118恥目 先生だって、わかりません!
帝大へ行くのも久々だ。
薄い雪の膜を自転車で踏み潰しながら漕ぐ感覚は体が覚えていた。
2人分の体重を運ぶ体力は、少し苦しくとも何ら問題ない。
ただ、この真冬の風が顔に叩きつけるように吹くもんだから、ジンジン、ヒリヒリ。少しでも止まれば、痛痒くて顔を掻きむしりたくなる。
そんな僕より寒がっているのが、後ろに熱を乗せる志蓮だ。ガタガタ震えて顔が青白い。家の中でも寒い寒いと震えているし、確かに細いから誰よりも寒そうだ。しゅーさんとは違う細さ。志蓮はなんとなく榎岳っぽい。
「僕の羽織着ます?」
「ううん、こうするさかい」
何をするかと思いきや、僕の腰に腕を回し、背中にピタリと体をくっつけてくる。
「ふああ、あったかいぃ」
確かに暖かい。人肌の温さは冬が1番いい。冷えた体が背中から、ほんわりと温まっていくのがわかる。その温さに、思わず僕の口からも同じ言葉が漏れ出てしまった。
「って、くっつき過ぎですよ」
「落ちてまうもん。寒いし、仕事明けやし」
しゅーさんは落ちないけどな。と、思ったけど、そうか。普段は襷紐で身体を縛り合ってるから落ちないのか。
志蓮に触られると中也さんの顔が過ぎって、なんだか悪い事をしている気持ちなる。
自転車が段差か何かでガタンとなる時に、少しでも体の当たる面積が多くなると益々思う。
そりゃあ怒るよな。これが逆の立場だったら、僕は酷く傷ついて立ち直れないと思う。
僕はハッとした。こういうのもしかして「浮気」って言うのでは?
1人の人を愛さずにそっちこっちに行く人の事を言うのでは? ドキドキしてないし、好意はないけれど何故か安心してしまってるのでは?
だとしたら最低最悪にも程がある。僕はゴミだ。違うんです中也さん、あのこれはただの移動手段としてのやむ終えない事でして・・・・・・なんてつらつら言ったら、余計疑わしいわ。
しかし、感情を優先して家に戻る距離では無い。
僕は所詮言い訳にしかならない、切実な言い訳を死ぬ程考えて、出来るだけ真顔で自転車を漕ぎ進めた。
程なくして帝大に到着すると、久々に会う学生達に声をかけられる。
何処に行ってたんだと聞かれては吃り、頭を掻いて「実家にね」と、目を逸らして逃げた。
僕としゅーさんを兄弟だと知っている学生達は、津島は街で見たのに、弟だけ帰るのはおかしいと言い始めたもんで、僕はそれ以上詮索されないように事務室まで慌てて走った。
そして、先生の居る事務室の扉の前で急停止。
いつも通りノックを――と思った手が止まる。僕の右手を掴まれたのだ。焦った顔の志蓮は汗をかいて、動揺していた。
「ちょ、勝手に入ってええの?」
「前は怒られたけど、もう呆れられてるから」
学生じゃない奴が学校に勝手に入ったら不法侵入だ。警察がすっ飛んでくるぞ、なんて言われても不思議じゃない。
けれど僕を含め、昭和平成問わず、先生の実情を知る連中は暗黙の了解で堂々と出入りするようになった。だから大丈夫なんだよ、と無責任な事を言ってみる。
なんて言うけど、別の意味で入るのを躊躇っている。
しっかりしろ。笑顔で、明るく入るんだ。ノックをする手は強張って、手汗が酷い。
生唾をごくりと飲んだら、「僕を責めてほしい」人に会いに行く。
気を取り直してノックを数回。返事はすぐに返って来た。
戸を開ければずっと変わらない事務室の中で、右目に黒い眼帯をつけた先生が座ってお茶を啜っている。
僕らだとわかれば表情はパッと明るくして、「要さん!」と笑顔なのはいいけれど、やっぱりその眼帯を見ると心が痛んで上手く笑えない。
「こんにちは。こちらは富名腰くん、でしたよね?」
「ご無沙汰してます」
「同じ平成の人だって聞いてますよ。あとでお話聞かせてくださいね」
「話せることだけならええですよ」
志蓮はモヤっとする言い方をして扇子で口元を隠し、目を細めた。
なんか隠してる気がする。僕の勘なんか当てにならないけど、なんかそんな気がする!
