港西高校山岳部物語
小里 雪
第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。
1. はじまりの日。台風みたいな女の子。
そういえば今日はなんだかやけに妙な夢を見ていた。その夢の中では質の悪いウィルス性疾患が全世界に蔓延しつつあって、みんながマスクをしていたり、多人数で集まって大声で騒ぐことができなかったりと、とてもじゃないけど新たな門出にふさわしくなくて、どんよりとした気分で目を覚ましたのだが、起きてみたら現実は別に今までと全く何も変わらず、学校の最寄駅からの通学路も、嬌声を上げてじゃれ合う中高生だらけなのだった。
まあ、それはともかく、私立
どうってことないを連呼してしまったが、この学校は自分で言うのも何だが、それほどどうってことない学校ではない。共学校としては神奈川県でもナンバーワンの進学実績を誇る学校で、中学からでも、高校からでも、入学するにはかなりの難関を突破しなくてはならない。だから、ぼくの中学三年生の一年間は、とても青春真っ只中とは思えないような、暗い、勉強ばかりの毎日が続いていたのだった。
それは、ぼくはどうしてもこの学校に来なければならなかったからだ。
上位十%に入っていれば、現役で東大でも医学部でもほぼ大丈夫と言われる大学進学の名門校だからということもある。勉強は小さなころから得意で、特に数学は得意中の得意だったから、それを生かして有名大学でコンピュータサイエンスを勉強すれば、安泰な将来が開けるというものだ。
でも、それよりも何よりも、この学校の山岳部に入るために、ぼくはここに来なければならなかったのだ。
山岳部やワンダーフォーゲル部がある高校はそれほど多くはないとは言え、通学圏内にもいくつかはあり、優秀な進学成績を残している学校もその中にはある。でも、港西の山岳部が他とは違っていたのは、
ぼくの名前は
港西には制服がないから、今日、ぼくはスーツを着ている。入学式が終わり、明日からの連絡を受ければ今日はもう解散になる。来るときは母と一緒だったが、式典が終わってすぐに母は帰ってしまっていたので、帰りは一人だ。ほかのクラスはもう終わっているのか、教室の外がやけに騒がしい。このクラスも、ちょうど今、解散になったようだ。同級生の中に
きょろきょろとあたりを見回した。どうももう帰ってよさそうな雰囲気だったので、そそくさと教室を出ようとすると、そこには混乱した状況が広がっていた。部活動の勧誘の上級生が、三クラスしかない外進生の教室の外にひしめき合い、我先に声をかけたり、チラシを手渡したりしていたのだ。もう半分拉致されかけている奴もいる。今日からもう勧誘が始まるなんて全然知らなかった。おどおどしているうちに、ぼくもいきなりタンクトップを着て、怪しげな笑顔を振りまく先輩に捕まってしまう。
「ねえきみ、結構背が高いね。バスケやったこと……」
「あ、あ、あの、すいません、ぼくはもう入る部活決めてるので……」
そうだ。ぼくはほかの部に興味はないんだ。でも、ここに山岳部の人がいれば、話は早いんだよな。初めて会う人、それも年上の人に話しかけるのは怖いけれど、思い切って聞いてみた。
「あ、あの、山岳部の人はここにはいますか?」
「え、山岳部って、ほんとにあそこ入るの?本気で言ってる?バスケの方が……まあいいや。おーい!!
応えたのは呼ばれた両神先輩ではなく、吹奏楽部の勧誘をしていた女子の先輩だった。
「えー、りょうちゃんがわざわざこんな日に学校来るわけないじゃん。何?その子山岳部に入りたいの?まじ?酔狂?」
二人揃ってこんな反応をされるとちょっと心配になってくる。どんな部活なのだ。
「あー、そうだ。それならまっきー呼んでくるよ。確か二組だったかなあ。これお願い。」
と、吹奏楽部の先輩は隣の生徒にチラシを預け、人をかき分けて探しに行った。
タンクトップ先輩は次のターゲットをもう見つけていたため、ぼくはとりあえず人込みから抜け出して一息ついた。そこへ、
「まっきー、この子だよ。山岳部に入りたいって。」
と振り向きながら話しつつ、さっきの吹奏楽部の先輩が戻ってきた。ぼくは、おそらくその後ろにいる山岳部の先輩に向けて、おっかなびっくり声を掛ける。
「あ、あ、あの、山岳部の
先輩の陰から走り出たのは、スカートスーツの胸に入学式のコサージュを刺したままの小柄な少女だった。二組というのは、新入生の二組のことだったのだ。一組から五組は内進生のクラスだ。
「えー!まじまじまじまじ!!山岳部入りたいの!!やったー!!わたしもうこの先ずっとりょう先輩と二人で部活するんだと思ってたよ。いや、先輩が嫌なんじゃないんだよ。むしろ好きなんだよ。でも何ていうか、やっぱり気を使うっていうか、なんかあれじゃん。だってわたし下級生だし。きみがいてくれたら二人で責任は半分こ!それで荷物はわたしが三分の一、きみが三分の二。いやいや、これからの高校生活にとてつもなく明るい光が差してきたようだよ。一緒にいっぱい山登ろうね。いっぱいご飯食べようね。わたし
