推理小説読み切り集
空代
修理屋ミスタ
修理屋ミスタと時を食べる柱時計 前編
頬を乗せた左手が小刻みに揺れる。左足も一緒で、言ってしまえば手まで総動員した貧乏揺すりだ。行儀が悪いにもほどがある。自覚しながら、けれども体を止めようとは思わなかった。
目の前で、両手が天井に向かって伸びる。背筋の連動を伴うそれは欠伸による発露でしかなく、壁に触れると四肢は緩慢に戻った。
そうして、その体はそのままソファに沈む。
私が揺らすテーブルからペンが落ちた。転がり彼に近づいたのに、彼は目を伏せてしまう。――流石にもう、我慢の限界だ。
「現場に行こう」
立ち上がった私を、彼が見上げる。彼は悠長に――そう、本当に悠長に。まるで一眠りすれば夕食が出来上がっているだけの幼子のように、瞬きを一度し、首を傾げた。
「はやく起きるんだ。もう遅いかも知れないが、行かないよりマシだろう。貴重な手がかりを犬が土に埋めるより早くしなければ。時間を無駄にしてはならない。時は金なりだ
「その通り、時は金なり」
「わかっているなら!」
焦りが喉を窄める。激高でわめき散らしそうになるのを途中で何とか食い止めた。代わりに、歯がぎちぎちと音を立てる。彼は穏やかな両目を窄めた。
「君は事実を言うのに、いつも一歩食い違うね。真面目な君を僕は好んでいるけれど、少々残念だ」
彼はやや勿体ぶった調子で言葉を零しながら、足を伸ばした。細い足首を隠しているのは濃茶の靴下。それが足下の客用スリッパを上から踏みつぶし、そのままようやくスリッパを軸に立ち上がる。彼のひとつに括られた長い髪は、動きにあわせて軽く揺れた。
柔らかいブラウンのスーツは彼の人の良い風貌を助けるのに、くたびれた皺は彼の頓着のなさを際だたせるようだ。それらは悠然とした所作と合わさって、今の私をやけに苛つかせる。彼のポケットから覗く懐中時計の鎖は静かに輝いているのに、彼は私を見ない。
「残念はこちらの方だ、簾田」
奥歯が軋む。唸るように言うのに、彼はやはり笑ったままだ。彼は私と違うことを、私は知っている。けれども彼と居たからこそ、彼の態度が信じられなかった。
「人が死んだんだぞ、簾田! それも奴だ、【時計屋】だ! にも関わらず、警察に任せて部屋にこもりきりなど……貴方の正義はその程度なのか!」
「
彼は穏やかに声を落とした。そう、彼はいつも穏やかだ。私の心がどれだけ乱れようと、体がどれだけ震えようとも。彼の声はいつも、そこにゆっくりとした波紋を作り、私の激高すら無意味にしてしまう。
それでも、それでもだ。貴重な時間を、貴重な手がかりを無駄にするのは――
「君は二つ思い出す必要がある。一つ、【時計屋】は現場に証拠など残さない。二つ、現場で我々が見つけるのは、いつも奴が終わらせた痕跡だけだ」
彼の言葉は、正しい。正しいが、焦燥とは別だ。ぎちぎちと歯が擦れる。
「そう、君は聡明な男だよ角田くん」
私の隣に、悠然と彼が立つ。中肉中背だがどこか線が細くも見える不思議な彼は、そのくせ当たり前のような安定感を持っている。私がどんなに強く地を踏もうとも、そこにあること、それだけが当然のような態度でなにもかも成してしまう。
「ちょうど良い頃合いだね。有限な時間を活用しに行こうか」
彼は微苦笑を浮かべながら、私の腕を叩いた。
* * *
「そう不貞腐れないでくれよ」
「不貞腐れてなどいない」
彼の言葉に、むっつりと返して私は腕を組んだ。不貞腐れる、などと子どものような表現をされるのは単純に不服だ。時間は刻一刻と過ぎ去っている。
亡くなったのは
二人は救急車を呼ぶ前に若松一雄の死亡を確認し、警察へ連絡。屋敷の人間と招待を受けていた人間が待機する間に調査をしてしまえば――私の目論見は、間違っていなかったと思う。
そもそもこの屋敷は、人が多くない。主人と弟に対して使用人は陸宮のみ。手伝いは外部から来ているらしいが、事件の時は時間外なのでいなかった。招待客は我々二人と、学者である
