3
新幹線内は予想通りの混雑で、ゆっくり会話もできないまま、目的地に到着した。
駅からタクシーに乗り、十分程で貴弘さんが入院しているという病院に着いた。
案内された先は、特別室。
そこにいたのは。
「あなた……貴弘さん?」
虚ろな目をして、座っている男性……おそらく、貴弘さん。
そして。
年老いた一組の男女。
老夫婦とおぼしき片割れ、夫人が手を引いているのは。
「……弘夢?」
老婦人の陰に隠れながら、佐和子さんをじっと見ている、小学生くらいの男の子。
「……きわこおばちゃん、じゃない?」
「弘夢……忘れちゃった? どんなにどんなに会いたかったか……弘夢」
老婦人に背を押されて、少年は、佐和子さんに近づく。
手を伸ばして、半ば強引に、佐和子さんは少年を抱き寄せる。
「弘夢……弘夢!」
何度も名前を読んで、強く、強く抱き締めた……幻ではないと確かめるように。
「……ママ? ……ママ!」
堰を切ったように、少年は声を上げて泣き出した。
「ママ! どうして! どこにいってたの? パパも病気で、僕ずっとおばあちゃんちにいたんだよ! 何で、すぐに来てくれなかったの?!」
「ゴメン、ゴメンね。もう、絶対離れないから。ずっと一緒にいるから……弘夢は、ママのこと、忘れないでいてくれたのね?」
「うん。おばあちゃんが、パパが病気だから、ママは代わりにお仕事に行ってるって。パパが治ったらスグに帰ってくるからって」
「おばあちゃん?」
「うん」
弘夢くんは、老婦人を見返る。
「ママが帰ってきたから、パパの病気も、治るよね」
「あなたは……」
弘夢くんの体を、ぎゅっと抱き締めたまま、佐和子さんは老婦人を見る。
「はじめまして、と言うのも変な感じね。あなたは娘にそっくりだから。……希和子の母です。この度は、娘が大変なことを仕出かして……本当にごめんなさい」
「希和子……さんの?」
「あの子が、この方……貴弘さんとおっしゃるのね、貴弘さんをこんな風にしてしまったの。頭にひどい傷を負わせて、それが元で記憶をなくして、心まで病んでしまった。すっかり心を閉ざして、何も見ないし、しゃべることもなくなってしまったの」
「希和子……さんは?」
「あの子は……娘は、今、手術室です。事が露見したと知って、非常階段から飛び降りたの」
貴弘さんの入院していた特別室は三階の病棟で、希和子さんが飛び降りたのは非常階段のやはり三階からだった。
下が苗を植え替えたばかりの花壇で柔らかい土だったことと、非常階段の柵に服が引っかかり、一直線に落ちる羽目にならなかったことで、即死は免れた。
けれど、頭部外傷と腹腔内出血で、緊急手術となった。
「もうじき1時間くらい、まだ危険な状態だと……」
今、主人がついています、と老婦人――須藤
夫婦かと思った傍らの男性は、真知子さんの夫であり希和子さんの養父である須藤義正氏の弟である
「本来は主人が謝罪申し上げるのが筋ではございますが、今回のことで、ひどくショックを受けておりまして……主人は娘を溺愛しているものですから……全ては娘可愛さに、ことを隠匿しようとした、親の私達の責任です」
「いいえ、元はと言えば、私の愚息が希和子を傷付けた事が全ての元凶です」
和正氏が頭を下げる真知子さんの様子を見て、慌てて言葉を挟む。
「それは、七年前の?」
「ご存知なんですね」
瑛比古さんの問いというより確認の言葉に、和正氏、特に驚く様子もない。
「流産した、というくらいのことしか……」
「その流れてしまった子の父親が私の倅だということは……」
「……結婚なさっていたと」
希和子さんの離婚の相手が義理の従兄にあたる須藤
となれば、当然和興氏との間にできた子供と考えるのが道理である。
「倅は、兄の跡を継ぎたいばかりに、希和子に結婚を申し込みました。そんな思惑も知らず、希和子は喜んで申し出を受けましたし、兄も養女の希和子が倅の子を産めば、自分の死後も希和子の身分が安定するこの縁談に乗り気でした」
希和子さんが養女であることは知っていたが、伯父の溺愛ぶりを見て、希和子さんの夫となるものが後継者になる可能性があった。
それを阻止するには、自分がその夫となることが一番手っ取り早い方法だ……そう考えた和興氏だった、が。
結婚後、舅である義正氏が体調を崩して、会社の実権を弟の和正氏に譲った。