ただでさえ丸い目を大きく見開き、肩までの髪を大きく揺さぶりながら、彼女は甲高い声でそれだけ一気にまくし立てた。あまりの情報量の多さに圧倒されかけたが、整理すると、こういうことらしい。山岳部にはこの子と『りょう先輩』の二人しか部員がいない。内進生のこの子は、中学のときは吹奏楽部だったが、高校入学を機に山岳部に移った。そして、どういう仕事かよく分からないが、部内で食料係をやっている。
いきなり彼女はぼくの手をぎゅっと握ると、
「名前なに!きみのなまえ!かみいちつるぎくん?つるちゃん!つるちゃんもう絶対離さない!一生一緒に山に登ろう!」
と叫ぶ。今年一年クラスメートになるはずの人たちが怪訝な目でぼくたちを見る。
しかし、部員が二人しかいないというのは予想していなかった。さらに、この喜びようを考えると、外進生の新入部員が入るなんて想像もしていなかったようだ。そのくらい、山岳部は人気のない部活だということなのかもしれない。本当に剱岳に登れるのだろうか。ぼくの高校生活は、この先どうなってしまうのだろうか。ちょっと不安になってきた。
「明日、放課後、部室棟の一階のいちばん北側。そこ山岳部の部室だから。りょう先輩もいるはず!ふーん、ふーん、新入部員。わたしも一応そうかーうふふ。」
と、ぼくの手を握りながらくるくる回る。くるくる回れるのは、警戒されてぼくたちの周りから人がいなくなったからだ。
そんなふうに、ぼくの高校初日は台風みたいな女の子との遭遇から始まった。
翌四月六日は肌寒く、風が強い日だった。今日は高校生活のオリエンテーションやら、クラスの役員を決めたりやらでまだ授業はない。
中高一貫の港西では、中学からの通しで学年が振られるため、ぼくは『四年八組』に所属している。なんだか小学生に戻ったような気分だ。外進生のクラスであるこの八組は、全員違う中学の出身とのことだったが、朝、登校してみると、おそらく塾で知り合ったと思われる知り合い同士の会話があちこちですでに始まっていた。
実はぼくはこういう場が大変に苦手である。もちろん友達が欲しいという気持ちは人一倍強いのだが、なかなか初めての人と会話を上手に交わせないのだ。ぼくは塾に通わずに受験勉強をしていたので、クラスの中にすぐに話せる知り合いなどいるはずもない。朝のSHRが始まるまでまだしばらくあったので、とりあえず、昨日配られて今日持参するように指示されていた『港西生のしおり』をペラペラとめくり、読むともなしに読んでいた。まあ、実のところはぼくのように手持無沙汰にしている男女も多いのだが、かと言ってその引っ込み思案軍団の中に突然会話が生まれるはずもない。
ただ、会話をしている人たちも周りに気を使って声量を抑え気味にしていたため、教室はかなり静かな状態が保たれていた。そのとき突然大きな音で教室前方の戸が開けられ、巻機清水が顔を出した。きょろきょろと教室の中を見回し、ぼくを見つけると、
「かみーちくんいたー!おはよー!今日放課後部室棟1階いちばん北側。絶対だよ。じゃあまたあとでねー!山岳部。山岳部をよろしく、八組の人たち!」
と、例の甲高い声で言うだけ言ってさっさと帰って行った。入学式翌日から緑色のジャージという姿がさらに彼女の言動にインパクトを加え、クラス全員が巻機を見て、そのあとぼくを見て、「あー昨日の」という苦笑いを浮かべた。顔から火が出るくらい恥ずかしかったが、同時にぼくはなんとなく「これならクラスにうまく入って行けるかも」と思い、少しだけ巻機に感謝したのだった。
案の定、自己紹介のときに、そこここから「ああ、山岳部の人……」とささやく声が聞こえてきて、このまま行くと上市剱はその性格や能力ではなく、「山岳部の人」としてクラスメートに認知されてしまうんだろうなと漠然と考えていたが、昼食のお弁当を広げているときに前の席に座る大田原が
「あんなかわいい子と山登れるんなら、山岳部もいいかもなあ」
と話しかけてくれて、それをきっかけにその日のうちに何人かと会話を交わすことに成功した。
後になって分かったのだが、大田原は山登りには全く興味がなく、巻機のことも「ちょっとかわいい」くらいには思っていたのだが、それよりヒョロヒョロでメガネをかけて、とても山に登りそうに見えないのに山岳部に入ろうとしているぼくに興味があって、話しかけてくれたのだそうだ。
「山岳部の人」というのも悪くないかもしれない。そう思いながら、ぼくは放課後、部室棟の1階、北側の一番奥の部屋に向かったのだった。
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