12. 歓迎されたぼく。そして、山道はまだ続いている。
十二時三十一分、ぼくたちは
ザックを下ろして見回すと、北も南も西も東も、三ノ塔よりもずっと雄大な眺望が広がっていた。先ほどは大山の陰に隠れて見えなかった横浜市も顔を出し、ぼくの家や学校があるあたりも見えているようだった。ということは、ぼくの家からも塔ノ岳が見えるということだ。帰ったらどの山がそうなのか、地図と照らし合わせてみよう。
横浜の左側には川崎と東京の市街も見えている。今日は春霞で遠くが鮮明に見えないが、空気が澄んだ日なら東京タワーやスカイツリーも見えるのではないだろうか。
自分の足で歩いてここまで来たということ。昨日の夕食の麻婆豆腐や、今日の朝食の納豆、さっき食べたおにぎりと菓子パンがぼくの体を動かしているということ。滴る汗はまだ止まらず、ザックの背面もびしょ濡れで、脚は今も力が入らないが、それは紛れもなく、ぼくがここにいるからだった。
広くなっている頂上を少し歩いた。山小屋以外、遮るものがない頂上は風が強く、いま、風はぼくの背後から吹いている。帽子を取り、手を広げ、風を受ける面積を広くする。そこへ、
「やったね。すごくいい日に登れたね。」
風が強く吹き、緩く編んだ髪が揺れる。帽子を手で押さえ、ぼくと同じ方向を見る。
「はい。ものすごく疲れましたけど、感動しています。来てよかったです。また何度でも来たいです。景色もすごいですけど、たぶん、今日が雨でも同じように感じると思います。」
「雨だと何も見えないよ。足元は滑るし、体は濡れるし、不愉快なことばかり。」
と、稜先輩は笑う。
「でも、私も雨の日は嫌いじゃない。私がここにいることは、雨の日でも変わらない。雨の日は、雨の日のここを知ることができる。」
「ちょっとだけわかる気がします。自分の足で登ってきたことで、この場所の本当の意味に近づけた気がします。雨の日に登らないと分からないことも、きっとたくさんあるんでしょうね。」
「うん。でも、やっぱりこれだけ景色がいいとサイコーに気分がいいね!」
稜先輩も手を広げる。
「それすごいかっこいい。青春って感じ!」
後ろを振り向くと、まっきーが笑いながら、二人で手を広げているぼくたちを写真に収めていた。
「まっきー、もう一枚!」
先輩が叫び、突然、ぼくと肩を組む。
「ち、ちょっと先輩、待って待って……」
「えー、なに? 私、汗臭い? そういうの嫌? 三日目とかになるともっとすごいよ。私全然平気。」
「いや、ぼくも平気ですけど、そうじゃなくて……」
全然嫌じゃないです。むしろぼくの方が大汗をかいてるのが気になります。でも、恐る恐る先輩の肩に手を乗せる。二人で外側の手でピースのサインを作り、まっきーがシャッターを切る。
「あー、でもなんかずるい! わたしも! わたしも! 先生も来てください!」
まっきーは近くの登山者にスマホを渡してお願いをして、こちらにやって来た。少し離れたところで景色の写真を撮っていた先生もやって来た。まっきーがぼくの隣に、先生は先輩の隣に入り、四人で肩を組んで富士山を背景に写真に収まった。
下りでは足が靴の中で動いてしまわないように、靴紐をきつめに締め直すということだった。いったん紐を解いてしばり直していると、先生が、
「時間も予定よりちょっと早めだし、
と言った。ぼくは正直に言えばかなりヘロヘロなので、もう一回登り返すのは全くもって気が進まなかった。
「
と、先生は笑う。
「それにしても、
「はい。冬の間トレーニングした成果がありました。秋にここに来たときはヨレヨレでしたよね。」
「ああ、そうだったね。まあ、あのときは日が短くて、かなりハイペースだったせいもあると思うよ。」
「でも、あのときは三ノ塔は行かなかったので、距離的には今日よりだいぶ短いと思います。そう言えばスポーツテストの持久走で、わたしクラスの女子で二番でした!」
まっきーは四個目のおにぎりをおいしそうに食べている。ぼくも最後のおにぎりを口にしていたが、ほとんど義務感で食べている感じだった。
ここで、気付いたことがあった。ぼく以外の三人とぼくの水の減り方が全く違うのだ。二Lあったぼくの水はもう五〇〇mL以下に減っているが、みんなはまだ一Lも飲んでいない。なくなっても小屋で買えばいいとは言われていたが、水の飲みすぎで食欲が落ちてしまっている気がする。そのことを先生に聞いてみると、
