7. 瑞牆山の環水平アーク。

 八王子から乗った『あずさ一号』はほぼ満席で、『座席未指定券』のぼくたちはデッキに荷物を置いて立っていた。まあ、ゴールデンウィークだし、始発駅ではないから、予想されていたことではあった。韮崎にらさきまでは一時間少しで、ぼくたち港西こうせい高校山岳部の五人は、新聞や本を読んだり、車窓から見える山について話をしたりしながらゆっくりと過ごしていた。五人が二日間を過ごすのに、モバイルバッテリーは一台しか持って来なかったため、スマホの電池を無駄遣いする者はいない。


 韮崎駅からはさらにバスに乗り換えて一時間以上かかる。バスの乗り継ぎ時間は十分少々しかなかったため、今日と明日の昼食をまだ用意していなかったあさひ先輩は、ゴトゴトと登山靴を鳴らしながら駅から少し離れたコンビニに走って行った。


 登山口までのバスは、途中にある観光施設に向かう人も多かったため、臨時バスが出た。そのおかげでぼくたちの大きな荷物も座席に置くことができて、ゆっくりと座って瑞牆山荘まで向かうことができた。


 途中、八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳の雄大な山容が目に入り、自分がすでに山の懐にいるということを実感する。が、隣のりょう先輩がぼくにもたれてグーグー寝てしまったため、なんだか気もそぞろになってしまった。しかし、よだれ垂らしててもきれいなんだよな、この人は……と、先輩の顔を眺めていると、前の席から振り向いたまっきーがニヤニヤ笑っているのに気づき、慌てて目をそらす。


 バスは山道に入り、連続するカーブで体が左右に振られるようになる。しかし、先輩はぼくの体を利用して体を固定し、安らかな寝息を立てている。緊張とバスの揺れで、ぼくはちょっと気分が悪くなってきた。


 ようやくバスは目的地の瑞牆山荘に着いた。すっきりした顔の先輩とちょっとやつれたぼくが降りてくるのを、先に降りたまっきーと旭先輩が笑いながら迎えた。もう標高がかなり高いため、ひんやりとした空気が心地よい。


「みーち、みーち、やったね。どうだった?感想聞かせて、感想。」


と、まっきーが小声で聞く。


「感想も何も、ドキドキして固まっちゃってたよ。もうちょっとでよだれ垂らされそうだったし。」


「それはそれで、もっと嬉しいかもよ。」


「どういう性癖なんだぼくは。」


 まっきーは笑いを噛み殺している。


「さあ、体操して出発しよう。水は富士見平で汲めばいいから。」


と、久住くじゅう先生が言い、広くなっているところで体操を始める。


「おい、りょう、伸脚飛ばしたろ。」


「あれは登山靴はいてるとやりにくいから、座ってやる内転筋のストレッチに変えました。」


「そんなことしたらケツが汚れるじゃんか。」


「あーもう旭さんうるさい。引退してるのに連れてきてあげてるんだから、おとなしくしててくださいよ。」


 こういうやり取りにはもう慣れっこになっているのだろう。先生もまっきーも気にせず体操を続けている。


「さあ、じゃあこの間と同じ順番で、旭さんは先生の前に入ってください。富士見平までは四~五十分で、標高差も三百mくらいです。時間にも余裕があるので、ゆっくり行きます。出発。」


 十時二十四分、ぼくの初めてのテント泊山行がスタートした。水がないこともあってザックの重さは十六~七kgで、階段歩荷に比べるとかなり軽く感じる。上はアンダーウェアと薄手のフリースだけなので、最初は寒さを感じたが、歩いているとすぐに体が暖まってきた。天気は高曇りで、高層雲で散乱された柔らかい光が降り注いでいる。

 

 前を歩く稜先輩は、この間の丹沢と同じ服装だったが、髪型だけは前と少し違い、お団子にした髪を首筋で一つにまとめていた。明るい紫色の大きなザックを背負っているせいで、後ろを歩くぼくからはなかなかその髪が見えないのが残念だ。これだと、頭突きをしてもぶつかるのはザックだなと思い、この間の夢を思い出してぼくは一人で笑う。


 樹林帯の中、徐々に高度を上げていくと、だんだん大きな岩がゴロゴロし始めた。至る所にある大岩を目当てに、ボルダリングをしに来た人も多いようで、クラッシュパッドを背負っている人たちも見受けられる。


 木の階段が出てきて、傾斜が急になってくる。稜先輩のペースはあくまでゆっくりだが、止まらずに滑らかに動き続けるので、順調に高度を稼いでいく。練習の成果か、先輩のペースメイクのおかげか、足には疲労感は全くない。