「我々は今回、ただ偶然この場にいる、に過ぎないよ。ちょうど本業の話が来て、そこで【時計屋】の事件というだけだ。いつもと違って調査を願われる立場じゃないし、どちらかと言うと招かれざる客だ。……いや、招かれた客かな」
彼は諭すように言葉を並べながら、本棚を眺めている。最後の言葉は少しだけ独り言のようで、苦笑を含んでいた。
彼の独り言に追求する言葉もなく、彼が眺める本棚を私も見る。書斎でもないただの納戸にすら本があるのだから、若松一雄は読書家だったのだろう。蒐集家でもあったようだが、本に関しては稀覯本ではなく辞典や文庫を主としているのでいわゆる飾るだけの人間ではないのは確かだ。文庫は背表紙だけで分かる範囲でも歴史小説、ミステリ、SFが多いように思えるし、辞典は百科事典が版を変えてそろえられているほどでもある。植物や昆虫などはそれだけでも随分多い。
これほどの本が書斎からあぶれてここにある理由は不明だが、それだけ多く本に馴染んでいる、ということだろうか。修理屋として仕事を請けただけなのだから知る由はなく、そもそも事件においても知る必要のない情報だろう。
それにしても、若松一雄のコレクションである柱時計の修理を受け持った先で【時計屋】の事件に遭遇するのはいくらかの皮肉めいたものがある。運命のようだが彼は運命論者ではないし、私も違う。けれどだからこそもどかしい、と思う。彼の言うことは正論で、しかしこの偶然をそのままにするなどあまりにもあんまりではないか。
「依頼主が死んでしまったし、我々の時間も限られている。我々の最優先は【時計屋】ではなく【時計】だよ。修理屋が修理しないなんてとんでもない」
「しかし、【時計屋】はっ」
叫びそうになるのをすんでで耐えると、彼は労るように目を細めた。込められた憐憫から逃れるように、私は床を見る。
「君の情熱にはヤキモチを焼いてしまうね。【時計屋】が女性だったらロマンスが生まれてそうだ」
「……私が悪かった。その手の冗談は止めてくれ」
敢えて軽い調子で言う彼に、こめかみを押さえて息を吐く。彼は薄く笑うと、納戸に唯一ある長方形の細い小窓を開けた。
「やけに綺麗な小窓だね。綺麗に磨かれている。……覗き込めば目視はかろうじて可能、通るのは腕までってところか」
小窓は稼働域に制限があるもので、顔を出すことはできない。隙間からかろうじて手をだせる程度だ。そうして手を出してしまえば、窓は透けないようになっている為外の様子をみることは難しいだろう。
そういえば、この部屋は書斎のすぐ下だ。
「簾田」
「僕たちは修理に呼ばれた。ただそれだけだよ」
彼は軽く微苦笑をして、小窓を閉じた。私には見えないモノを彼は分かっているのだろうか? 起きてしまったのは【時計屋】による殺人事件。私にはなにもかもわからないのに、いつも彼は気づくと可能性の端を摘んでいる。
「異常がなかったとはいえ、可能性のあるパーツを交換したけど時計はやっぱりずれている。今回は十五分。若松さんが生まれたときの時計、とは言うけど、全部綺麗なパーツで、丁寧に管理されているものだ。結局、原因は不明」
すらすらと言葉を並べ、彼は書斎に置かれた柱時計を撫でた。職人の細工がなされたものはこの納戸で一番の高級品ではないか、とすら思える美しい木造。艶やかな木目は、今も不思議な色香を持つ。
「本棚の配置は変わりなし。そこの棚、右手側の引き出しだけ取っ手の角度が変わっているくらいかな? ……せめて、利用者探しでもしようか。我々が時計を直すために必要なものはおそらくそちらだ。このままじゃなにも手を付けようがないし、事件と関係ない話を聞くくらいの時間はあるだろう」
それが本当に事件と関係ないことなのか、私にはわからない。彼は【時計屋】を見過ごさないはずだ。彼の正義を問う度、彼はいつも私に答えないけれども。それでも私と彼には、【時計屋】、が間にある。それだけは確かだ。彼の髪は、あの日を常に残している。私よりもよほど彼は正しく、美しい信念を持つのだ。
「なにか必要な物はあるか?」
「角田が居てくれれば十分さ。ひとまず食堂に行こう。使用人はそこにいると言ったし、うまくいけば客人にも会える」
