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やまさきゅう

プロローグ

海からの遅い風が届きだした。裏山の緑がざわめく。

 庭先で洗濯物を干しながら、そんな緑あふれる光景を眺めていた。

「ふう」

 思わずあくびが出る。

 ポケットが震えた。誰だろう。

「もしもし」スマホのボタンを押す。

「...」

 誰も答えない。何しろ、山に囲まれた住宅地だ。電波の通りが悪い。スマホを耳から離し画面を見た。

「監督」の文字が画面に表示されている

「コーチですか?」

「おーい、聞こえますか?」

「もしもしもしもし」急に大きな声が飛び込んでくる」

「えっと、アンさんの電話でよいですか?」

「そうですよ。コーチ」

 負けずと声をはり上げる。

「珍しいじゃないですか。いったいどうしたんですか?」

 背景に電車の音が聞こえる。音量が小さくなったり大きくなったりする。

「アン、久しぶりだな。マリの葬式来るかい?」

「え」

「そうか、やはり知らなかったのだな」

「どういうことですか?」

「平家マリ、昨日永眠したよ。片浜の病院に入院していたんだ」

 平家マリが死んだ。とうとうその時を知らせる電話が来た。かけてきた相手はライバルチームのセーリングコーチだ。彼は未だにマリと音信があったようだ。

「そうですか」

 思ったより冷静だな。自分でも驚いた。

「あれから十年か」

 心の声が聞こえたみたいだ。コーチの声が急に輪郭をとった。

「マリには会ってたのかい?」

「あんまり」

「そうか」

「あまり調子が良くないとは聞いてましたけど、こんなに早いとは思いません

でした」

 私にとっては、平家マリとの思い出は大きな石碑のようなものだ。大きく毅然として揺るぐことはない。今の自分の生き方を変えたのは間違いなく彼女だ。

 あの激しい四年間は動画のように、いつでも、生々しく、思い出すことが出来る。そのたびに心が不自然に騒ぐ。そして、その思い出は、今日アクセスできなくなったのだ。

「お葬式はどこですか?」

「片浜の町営葬儀場だ。場所は知ってるだろう?四時から六時までだよ」

 あの小さな町は隅から隅まで記憶に残っている。

「コーチも行かれるのですか?」

「俺は通夜に行ったよ。今日はレースがあるからちょっと行けない」

「ありがとうございます。私、行きます」

「そうか、じゃあ、また」

 十年ぶりにしてはそっけなく電話は切れた。まだわだかまりは溶けてないってことだろう。

 電話をポケットにしまうと急いで洗濯物を軒下に移す。奥のタンスの奥にしまってあった黒のワンピースを引っ張りだした。


 五歳の娘の手を引いて電車を乗り継ぐ。たっぷり一時間半、終点の駅に降り立った。もう日が傾きかけていた。駅前のロータリーに暇そうなタクシーが一台止まっている。

「片浜の葬儀場までお願いします」

「はいよ」

 それだけ言うと無口な運転手は車を走らせた。漁港で有名な小さな町。葬儀場への道は下り坂だ。

「ママ、海が見える」

「そうだね」

 何度も通った海だ。傾きかけた太陽の光が沖合の小さな岩を照らし始めている。

「ありがとうございます」

「ほら、早く降りて」

 娘の腕を抱えて車から降りる。葬儀場ではもう数名の弔問客が残っているだけだった。

 娘の手を引いて短い焼香の列に並ぶ。花壇向こうには平家マリの写真が見る。

 日に焼けた顔に大きな目。稲妻のように斜めに横切る額の傷。思わず自分の左手首を確かめた。斜めに走る一直線の、マリとわたしの傷跡。

 写真の下には金色に輝くメダルが飾られてある。平家マリは優秀なヨット選手だった。

 その時、娘が手を引いた。

「ママ」

 静かにしてね」

 腰をかがめて彼女の目を見た。

「ママ、ほら、あれ、うちにあるのと同じだね」

「そう...だね」

 焼香の順番が巡ってきた。


 私は、親族に会釈をした。パイプ椅子の間を抜ける。娘の手を引いて建物の外にでた。

「きれいだね」

 娘がいう。そこからも海が見えた。右の方から夕暮れのオレンジ色の光の束が差し込んできている。

「ママ、かぜの子がうまれるよ」

「え、何?」

 思わず娘の顔を見つめる。大きな、薄い茶色の目が見上げている。ドキッと心臓のなる音がした。彼女が海の方を指す。

「ほら、あそこ」

 娘は海面の真ん中を指している。

「こっちにやってくるよ」

 自分の目には何も見えない。


「まさか...」

 マリとの最後のレースを思い出した。そういえば、マリに聞いたことがる。

「マリさん、風の子供ってどんな形をしているのですか?」

「うーん、形なんてないよね。もやもやっと、風呂の湯気みたいなのかなぁ。 それからだんだん赤っぽい色に成ってゆくんだ。そういうやつにうまく乗って

やるんだ。そうすればどんなレースでも勝てる」

 まもなく手をつなぐ娘の言う通り、強い風の塊が私達を包み込んだ。

 あのレースで、限られたものだけが使うことのできた技術。偶然だろう、だが、よりによってマリの葬式で我が子から同じ言葉を聞くとは思わなかった。

 娘の手に力を入れたまま立ちすくんだ。

「はやく帰ろうよ、きょうはグランパが帰ってくる日だよ。おみやげ、たのし

み」

 そんな親の心を知らずしてか、娘が手を強く引いた。

「そうだね、急いで帰らなきゃ」

 なんだかマリが後ろから手を振っているような気がした。私達はタクシーに向かって歩き出した。

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