 三十分弱歩くと、傾斜の緩い、開けた場所に出た。ここで、樹木が途切れた左前方に瑞牆山が姿を現した。


 樹林からにょきにょきと突き出す奇岩の群れ。整った山容などでは全くない、異形の山体がそこにあった。まるで宇宙から巨大な磁石がやってきて、それに引っ張られた岩が地中から次々に現れたかのようだった。


 今回、写真係に任命されている旭先輩は、瑞牆山をカメラに収めている。


「瑞牆とその奥の小川山おがわやまは、ロッククライミングのすごいルートがたくさんあるんだ。おれも大学に入ったら絶対行きたいなあ。」


「まあ、旭はもう少し体重を落とさないと誰もビレイしてくれないからな。俺だってごめんだ。」


「そうですね。受験勉強してたら体重が増えちゃって、おれ、今、九十㎏近くありますからね……」


 ロッククライミングの確保ビレイでは、クライマーとビレイヤーの体重差は二十五㎏までらしい。となると、この中で今の旭先輩を確保できるのは誰もいない。


 木のベンチなども用意されていて休憩適地のようだったが、そこではザックを下ろさず、少しのあいだ瑞牆山を眺めただけで歩き続けた。さらに十五分ほど歩くと地形が平らになり、樹林の間に色とりどりのテントが見えてきた。そこが富士見平小屋のテン場だった。ぼくたちよりもっと早くに到着した人がたくさんいるようで、すでにかなりの数のテントが張られており、その間を歩いて行く。


「平らで水場も近いので、この辺りに張りましょう。」


と、稜先輩が言う。


「えー、もう少し小屋に近いところにしないか?」


「先生は小屋でビール飲みたいだけでしょ。」


「分かった分かった。ここでいいからテント張っといて。俺は小屋で手続してくるから。」


 風もなく、地面も平らだったため、あっという間にテントが立ち上がった。ペグもよく刺さる。きっと、そういうことまで考えて先輩はテントサイトを選んだのだろう。


「つるちゃんは私と一緒にこっちの二テンだからね。」


と、稜先輩が自分のザックをテントに入れながらぼくに言う。今から緊張してどうするよ、ぼく。


「それじゃあ、サブザックには水と昼食と雨具と『必携キット』とヘッドランプとピッケルとアイゼン。不安なら防寒具。水はちょっと下ったところに水場があるのでそこで汲んでください。団装だんそうの修理セットと救急セット、ポールも忘れずに。」


 先生も小屋から戻ってきた。


「瑞牆山は雪が深いところはないらしいけど、頂上は氷でカピカピだってさ。アイゼンは間違いなくつけることになるので、スパッツはここから履いて行こう。」


 アイゼン、特に十二本爪を着けるときは、ズボンのすそに引っかけないようにスパッツを着けることが基本なのだそうだ。


 ここまで一時間も歩いていないが、腹が空いたのでおにぎりとパンを食べておいた。水場で汲んだ水のあまりのうまさにびっくりする。十二時三分、今度は軽い荷物になって富士見平小屋を出発。小屋に着いてテントを設営し、再出発するまでの時間は四十五分ほどだった。




 しばらく樹林帯を進むと、道がいったん下りになった。そのままかなり大きく沢筋に向けて下る。


「ピッケルの石突いしづきが上を向いてて危ないので、ちょっと距離を置いて下って。」


と稜先輩が声を掛ける。


 しばらく下りると沢筋に達し、木の小橋で沢を渡った。この辺りも奇岩がゴロゴロしていて、丸い大岩が真っ二つに裂けているものもあり、『桃太郎岩』と呼ばれているということだった。


 ここからはかなり急な登りが続いたが、少し傾斜が弱まったあたりでちょうど一時間弱だったため、一本。ここでももう一つパンを食べる。前回の丹沢では、補給のタイミングが遅くてバテた可能性が高かったので、今回は早め早めに食べることを意識している。


「まっきー、おにぎり好きだねえ。」


 今日二つ目のおにぎりを食べ終わったまっきーに声を掛ける。


「うん。ほんとは明日もおにぎりがいいんだけど、今日買ったおにぎりを明日も食べるのはちょっと不安だったから、明日はパンなのが残念。残り二個のおにぎりを大切にしよう。」


「今日は、丹沢のときよりだいぶ行程が短いけど、それでも四個なんだ。」


 ぼくは思わず笑ってしまう。まっきーも笑ってこう答える。


「おにぎりを食べることが、山に行く目的のかなりの部分を占めてるかもしれない、わたしの場合。」


 再び出発。岩がますます多くなり、鎖場も出てくる。周りの林の中に、残雪も目立つようになってきた。こういう岩場になって来ると、登山靴の本当の価値が分かる。ざらついた花崗岩の上では、多少湿っていてもソールのグリップ力は非常に強く、底が固いおかげで狭い足場の上でも安心して立っていられる。


