順を守れば、落ちてもちゃんと止めてくれる。そのことが分かると落ちるのも少し楽しくなってきた。と、ザイルを眺めていた稜さんがそこで言った。
「先生、この練習用ザイル、毛羽立ってますよ。そろそろヤバくないですか?」
ちょっと待て……
「じゃあ、ザイルのしまい方。二人とも見てて。」
稜さんはザイルの端を首に掛けて、両手で交互にリーチの分だけザイルを計り、首の後ろに次々にかけていく。
「こうすると、ザイルが捩れない。何も考えずに巻き取ると、ザイルが捩れちゃうから、こうやって束ねるんだ。で、最後はこう。」
稜さんは終わり近くまでザイルを束ねると、一方の端でループを作り、ザイルの束をそのループごともう一方の端でぐるぐる巻いて行った。最後に、巻いた端をループに通し、ループ側の端を巻きつけたザイルの反対側から引っ張ると、ループが閉じてきれいな束が出来上がる。これなら多少手荒に扱っても、ザイルが解ける心配もない。
「次は、支点の作り方を教えるよ。さっきの渡り廊下の支点もそうだったけど、基本的に支点は二点以上で作る。片方が壊れてももう一方で支えられるようにね。この、岩などに固定する点をアンカーポイント、メインザイルを通したり、場合によってはビレイデバイスをつけたりするここのカラビナを、マスターポイントという。マスターポイントが二点以上のアンカーポイントで支えられているわけだな。アンカーは、よく登られている岩場だとボルトが打ってあることも多いし、
と、先生は渡り廊下から外してきたスリングとカラビナを使って説明する。
「スリングを輪にして、二つのアンカーとマスターポイントにかけただけでは、荷重を一重だけのスリングで支えることになるのでちょっと弱い。でも、ただ二重にしてかけると、一方のアンカーが破断したときにマスターポイントのカラビナが抜け落ちる。そこで、二重にして掛けたスリングの一方を、一回ひねってからマスターのカラビナをつける。こうすると、片方が破断してももう一方のアンカーでマスターを支えることができる。」
稜さんの両手の人差し指をアンカーに見立てて、先生は説明した。稜さんの片側の指からスリングが外れても、もう一方の指にマスターがぶら下がる。
「この方法だと力の方向が変わっても、マスターが動いて、アンカーにかかる力が常に均等になる。これを
「固定分散は、荷重の方向によってはほとんど一方だけのアンカーでマスターを支えることになりますね。」
ぼくは答えた。
「そうだ。そうなると『分散』と言いつつほとんど分散ではなくなる。じゃあ、流動分散の短所は?」
ぼくはすぐには思いつかなかったが、まっきーが答えた。
「片方のアンカーが破断したときに『落ちる』ことですか?」
「その通りだ。固定分散の場合、片方のアンカーがロストしても、もう片方のアンカーを
先生は、スリングに結び目を作って説明した。
「まあ、基本的には信頼できるアンカーが取れる場合は流動分散でいいが、アンカーが信頼できない場合で、力の方向があまり動かない場合は固定分散を選ぶ。アンカーが信頼できず、力の方向が動くようなときは、非常に難しい。一つだけでも信頼できるアンカーがあれば、制限をつけた流動分散を選ぶし、全部信頼できない場合はなるべく多くのアンカーで固定分散を選ぶかな。」
まっきーは目を輝かせて聞いている。ぼくも、そういう確保技術を駆使しながら登る、いわゆる『アルパイングライミング』に興味がないわけではないが、なぜかそのときは、『流動分散』ということばの手触りがなんだかとても心地よく思えて、頭の中でその字の形を思い浮かべていた。
流動し、分散するぼくたち。ひとりひとりの流れが、
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