「確かに、体が山登りに慣れないうちは水をたくさん飲んでしまうことはよくあることだよ。ただ、それは体が必要としているからなので、喉が乾いたら飲むべきだね。まあ、だんだん体が慣れて、汗をかく量も必要な分だけになって来るよ。階段
と言った。そう言えば、階段歩荷のときも階段が濡れるほど汗をかいていた。これから先のトレーニングで体ができてくれば、もっと山を楽しめるかも、と思いながら、念のためあと五〇〇mL、山小屋で水を買っておくことにした。
二十分ほどで塔ノ岳の山頂を辞した。鍋割山までは一時間ちょっとなので、一本で行くということだった。まずは急な階段を下っていくのだが、脚の力がなくなっているので、かなり怖い思いをする。
「一次歩荷ではこっちの道を、荷物を担いで登って来るので覚悟しておいてね。」
と、稜先輩が言う。階段歩荷と同じような荷物を持って、距離こそ今日より少ないものの、今日と同じ標高差を登ると考えると、ちょっとぞっとするものがある。
歩荷山行で来るはずの道から右に分かれて、鍋割山に向かう。こちらも木道や木の階段が多いが、アップダウンはそれほどない。ただ、時折現れる登りでは膝に手をついて、やっとの思いで体を持ち上げる。なだらかな稜線は非常に景色がよく、左側には歩荷山行で登るはずの大倉尾根が、右側には丹沢山から西に連なる、丹沢山系の核心部がきれいに見えていて、もっと余裕がある状態でこの道を歩きたいと心の底から思った。
先生の言う通り、九割がた下り基調で鍋割山に着いたが、歩く距離の長さが体に堪えて、ベンチに座り込んだ。しかし情けないな、ぼくは。まっきーはぴんぴんしてるのに。
「さあ、じゃあ、新人歓迎らしいこともしないとね。ちょっと待っててな。」
と先生は言い、山小屋へと向かった。
しばらくすると先生が手招きするので小屋へと向かうと、お盆の上に土鍋で煮込まれた鍋焼きうどんが四つ、用意されていた。
「今日だけおごり。今日だけだからな。これ結構高いんだから。それに、上市はシャリバテだったみたいだしね。ちゃんと食べるように言っておけばよかったっていうことに対する罪滅ぼし。」
と先生が言い、
「ごちそうになります!」
と、先輩とまっきーが声を揃える。
ぼくも「ありがとうございます、頂きます。」と言ったものの、食欲はあまりなかった。ただ、景色のいいベンチで食べてみると、塩味が強くのど越しのいいうどんの旨さに体が生き返るようだった。熱いうどんを吹いて冷ますのももどかしく、あっという間に胃袋に納める。これは確かにうまい。名物になるのも分かる。
おにぎりを四個食べたはずのまっきーもぺろりと平らげ、
「これが鍋割山のお楽しみなんだよー。」
と、幸せそうな顔をしている。しかし、この小さな体のどこにこれだけの食べ物が納まっているんだろう。
一息ついて、再び下山を開始した。まだ標高差千m以上の下りが残っていた。
「登りよりも下りの方がずっと怪我が多いから気を付けること。ここからの下りはかなり急だからな。」
と、先生が声を掛けた。確かに、階段を含んだ下りでは足を滑らせて何度も転びそうになる。それに、下る勢いがついた体重を受け止めるために、登りとは違う負担が脚にかかっていて、だんだん膝がガクガクになってきた。
「辛かったら、ポールを使うか?」
と先生に言われたが、それも悔しいのでやせ我慢をしてそのまま下ることにした。おにぎりと菓子パン、鍋焼きうどんのおかげか、さっきよりは体が動くようになっているし、脚が攣る心配ももうなさそうだった。
ひたすら急な坂を下っていく。怖くても、前に重心を掛けた方が安定して下れるし、膝への負担も少ないというアドバイスに従うが、それでもきつい。早く下りて家に帰りたい、そんなことばかり考える。
そのうちに、水が流れる音が聞こえ始めた。沢筋に近づいてきたようだった。沢の脇の崖沿いを下ると、小さな木橋があり、それを渡ると未舗装の林道に出た。あとは川に沿って林道を下って行けば、大倉に戻れるはずだった。ここで最後の休憩を取る。
「さあ、あと六km。」
先輩、すいません。聞きたくなかったです。
水を飲み、先輩から飴をもらう。十分ほどで出発。この先は詳しく話しても仕方ないだろう。足を置く場所を選ぶ苦労はなくなったが、登山靴の重さと底の硬さが足を痛めつける。今までが急な坂だったせいでちょっと下っているだけのように思えたが、街中で歩いていればかなりの急な下りのはずだった。足が上がらず、ちょっとした石ころにも足を取られながら、先輩に遅れないように懸命に歩いた。