 樹林帯の急登を上り詰めると、巨大な岩がそそり立っていた。


「これ、ヤスリ岩って岩で、ロッククライミングで登ることもできる。今日は登ってる人はいないみたいだけどね。」


 旭先輩が上を見上げながら言った。


「さて、あともう少し頑張ろう。氷が出てきたらアイゼンを着けるからね。」


 足元に雪が増え、ぬかるみの中を歩くことが多くなっていた。それに気温もかなり低くなってきていて、立ち止まっていると寒い。


 最後の登りにかかる。まだ、脚に疲労は全くなかった。自分が強くなっていることを感じて、嬉しくなる。


 頂上近くはほとんどが岩場で、日陰では氷がへばりついていることが多くなったため、ここでいったんザックを下ろしてアイゼンを着ける。ちゃんと手袋のままで着けられた。


「ピッケルも手に持って。岩に引っかけて使っても構わないから。」


 後ろから先生が声を掛ける。岩がそのまま出ているところでも、アイゼンのままで通過するため、細心の注意を払う。いったん足を置いたあと、安定しているかどうか確かめてから体重を移す。その繰り返し。ピッケルの石突を氷に突き立てて、手掛かりにする。


 回り込むように移動すると、樹林が途切れて岩の広場が現れる。ここが瑞牆山の山頂だった。十三時三十六分着。


「頂上は日当たりが良くて氷がないので、アイゼンを外して。アイゼンを着けたままで転ぶ方が危ない。」


 先生の言葉に従ってアイゼンを外し、ピッケルとともに置く。


 見渡す限りの素晴らしいパノラマだった。西には八ヶ岳、南西には南アルプスが間近に見えていた。両方とも、頂上付近はまだ雪がたくさん残っている。東に目を転じると、明日登る金峰山きんぷさんの威容が聳え立ち、頂上近くの五丈岩ごじょういわまで判別できる。その奥には広大な奥秩父の主脈が連なり、南には甲府の市街地と、その奥に富士山。


 そして、素晴らしいものがもう一つあった。南の空の低い位置に真横に虹がかかっていたのだ。こんな虹は初めて見た。


「これはすごい、環水平かんすいへいアークだ。こんなに見事なのは珍しい。」


と、先生が言った。


「私もここまでのものは初めてです。途切れ途切れのものは見たことがありますが、これはすごい。言葉を失います。」


 稜先輩もこの南側の景色を見て立ち尽くしている。


 久住先生の解説によると、環水平アークは、虹とは違い、雨粒ではなく空気中の氷の粒で太陽光が散乱されて起こる現象だった。今日のように高層雲が出ていて、上空で風が弱い日に見えやすいらしい。太陽の高度がある時間に、空の低い位置にかかるため、都会では出ていても見逃してしまうことが多いということだった。この間の丹沢のときのようなピーカンでないことが、今日は幸いしたようだった。


「環水平アークの双子みたいなものに、『環天頂かんてんちょうアーク』がある。これは太陽高度が低い時間帯に、天頂付近に見られるんだ。これは都会でも結構な頻度で見られるから、朝や夕方に真上を見上げてみるといいよ。」


 と、先生は続けた。そういえば、稜先輩は夕方、よく空を見上げている。もしかしたら環天頂アークを探しているのかもしれなかった。


 近くの登山者にお願いをして、富士山と環水平アークをバックに五人で写真を撮った。ほかの登山者の方々も、声をにならない声を上げて写真を撮っている。


 頂上の広い岩場の端は、すぐに断崖になっている。まっきーは全く臆する様子がなく、崖のすぐそばまで行っておにぎりを食べながら下を覗いている。


巻機まきはた! 危ないから端っこ行くなよ! 落ちたら助からないぞ!」


と先生が注意する。まっきーはこちらに戻ってきて、


「すいません。さっきのヤスリ岩が上から見えてて、すごいなあって思って。」


「まっきーは高いところ平気なのか。じゃあ、将来はアルパインに行くのかもな。」


と、旭先輩が感心したように言う。まっきーは嬉しそうに、


「でも、先輩痩せてくれないと、わたし絶対止められませんから。まあ、わたしが太ってもいいんですけど。」と笑う。


 ぼくも高いところは平気な方なので、まっきーほどではないけど端の近くに行って周りを眺めてみた。さっき見た異形の山塊の、その上にいるということがまだ信じられずにいた。


 まだ頂上に雪を残した八ヶ岳と南アルプスが美しく、あの山に行きたいという感情が盛り上がるのが止められない。八ヶ岳の主峰赤岳あかだけ、三角形の山容が美しい甲斐駒ヶ岳かいこまがたけ、そして白峰しらね三山。


 ぼくの中に自由が生まれたことを感じる。きっとこの自由はぼくが得たのではなく、この場所が、呼び起こしたものなのだろうと思った。ぼくにそんな力はない。こんなものを見てしまったら、行きたくなるのが当然なのだ。

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