第三章 片浜ヨットクラブ
マリはセールが二枚ついたディンギーを引っ張り出した。車輪のついた船台に乗せてある。そのままヨットクラブの海に通じるスロープに引き回す。船台ごとスロープからおろしてゆく。海につける。船体が浮き上がる。
「ここ、持っていて」
マリが船のへさきを指さした。私はためらいなく海に入る。腰まで水につかり、へさきを抑える。浮き上がった船の下からマリは船台を抜き取る。
マリは船台をスロープの上に片付けると、戻ってきて船体を抑えた。
「ありがとう、それじゃあ、船の上に上がれる?」
マリが船体を抑えている。グラグラと白いディンギーは揺れている。
「ここに座れるかしら?」
マストの手前の狭い隙間をマリが指差す。
私はあっさり乗り込む。マリの目が少し大きくなる。
マリは私が落ち着いたのを確認すると、船尾を押した。
海に向かって動き出すディンギー。マリは巧みに船に飛び乗り、ティラー(舵を操作する棒状の器具)とメインシート(ディンギーのメインセールを操作するためのロープ)を掴む。
羽ばたくように大きく手を広げながらシートを引き込んだ。反対の手はティラーを巧みに操る。
ディンギーはゆっくりハーバーのスロープを離れた。
私はジブシート(ディンギーの前方に装着されている細い三角形の帆を操るためのロープ)を軽く引いた。
バタバタしていたジブセールが風をはらんで、大人しくなる。
マリは片眉をあげた。船はそのまま岸から離れて行った。セールは海風を斜めに受けている。
マリは十分沖に出たことを確かめると、ティラーを少しずつ引いた。バウ(ヨットの船首部分のこと)が回転する。白いファイバー製のディンギーはゆっくり傾きながら加速して行く。
マリは風上側のデッキに腰掛け、右手にティラー、左手にメインシートを握り船を操る。
ディンギーは当たり前のように走り出した。
わたしも、ジブシートをカムから解放し、マリに合わせてタイトにして行く。マリの横に場所を移す。
「あなた、経験者ね」
マリが横目で声をかける。
「ごめんなさい。言うべきでした」
「謝る必要なんてないわ。かえって都合がいいわ。何に乗ってたの?」
「レーザーに乗ってました」
マリはディンギーがもっとも快適に走るように、ティラーとセールを巧みに調節して行く。風圧と重心のベクトルを最大限に利用する。
ディンギーは、湿気の少ない風を切り裂きながら速度を上げた。
「レーザーなんてずいぶんマニアックな船に乗ってたのね」
マリが言う
「最初にヨットを習ったスクールが持っていたんです」
岸辺近くの岩のありかを確かめるように、アンは身の上話を小出しに繰り出した。
マリは何も言わない。
私達は一時間ほどセーリングを楽しんだ。
ディンギーを船台に載せ、先ほどのパティオにディンギーを引き上げた。艤装を解いて行く。ホースで水をかけながら潮を落とす。
「楽しかったわ」
マリが下を向いたまま声を上げる。
「はい、二人乗りっていいですね」
「時にはね」
マリの声が震えたのは気のせいだろうか。
「この辺は潮がちょっと複雑なんですね」
「どうして?」
「感じました」
「へー、そうなの、この先の島と海底がちょっと複雑にしているのよ。夏なん
て結構神経つかうわ」
「詳しいんですね」
「ここで育ったからね。それに、曲りなりにも、ヨット教師はそれくらい知っ
ておかないと安全対策にもなりゃしないわ」
「そういうもんなんですか?」
「そういうものよ。何か起きてからでは遅すぎるのよ」
しばらくとりとめのない探り合いをしながら船を片付けた。
私は着替え終え、事務所の外にでた。マリの姿を探す。スロープ近くでマリが海を見ていた。声をかけようとしたが、思わず躊躇してしまった。
その横顔にはぞっとするような暗さが覆っていた。
「ウェット、洗ってかけておきました」
私は大きな声をあらためて出してみた。
弾かれたようにマリがこちらを向く。
「ありがとう、やっといたのに」
「今日は楽しかったです」
「また来ていいですか?」
私は必死さが出ないように小さな声で続けた。
「いつでも歓迎よ。どうせ暇だし」
マリが答える。
「あ、ありがとうございます」
「ばい」
マリは振り返りもせずに事務所に戻ってゆく。
その姿を見届けたあと、私は自転車のペダルを踏み込んだ。
初めて漕いだような変な気分だった。いつもとほおを撫ぜる風もいっそう馴染んでいるような気がする。自然に鼻歌が出た。
「そうだ、お肉も買わなきゃ。タンパク質取らなきゃね」
私はハンドルを切った。
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