「皆それぞれ事情がありますもんね」
先生は、まあ座ってくださいとソファを指した。
お茶を淹れる準備をしてくれるけど、まだ距離感が掴めないのか、椅子や机に体をぶつけて歩き回る。
「あ、先生! 僕がやりますから!」
危なっかしくて見ちゃいられない。よろめいてあるく先生を支えようと駆け寄る。
しかし、先生は「いえ」と掌を僕に向けた。
「要さん、自分のせいだと思ってるでしょう?」
「そりゃそうですよ・・・・・・だって」
当たり前だ。僕が攫われなきゃこうはならなかった。もっと言えば父さんがあんな事しなければ、あの事件も起こらなかった。「生出家」が起こした傍迷惑な事件なんだから、責任を感じないわけがないんだ。
先生に会う度に心が苦しくなっていくから、本当は逃げ出したい。
だけど何かと理由をつけて今まで通りに戻りたいと望む自分もいる。1人だって話しにくい人が居たら苦しいよ。でも僕に右目を治せる力も、お金もない。
「どうして責めてくれないんですか?」
僕は面と向かって聞けなかった事を、ここで初めて言葉にした。
ここで何かを要求してくれた方が楽なのだ。滴る汗が床に溢れないよう、袴をしっかり掴んで、少しでも怖さから逃れたいという甘えで目をギュッと瞑る。
「責める、か。考えもしませんでした。確かに不便で、まだ距離感が掴めない。生活し難いし、痒いし、蒸れる。でもね、これはこれで気に入ってるんです」
先生は何故か嬉しそうに微笑みながら話した。
「デメリットばっかりじゃないですか」
「そうですとも。いいことなんかないんです。だけど、これ。僕がお父さんって言う証なんですよ」
「え?」
何を言われているのか解らない。目を怪我した事が、お父さんの証。
吉次と何かあった怪我だっていうことだろうか。後で彼に聞いてみようかな。
「僕よりも要さんの精神状態が心配です。急にいろんな事を思い出したんでしょう? それに監禁されて、火傷して・・・・・・要さんが1番怖い思いをしたんですから、少しは周りに甘えてくださいね。これ、中也さんだけじゃなくて皆が思ってることですから」
先生はお茶っ葉をざらざら溢しながらお茶を淹れてくれる。
怖い思いをしたのはみんな同じなのに。
どこまでも自分のせいだと思うのは消えないだろう。これ以上先生に謝罪や何かを言ったとしても、きっと同じ様に返されて終わりか。
甘えるって言うのは、父さんみたいにって事?
いやあ、無理無理。そんな事出来るわけない。学校でも教えてくれませんでしたよ。
甘えられる相手はいない方がいい。弱いところを見せたら、幻滅されそうで怖いもの。それに皆の前では「頼れる要」で居たいのが本音だ。
とりあえず返事をして、出されたお茶を啜る。
ちょっと苦いのはご愛嬌。ついでにお茶菓子まで出されてしまったら、完全におやつタイム。穏やかな先生と志蓮と居ると、時間がまったり流れてのほほんとしてしまう。
「そういえば、何かご用事でしたか?」
「あ」
目的をすっかり忘れていた。寒い中自転車を漕いできて本来の目的を忘れてるとか致命的すぎる。
「先生って、先生だったじゃないですか」
「教師ってことですか?」
「そうです。それであの、文豪派閥とか純文学って何ですか? それを聞きたくて」
「えっ」
先生が固まった。
お菓子に添えられて出てくる楊枝で雪うさぎの練り切りを一口サイズに切っている手が止まる。表情も時が止まったように動かない。
「拓実サン?」
「おーい」
顔の前で手を振って見ると、目だけパチパチと動かした。
「先生?」
もう一度呼んでみる。
先生はやっと動きだして、練り切りを一口頬張る。その後も、もぐもぐ普通におやつタイム続行です。食べ終わってから答えてくれるのかな? 僕はじっと待ってみる。
みるみるうちに先生の雪うさぎが食べられて居なくなり、先生は立ち上がって皿を片付け、そのまま事務の机へ――。
「いやいやいや! 先生!? 返事は!?」
「僕仕事があるんで」
急に仕事モードでこっちも見ない。声もよそよそしい。
僕達が来た時は呑気にお茶啜って温まってた癖に!