彼は眉を下げておだやかに答えると、納戸の扉を開けた。
* * *
「簾田様、有り難うございます」
紅茶を置いた陸宮が、深々と頭を下げる。彼は人の良い顔で「いえ」と答えると、小さくため息をついた。
「遠慮でも何でもなく、お礼を言われるには足りていません。時計の修繕をしたのですが、若松様がおっしゃったようにやはりまたずれていました。せめて若松様の願いを叶えたく思っているのでもう少し時間を頂戴したいのですが――色々お辛いでしょうに、申し訳ありません。前払い分で十分ですから」
「そんな……一雄様が決めたことです。雄二様もお願いして欲しい、とおっしゃっていましたから」
答えた陸宮の表情は固い。拳を強く握っており、皺の多い手から骨の形がよく見える。彼とは違いきっちりとしたシルエットを保つスーツの袖の先、感情を抑えながらもその手は揺れている。
使用人の陸宮は昔からこの家に勤めているらしく、若松一雄が自分たち兄弟にとっては兄のようなものだと言っていた。歳は六十五、だったか。新しい使用人を雇わず彼一人で難しいものは外部からパートを呼び、共に生活をしてきた人間。思うところも多いだろう。使用人と主人では立場も見方も違うだろうが、涙を流さず我々に接する陸宮は、それでも無感動では無いように見える。
有り難うございます、と、彼は至極穏やかに礼を述べた。そうしてから、トランクからやや大仰に書類を取り出す。
「では申し訳ありませんが、こちらを雄二様にお渡ししてくださいますか? 私からも伺いますが、雄二様はまだ警察の方とお時間があるでしょうし」
「承知いたしました」
「それと、質問をできれば。事件の前後、柱時計の部屋に行かれましたか? とだけ。少々気になるので他の方にも確認させていただきたいと思います」
彼の言葉に、陸宮は頷いた。特別な感情は見えない。どちらかというと先ほどからこちらを伺って見える江崎の興味深そうな表情の方がわかりやすいだろう。
「雄二様に確かにお伝えいたします。ただ、事件の後は見ての通り雄二様に時間は無く、事件前も丁度一雄様から頼まれた仕事の関係で私と共にいたので、柱時計の部屋に行く時間があったかと言うと、少しその機会は難しいかと。手洗いの時などは分かりませんが――念のため答えますと、私自身は柱時計の部屋に行っておりません」
「有り難うございます」
彼の礼に、陸宮が会釈をして背を向ける。彼が食堂の机に向き直るのと合わさるようなタイミングで、座っていた江崎と小村が立ち上がった。江崎はこちらを見て笑んでおり、逆に小村は陸宮の方へ向かう様子だった。
「小村さん」
彼が声をかけたのは、近づく江崎ではなく小村に対してだった。彼は江崎に軽く会釈をするだけですませると、いぶかしそうに振り返った小村に大股で近づく。
「柱時計の部屋に行かれましたか?」
「行っていない。物置部屋にわざわざ行く用事なんてないからな」
素っ気なく言い切る小村に、彼は頷く。物置部屋。小村の言葉選びにはどこか嘲るような音があった。
「事件の前後に限らず、ここ数日についてはどうです?」
「そういうのは雄二さんかあっちのセンセイたちにでも聞いたらどうだ。アレの物ばかりだろあそこは」
「そうですか、有り難うございます」
ポケットに手を入れたまま投げやりに答える小村に、彼はただ穏やかに礼を言った。ふん、と吐き捨てるように鼻を鳴らした小村の態度はずいぶんと傲慢だろう。品が無い。
小村のスーツは彼とさほど変わらずくたびれた様子だが、彼と違いネクタイすらゆるく結んでいる小村の所作はその言葉選びだけでない不遜な態度を強調しているようだった。若松の親戚だと言う小村は事件前と変わらずで、家の使用人どころか客人や主人にすら手酷い。ポケットに入れた手は時計すらつけていない。彼と同じく懐中時計を使用する陸宮と違い、それは小村のルーズさを示すようでもあった。彼はたかが時計、つけないのもふつうだよと平時から言うが――小村については多くの事象がこの男の品のなさを示すように感じてしまう。
