第四章 星の光は過去の時間

「マリはどうして試合に勝ちたいの?」

 あたしたちは大学生になっていた。相変わらず片浜のヨットクラブに出入りしていた。

 あたしは海の潮で固まっているシャックル(ヨットのロープを止めるための金具)のネジを回すのに悪戦苦闘していた。おかげで危うくジュンの問いかけを聞き逃すところだった。


「別に勝ちたいわけじゃないよ。みんなが集まってきて、お祭りみたいじゃな

い?」

 もちろん嘘だ

「お祭りねぇ」

 ジュンが疑わしそうな声を出す。

「これ、ちょっとやばいかも」

 ジュンにはすぐバレる。だから話題を変えてみた。

「クローズでバタつくこと?」

「そう、このボロ船、リーチ開いちゃってるし、ブームもこれ以上引っ張れな

いし」

「メインセールかぁ」

「金がかかるなぁ」

「ハンディキャップばかりだね」

 そういいながら無心にシャックルキー(ヨットの金具を回すための道具)を力一杯回してみた。指先に金属が食い込む。その瞬間に潮で固まっていたシャックルが回った。


 その時にやっと気がついた。ジュンがいつもとちょっと違う顔をしている。

「ジュンはどうして勝ちたいの?」

「オリンピックだよ!日本代表の日の丸って憧れるなぁ」

「ジュンはいつ愛国者になったんだよ」

「国の代表選手なんだよ?誰もが一番って知ってるんだよ、言い訳なんかしな

くてもいいんだよ」

 ジュンの左手はなにかを確かめるようにディンギーのデッキの上を行き来し

ている。

「ナショナルチームのジャージってタダでくれるのかな」

「マリは本当にけち臭いんだから」

「うちは片親だからね。無駄はするなって耳にタコが出来るくらい言われて育

ってるからね」

「私は勝ち抜きたい。代表になりたいの」

 ジュンはあたしの言葉を無視して続ける。

「わかったよ。その言葉、何年聞いてると思ってんだよ」

 シャックルキーをクルクル回しながら、いつもより塩辛い風を押し返そうとした。今日のジュンはしつこい。

「あと少しなんだよ。頑張ろうよ」

「どうせ暇だしね」

「全くマリは呑気なんだから知らないよう」

 あたしは海に投げ込んだアンカーのように沈んで行くそのトーンに驚いた。

 ジュンの茶色の目が遠くを見ている。

 セーリンググローブを外したジュンの手の甲に引っ掻き傷が増えていることに気がついた。

 彼女の両親がまた揉めたに違いない。

 ジュンの家はこの辺りでも目立つ家だ。父親は国家公務員と聞いている。母親は大人しい人だ。ジュンの家に遊びに行ったときに何度かあったことがある。

 ところがある時からジュンの家に近づきにくくなった。子供ながらその剣呑な雰囲気に異常さを感じ取った。そのころからジュンがクラブハウスに居る時間も長くなった。


「勝ちに行くに決まってるだろう?」

 あたしは船体を拭いていたスポンジを投げ上げる。水を吸ったスポンジは勢いよくマストの先端より高く上がる。落ちてくるスポンジをヘディングみたいに頭で受ける。水しぶきが飛び散った。

「そうだよね」

 ジュンがやっと白い歯を見せた。


 あたしはジュンの笑顔が大好きだ。自分が持っていないものを彼女は与えてくれる。彼女の苦しみは気がついている。だからこそ余計に笑顔を引き出すのが自分の役目と思う。もし、彼女が背負いきれない辛さを抱えていれば、代わりに自分が苦しめばいい、そう思っていた。ジュンがレースに勝ちたいのならあたしは無理してでも、ズルしてでもそれを実現するんだ。それがあたしの暴れる心を落ち着かせるたった一つの方法だったから。

「今日の風、ちょっと気まぐれだったね」

 ジュンがシート(ヨットではロープのことをシートと呼ぶ)を解きながら話す。

「うん、ジュンもそう思った?なんだろうね、風の子供のご機嫌悪かったのか

なぁ」

「トラピーズに出ていても空気のが気ままに流れている感じだったね。いつも

みたいに、なんだろう、力が集まる気配があまりなかったように思う」

 ジュンが顔をあげる。

 ジュンは地形や海面をみてなんとなく海の様子を掴む。海の気配、って言っていいかもしれない。ちょっと第六感的な気分だ。

 一方、あたしはブローが発生する前に、その種というか、場所と方向を見ることができる。この能力が自分特有だと気がついたのは、ジュンと夜光虫を見に行った時だ。

 そして、この力はヨットレースで大きなアドバンテージになることを発見した。なにしろ、ライバルたちが見えない風の発生を正確に知ることができるのだ。

 ジュンが大まかな風のきっかけを掴む気象予報士、あたしはそれをピンポイントで掴むレーダー、といえば良いだろうか。

こうしてあたしたちはライバルが決して見出せないブローを予測する。それを捉えることで圧倒的なスピードでレース集団を置いてきぼりにする。それがあたしたちの勝ちパターンだ。

 そしてあたしたちが高速で滑走する時、船体から白いしぶきがしっぽとなって後ろに伸びる。その走りの特徴からあたしたちのペアは「コメット」と呼ばれるようになっていた。


「こんな荒れた天気だとハル達の得意な風域だな」

「そうだね、彼女、荒れた海だと抜群だもんね」

「あの安定感はすげーよな。さすがワールドクラス。あたしたちにはもう少し風が落ち着いてほしいな。じゃないとあたしの目も役に立たないよ」

「コメットもブローが吹かなきゃタダのポンコツなヨット乗りだからね」

ジュンが笑う。

 もちろん、普通のセーラーとしても自分たちペアのセーリングスキルはトップクラスと自負している。何しろ小学校の時からヨットに乗り続けてきたのだ。

 つまり、先頭集団は似たようなスキルがある。その中であたしたちだけが必殺の切り札をもっている、そういう状態なのだ。良いか悪いかは別にして...。

そんなあたしたちにも今年の気象はなにか異常と思える。

 毎日三十五度を超えるような気温が続く中では、常識が通用しないのかもしれない。

 先週から沖縄のあたりを台風が二つばかりかすめている。温暖化のせいだろうか?この季節にはあまり見ないような気圧配置だ。

 大きな低気圧で吸い上げられ、撹拌された水が、数千キロ離れたここに届く。今日は、大きなうねりが海面を覆っている。


 それでも、強力な太平洋高気圧が宇宙まで透けて見そうな空を用意してくれた。

等圧線の詰まった気圧の層から安定した強い風が吹き続けてくる。


あの、オリンピック最終予選はもう来週に迫っていた。

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