なんでだよお! 先生の肩を掴んで揺さぶろうとも、彼は何も言わない。ペンを動かして仕事をしているフリ。本当に仕事かと手元を除けば、紙に可愛らしいウサギやクマの落書きをしてる!
「あー・・・・・・わからないんちゃう? 先生にもわからんことってあるんよ。要チャン、迷惑かけたらあかんから、帰ろうか」
志蓮は挑戦的にニヤリと笑い、先生を気遣う言い方をした。
「わっ、わからないだなんてそんな! そんなことはありませんよ。わかりますよ、わかりますとも! でも、要さん! 自分で考えるって言うのも大切なんですよ? だから、あ、え、て! 答えないだけですとも!」
先生は変な汗をたくさんかいている。
そうだ、さっき甘えろと言われたからここで甘えて見るか。
「先生、僕全然わからないので教えてくださいっ」
柄にもなく猫撫で声を出して上目遣いをしてみる。薫がよくやるやつだ。これで飴屋にくる男共に売れないガラクタを買わせて売り上げを上げている。
ひっかかる男も男だが、薫のあざとさと言ったら天下一品。僕も真似をさせてもらおう!
「甘えるなあ!」
らしくない先生の大声。しかも敬語でない!
「嘘でしょ!? さっき甘えろって言ったじゃないですか!?」
「そうですよ! わかんないんですよ! 文豪派閥って何! 僕が聞きたいですよ!」
開き直って荒ぶる先生は文豪を極力避けて来た人のようだ。
ギリギリ「太宰治」なら知ってる。だってテレビとかで良くやるじゃないですか、そのくらいの知識ですけど! なんて言うので、本当にわからない様だ。
「わかんないんや・・・・・・」
「わかるわけないじゃないですかぁ! 派閥で思い浮かぶのはママ友内の派閥とかですかねっ! 担任だからって、なんでもかんでも僕に押し付けて来て・・・・・・知るか! どこの誰がどうだのって」
先生はぶつぶつ何か呟き始めた。「派閥」という単語に平成の苦い記憶を思い出して、疲れ果てている。なんか悪い事をしたな・・・・・・。
にしても、先生も解らないか。そうだよね、意識しないとそんな事調べたりしないし、僕だって本は読んで来たけどわからない。また振り出しに戻るのか。
「はっ、取り乱してすみません! ちなみに何故そんなことを知りたいんですか?」
先生は咳払いをして、眼帯の位置を整えた。髪の毛も乱れまくりだ。
「芥川賞が欲しいんです。でも、僕は小説の事何も知らないから、それじゃあしゅーさんの助けになれないと思って調べてるんですけど・・・・・・」
僕は理由を答えた。
「なるほど。こんな僕ですが、芥川賞を作った人くらいなら知っています。確か、菊池寛って人ですよね」
「昨日の雑誌の会社の社長サン?」
こくりと頷き、先生は顎に手を当てて頬杖をつく様に考え始めた。
菊池寛、という人について知っている事を探してるのだろうか? それともまた地雷を踏んで荒ぶるのか・・・・・・。
すると先生は掌に拳をポンと一回叩いて、閃いた! と電気がついたように明るい表情をした。
「会いに行けばいいんじゃないでしょうか? 純文学ってなんですか? って! 作ったのは彼ですから、答えられる筈ですよ」
目から鱗だ。
芥川賞を作った本人に聞きにいくなんて考えもしなかった。
平成の僕なら、それは出来ませんとキッパリ言っていたかもしれないが、今の僕はそれをそのまま鵜呑みに出来るぐらい馬鹿正直。
そう言われたら、そうやる。
家に帰ったら会社の所在地を調べて、次の休みに訪ねよう。
「さすが先生! 全く考えてませんでした!」
「灯台下暗しですよ。あ、そうだ。行く時は富名腰くんも一緒に行ってくださいね」
「もちろん、着いて行かせていただきますわ」
先生が志蓮も一緒に行けというのは、彼にはまだ「対象者」が居ないからだ。それが文豪かもしれないし、違うかもしれない。
脈のありそうなところには連れて行く。僕が先生に教えてもらったように、志蓮にも対象を早く見つけて欲しいのは本心だ。
もうすぐ2月になろうとしている。春先までには見つかるといいなあ。
芥川賞も狙いつつ、志蓮の対象も探す。やることがたくさんあって、毎日本当に忙しい。
さてまずは、夕飯の買い物をしていかないと。
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