そもそも、一雄に対しては慇懃無礼ではあってもまだ言葉を選んでいたものの、弟の雄二には揶揄する態度を隠そうともしていなかった男だ。その下品さにこめかみが痛むのも仕方ないだろう。
「お部屋に戻られるんですか?」
彼はそんな態度など気にならないとでもいうような様子で小村に重ねて尋ねた。そうだ、と答えた小村に、彼は穏やかに笑む。
「そうですか、お気をつけて」
小村が出るのを見据えていると、彼と目があった。苦笑するような彼の表情で自身の表情を自覚する。私の顔も客人としてはふさわしくないだろう。更に言えば、私たちの立場は客ですらなく仕事で呼ばれたものにすぎない。実際のところ、小村をはじめとする客人達よりも立場は下だ。
「もうお部屋に戻れるんですね」
「そうそう。陸宮さんから紅茶もらったから居るだけで、一応ようやく解放ってところだよ」
彼が食堂に振り返り尋ねると、座り直していた江崎が笑って答えた。少し離れた場所にあった紅茶を彼が運ぶので、私も陸宮が入れた紅茶を手に席を移る。
小村のいた席のカップは置かれたままだ。遠目だが、中身もそのまま残っているのを確認できる。
「小村さんの態度はあんま気にしない方がいいよ。携帯壊れたって言ってたし、素っ気なくもなるよねぇ。俺も携帯忘れちゃったままこんな状況だからめっちゃ落ち着かない」
軽い調子で江崎が言うのを、湯山が一瞥する。薄く開いた口はなにかいいたげだが、眉間の皺を深めるだけでやめたようだった。
なにか思うところがある、といっても、事件の問題と言うより江崎が落ち着かないと言うことに対してなのかもしれない。勝手な予想だが、落ち着かないと言う割に随分とのんきな調子に聞こえるのでそういった意味でなら言いたいことがわかるような気がする。
そんな湯山に気づいたのか気づいていないのか、江崎は少し伸びをしたあと机にもたれるようにして彼をのぞき込んだ。
「でもま、俺のうっかりは自業自得だけど、修理屋さんはいろいろ運が悪いというかほんと大変だよねぇ。偶然依頼されたのに調書取られて拘束されて、それでも修理続けるの?」
「仕事ですから。それに、せめて若松様の遺志を叶えたいとも思うのです」
柔和に彼が答える。偉いなぁと相づちをうち江崎は、学者と言うよりも随分と軽い印象を持たせる青年だ。そう考えることが偏見なのかもしれないが、隣にいる湯山の物静かさとの対比で違いが目立つ。
「それで、柱時計の部屋だっけ? 物置って言ってたけどどこかな。柱時計自体はよく見るけど」
「二階の奥ですね。書斎の下なんですけど」
江崎の言葉でつい食堂の柱時計をみる。人が来る場所だからか豪奢な作りの時計は、しかし嫌みのないセンスだ。ぱっとみた印象ではこちらの方が高級感を思わせる。ただ、細工の美しさは納戸の物があまりに繊細だったので、違った方向の柱時計と言えるだろう。
「ああ、あそこ。修理屋さんが来る前なら入ったよ。ねぇ湯山さん」
「……悪いが私はその手の感覚が鈍くてね。書斎の下ではわからない。二階の奥側には行ったことがあるが、そこであっているか不明だぞ」
眉間に皺を寄せて湯山が答える。そうですか、と相づちを打つ彼は特に気にしていないようで、代わりに江崎が湯山の肩を叩いた。
「湯山さんも入ったはずだよ。一雄さんが納戸って言って見せてくれた場所」
「ああ、ならそうだな。あなた方が来る前と、来た後――ちょうど昨日も入った」
「昨日ですか」
彼が湯山の言葉を復唱する。話を聞く合図だ。眉間の皺をゆるめた湯山は浅く頷き、眼鏡の奥で数度瞬いた。思い出そうとする所作に江崎は微笑むと、何故か湯山ではなく彼をみた。
「昨日、と言ってもあなた方が部屋で作業する前だな。確かあなた方が来たのが九時、作業が十時頃だろう? その間だな」
「その間ですか。なにをされていたんですか?」
彼の問いに、湯山は口と瞼を閉じた。それからやや考えるように腕を組むと、閉じた瞼をゆっくりと持ち上げる。
「特になにも」
「なにもー? 気になるなぁ」
軽い口調で疑問を差し込んだのは江崎だ。にこにこと笑いながら言う彼に、湯山は不愉快をわかりやすく眉間に乗せる。