十六時十二分、大倉に帰着。最後の休憩から一時間半は休みなしだった。ぼくは這う這うの体で、あまりの疲れに地面にへたり込んだが、同時に今までにないような充実感に体が満たされていた。
「最後疲れたねー。標高差も結構あるけど、今日は距離が長かったよ。」
いつの間に、まっきーがぼくの隣に座っていた。うらやましいほど元気に見えていたまっきーだったが、やはり疲れの色は隠せなかった。
「うん。こんなに疲れたのは生まれて初めてだよ。」
「どう?もう山に来たくない?」
「いや、また来たい。今度はもっと体を鍛えて、もっとこの場所を楽しみたい。」
「わたしが前に来たときも、今日のみーちと同じくらいヨレヨレだったんだよね。いや、もっとかも。でも、なんだかものすごく嬉しかったんだ。わたしはここに来ることができる存在なんだってことが、わたしはここに来ることを選べる存在になれたことが、嬉しかった。」
「なんだか分かる気がする。ぼくは山登りをよく知らないうちから山に登りたいと思っていて、それがどんなに大変か、その一部だけを知った今でも、また登りたいと思ってる。今日、体で感じたことを、もう一回感じたいし、違う山でぼくは何を感じるんだろうって考えると、ワクワクしてくる。」
「うん。同じように思っている人が一緒に登っているのは、本当に心強い。今までも先輩や先生がいたんだけど、同級生のみーちが頑張っているのを見ると、私も頑張れる気がするよ。だから今日はほんとに楽しかった。ありがとね、みーち。山岳部に入ってくれて。」
「ぼくの方こそまっきーに感謝してるよ。今日、ぼくにとって、まっきーは支えでもあったし、目標でもあった。ぼくにも先輩やまっきーみたいな体力があれば、今日はもっと楽しかっただろうなって思う。次はもっと楽しい山にするために、トレーニング頑張るよ。」
そこに、稜先輩がやって来た。ぼくとまっきーにコーラを渡してくれる。
「ようこそ山岳部へ。今更だけどね。つるちゃん、歓迎するよ。まっきーも改めて歓迎するね。」
「いきなりこんなに長く歩かされて、これは歓迎でも何でもないって、途中ではちょっと思いましたよ。」
と、ぼくは笑いながら答える。
「でも、ぼくは自分がこんなに歩けるってことを初めて知りました。ぼくには行けるところがたくさんあるってことが分かりました。やっぱり今日、ぼくは歓迎されたんだと今は思います。」
稜先輩は何も言わずに笑っていた。
「あー、コーラうまそうだな。俺の分はないのか。」
「先生は家に帰ると別の炭酸があるでしょ。」
「やー、そうだった。うまいビールを飲むために今は我慢しないといかん。しかし上市はよく頑張ったな。今日は、距離だけでも二十kmは歩いてるからね。初めての山でこれだけ歩ければ申し分なしだよ。」
「今日、鍋割山に寄っていなかったら、ぼくは自分の限界をもっと低く設定していたと思います。だから、先生の鍋割山に回るという判断は、正しかったと思います。たぶんこれからの山行は今日よりもっと厳しくなると思いますが、頑張りますのでよろしくお願いします。今日はありがとうございました。」
ぼくは立ち上がってみんなに向かって頭を下げた。足がちょっとふらついて、みんながが笑う。
帰りの車内、ぼくはバスでも電車でも爆睡していた。家に帰る頃には体が少し落ち着き、猛烈な空腹感に襲われた。その日の夕食でぼくは炊飯器の中にあったお米を食べ尽くし、さらに冷凍のご飯を温めてお代わりをした。合計二合半になんなんとするご飯を貪り食うぼくを、父も母も祖母も、目を丸くして見ていた。もちろん今までに食べたご飯の量としては新記録だった。そう、今日は、いくつの『初めて』や『新記録』があっただろう。
風呂に浸かり、ベッドに入ると一瞬で寝てしまい、まっきーからLINEで写真が送られていたことに、翌朝まで気が付かなかった。山頂で稜先輩と一緒に手を広げている後ろ姿、二人で肩を組んでいる写真と四人で肩を組んでいる写真、そして電車の中で久住先生の肩にもたれてよだれを垂らして寝ている写真だった。
その晩、夢の中でもまた四人で山に登っていた。その夢でもぼくは、苦しくて下を向いて坂を登っていて、前を歩く稜先輩が立ち止まったことに気付かず、お尻に頭突きをしてしまうのだった。
(第1章終わり)
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