第4話 夜を呑む
「あ、天城!」
僕は焦りながら彼女に駆け寄り、傘を差した。
「遅れて……ごめんね……」
彼女の瞳は、雨とは違う輝きで濡れていた。
僕の頭は、とにかく彼女が風邪を引いてしまうということで必死となり、来ていたジャンバーを彼女に着せ、自転車の後ろに乗せると、一目散に自分の家へと漕ぎ出した。
20分はかかる道を、足元が悪い中で、10分ほどの時間で自宅に到着する。
玄関の扉を勢い良く開けると、そこにはちょうど母の姿があった。
「あら、大樹どうしたの―――」
母は僕の姿とその後ろにいるびしょ濡れの天城の姿を見て硬直した。
そしてすぐさま「風邪ひくから早くお風呂に入ってきなさい!」と促し、何も聞くことなく、天城を浴室へと連れて行った。
僕は玄関でバスタオルだけ渡され、その場で濡れた体を拭くと、2階の自室へと上がり、濡れた服を脱ぎ散らかして、さっさと着替えをした。
防水性のバックに入れていたおかげか、望遠鏡が無事であったことにホッとしたが、天城の様子がどうしても気がかりであった。
冷えた体のまま1階へ下りると、リビングのソファーでくつろいだ。
微かに僕の耳に、シャワーをきゅるりと閉める音が聞こえた。
浴室にいるわけでもないのに、僕は意味もなく緊張した。
ほどなくして、母がリビングに戻ってきて、僕に事情を尋ねた。
それもそうだ。
息子が見ず知らずのずぶ濡れの女の子を連れて帰ってきたなんて、幼いころに子猫を持って帰ってきた時とはわけが違う。
「実は―――」
僕は事の経緯を一から話し始めた。
天城とは学校の図書室であったこと、公園で天体観測をしているときに偶然再会したこと、あの公園で今日も星を見ようと約束をしていたこと。
天気予報が雨だったのにも関わらず、なんで止めにしなかったんだと母に怒られたが、それには理由があった。
僕は天城の連絡先を知らないのだ。
そう。僕が知っているのは、彼女が同じ高校であること、星が好きなこと、そのたった2つだけであった。
僕は彼女のことを何も知らない。
彼女がずぶ濡れになってまで、僕に会いに来てくれた理由でさえも。
ふいに僕の目に涙が溢れた。
天城と離れたくないと思ったがために、勝手に彼女に期待し、勝手に失望した。
あまりにも僕は僕自身が情けなかった。
そんな泣いている僕の姿を、母は理由も聞かず、ただじっと黙って慰めてくれた。
「お母さんが聞けることは聞いておくから。大樹もお風呂に入って早く寝なさい」
そういうと、母はまた浴室に向かっていった。
僕はばったりと出会うことのないよう、2階へお風呂を待機した。
30分後、僕は1階へと降り、浴室へと向かった。
階段から浴室までは一本道となっており、途中にリビングへ通じる扉がある。
扉からリビングの光が少しだけ漏れており、ちらりと隙間を除くと、そこには母と天城がテーブルで向かい合っている姿が見えた。
天城はこちらに背を向けているため、表情を読み取れない。
彼女は今どんな顔をしているのだろうか。
僕はそれが気が気でなかったか、そんなことを気にしていたら永遠にこの小さな隙間から目が離せなくなってしまうため、無理やり足を動かして、その場から立ち去った。
温かなシャワーを浴び、少し温くなった湯舟に浸かる。
天井に向かって息を吐くと、それが湯気と交じり合い、白くなって宙へと消えていく。
口から溢れ出るのは、彼女を想う心が生み出す漠然とした不安であった。
僕はそんな不安を咀嚼しながら、ゆっくりと湯舟の中へと沈んでいった。
◆
真夜中の自室。
僕はいつもと違う感覚に、布団の中でふと目を覚ます。
ここは僕だけが寝る自室なわけだし、普段であれば、他に誰もいるはずはない。
だが、今日だけは、背中越しに温かな人肌を感じた。
「天城……?」
僕は彼女の名前を呼んだ。
すると、彼女は声も出さず、ただぎゅっと背中の服を摘まんだ。
後ろを振り向くことができない。
天城と僕の距離がゼロに近く、彼女の吐息が耳にかかる。
僕の心拍はそのたびに、高く脈打ち、その度に緊張が押し寄せた。
「桐谷くん……あのね」
天城はか細い声で囁いた。
僕はそれに耳を傾け、口を閉じる。
「もしかしたら……もう会えないかもしれないんだ」
その言葉に僕は硬直した。
会えないとは一体どういうことなのだ。
僕の額から、冷や汗が流れ出る。
「それってどういう―――」
僕は寝返りを打ち、後ろを振り向いた。
その瞬間、僕の唇に温かな感触が重なった。
それは、紛れもない天城の唇であった。
初めてのキスは、寂しい香りがした。
僕は、突然の出来事に呆気にとられる。
「天城―――」
僕は彼女の名前をもう一度呼んだ。
彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
お互いを求め合う息と、繋ぎあう体温だけが、2人を支配する。
僕らはもう一度、唇を重ねた。
彼女の瞳が、少しだけ潤んで見え、それがまたあまりにも艶めいて見える。
僕はその瞳に、思わず心を撃ち抜かれた。
言葉なんていらない。
優しく、僕と彼女は指を絡ませあう。
僕らは、目の前にある愛だけを、本能のままに抱いた。
何度も、何度も唇を重ねるたびに、僕と彼女の愛が、パレットの絵の具のように混ざり合っていく。
理性で抑えつけていた獣が、夜に吠える。
こうして僕らは、たった一度、星の見えぬ夜に一つとなった。
目が覚めると、すでに彼女は隣にはいなかった。
机の上に置かれていたのは、たった一枚のメモ書きで、「ありがとう」の一言が書いていった。
その文字は少しだけ、震えていた。
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