「江崎さんが言うのかそれを」
「なにそれ俺が分かってるみたいな言い方。さらに気になる」
江崎が湯山に椅子を寄せる。湯山はというと露骨に嫌そうな様子で椅子を少しずらして、それからため息をついた。
「招待を受けた側ではあるが、私も仕事として来ている。あなた方が故人の遺志を守るように、私もいくらかの言葉は仕事として、そして友として黙することを選ぶだけだ」
湯山の言葉は静かだ。故にはっきりとした意志があり、それに倣うように彼は頷いた。
「そうですか、有り難うございます。私達も仕事として参考に、というだけなので、それ以上は聞きません。十分です」
「十分なの?」
江崎が首を傾げた。爛々とした瞳は彼を映すばかりで、なんとなしに落ち着かない。湯山がため息をつく音で、私を映さないその瞳からかろうじて目を逸らした。
「だから何故江崎さんが言うんだ」
「気になるじゃーん」
「江崎さん」
湯山が名前を重ねると、はぁい、と江崎が笑いながら椅子に背を預ける。それでも江崎は彼を見たままで、彼は微笑を浮かべた。
「仲がよろしいんですね。お二人とも学者さんとのことですが、元々お知り合いだったんですか?」
「いや」
「仲良しなんですよぉ」
短い湯山の否定にかぶせるように江崎が答える。湯山が舌打ちをしたので、江崎の答えが全てでないのはよくわかった。
「私は若松さんと親しくさせていただいているが、江崎さんとは今回初めて会った。呼ばれたのは江崎さんの方が先だからろくに話もしていないし、この場所でようやく、くらいだ」
「つれないなぁ湯山さん。植物と昆虫なんだし仲良くしよ」
「縁があればな」
湯山の言葉に、やったあ、と江崎が両手を上げてみせる。広げた指先に小さな傷跡があるのは仕事柄、というやつか。植物にも昆虫にも詳しくないのでわからないが、手は少しかさついており江崎の言葉選びや態度に隠れた江崎の軽薄でない部分を語るようだった。つけられた腕時計は江崎の細腕にはやや大降りに見えるものの、綺麗に磨かれた銀が美しい。こちらについては、身なりへの気遣いを感じさせる。
それにしても大げさなジェスチャーは江崎の愛嬌だろうか。腕を組んだ湯山はやや呆れた顔をしているものの、先ほどの舌打ちを含めたとしてどれも拒絶には足りない。言葉はそっけないが、存外人の良さが感じられる。こちらは几帳面そうではあるものの少し曇ったレンズとややくすんだ色の眼鏡のツル、腕時計はついている物の傷ついた文字盤とほつれたベルト生地が湯山の一面を語るようでもあった。
「お話有り難うございます。ええと、飲み物はどうすればいいのかな……」
「置いといて大丈夫だって。あとで陸宮さんが片づけるから」
彼の言葉に江崎が笑って答えた。話の合間に口を付けていた彼は最後の一口を飲んで頷いており、見ているばかりだった私はやや慌ててカップを持ち上げた。さすがに出された物を一口も飲まないのは失礼だろう。そんな私を見て彼が小さく笑ったので、なんとも居心地が悪いもののそのままにはしておけない。
「私はしばらくこちらに残るし、気にしなくて大丈夫だ。礼も言っておこう」
「私も、でしょー。俺も残るからさ。俺、湯山さんとおしゃべりしてるんで、陸宮さんにありがとーしておくねぇ」
湯山と江崎の言葉に「有り難うございます」と彼と共に礼を伝える。彼はそれで十分とも言うように食堂をあっさり立ち去り、私は彼の後を追った。ちり、と、なにかが騒ぐ。
「もう一度戻ろうか」
「若松雄二が空くまでか?」
彼の言葉にそのまま疑問を形にする。彼は首肯せず、笑みを返すに留めた。
「僕らにできることはさほどない。――仕事を進めよう」
その仕事がなにを示すのか、今の私には判断ができない。ただ、彼が何と言おうと私は彼の正義を信じるしかない。そして彼は、今は答えを言わないだろう。揺れる後ろ髪は、随分と長くなった。
廊下を曲がるついでに、振り返る。感じた視線の答えは、存在しなかった。
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