実の父が会社を継いだからには、自分は確実に跡を次ぐことになる……そう考えた和興氏、次第に希和子さんをないがしろにしはじめる。
その後、希和子さん、初めての妊娠がわかったが、夫はほとんど家に帰って来ない。
相変わらず帰って来ない夫を待って起きていた夜、小さな地震があった。
運悪く階段を降りている最中だった希和子さん、地震に驚いて足を踏み外してしまった。
スグに処置すれば流産は免れたのかもしれなかったが、家政婦も帰宅してしまっており、家には誰もいない中、しばし気を失っていた希和子さんが、痛むお腹を庇いながら救急車を呼んだのは、お腹を打って一時間も経ってからだった。
希和子さん自身も命の危険に晒されながら、一命をとりとめた。
しかし、流産してしまった。
しかも、希和子さんはもう子供が望めない体になっていた。
子供ができない……つまり後継者が望めない希和子さんに対して、和興氏が突きつけたのは『離婚届』。
「倅は、希和子を、捨てました。子供が産めなければ、養女である希和子に価値はない、と言ったも同然です。希和子は深く傷つきました。自分でも心を病んだことが分かっていたのでしょう、メンタルケアで優れた医師がいると聞き、ある病院に出向きました」
それは偶然にも、佐和子さんが産婦人科で通院していた市立病院だった。
しかも、そこで臨月の佐和子さんに出会ってしまう。
最初は、再会を純粋に喜んだ希和子さんだったが、佐和子さんの状況を知れば知る程、鏡に瑛ったように自分の不幸が浮き彫りになった気がしてならなかった。
順調であれは、自分も臨月を迎えているはずだった。
自分が帰ってこない夫を待っていた広い家……淋しい家。
それとは比べ物にならない、小さな借家……けれど、夫婦の絆を感じる温かさがあった。
何より、この双子の姉は、自分のように養女ではなく、実子として籍を入れてもらいながら、跡も取らず他家に嫁いだ。
子供も産めない養女とは結婚している価値もないと言われ離婚された自分と違い、養女だろうが実子だろうが、そんな柵に囚われない誠実な夫に愛されている。
鏡の向こうの、もう一人の自分……それが、幸せであればあるほど、鏡のこちらの自分は不幸になってしまう。
そんな、暗い思いが胸に渦巻いたのだろう。
気が付けば、相手のあら探しばかりしていた。
『昔、こんな話を聞いたの。一人の天使が両翼を片翼ずつに分けて、二人の人間になった。対の翼をもつ人間同士は強く結ばれるんだって。私は双子だから、私の半身はあの人なんじゃないかしら。だって、外国では、双子は天使の生まれかわり、っていうんですって。でも、平等じゃないわよね。だって、幸せだけを持っていってしまった半身。私の、憎い片翼』
「佐和子さんに出会って、あの子はそんな事を話していたと、後で受診先の先生に聞きました。私達が考えていた以上に、あの子の心は壊れかかっていたんです。私達は、まさに壊れ物のように、あの子に気を使い、当たらず触らずという接し方をしていました……それが益々あの子の心を傷付けていたんです」
そして、三年前。
県外にある、経営するグループ内のホテルの支配人から極秘で連絡が入った。
「お嬢様が、お連れの方と言い争いになった様子で」
相手の男性を備品の灰皿で殴り付けたという。
「出血は多いのですが、命に別状はないそうです。ただ……ちょっと困ったことになりまして」
すぐに現地に向かった義正・真知子夫妻は、遠い目をしてブツブツ呟き続ける希和子さんを見ることになった。
そして、ホテルの従業員の女性に抱かれて、眠る幼子を。
真知子さんは、幼い子供に、首を絞められたような後があることを見逃さなかった。
「私どもが発見した時は、そのお子さんが泣き叫んでいるところで、お嬢様は、呆然と脱力され、床に座り込んでおられました」
だが、幼子の細い首に残る手の跡は、華奢な女性のものだった。
未遂に終わったにせよ、人を、しかもこんな幼い子供まで手にかけようとするなんて……。
夫妻は悩んだ。
男性は、怪我の後遺症でか、事件のショックでか、記憶を失い、何も憶えていなかった。
子供は片言で自分の名前を『ヒロ』と名乗り、男性に対して『パパ』と呼びかけた。
「でも、その後、希和子は彼……貴弘さんの世話を甲斐甲斐しく焼き始めたんです」
その穏やかな様子に、これで希和子さんの心の傷が治まるかも、と期待してしまった。
愛する人がそばにいれば、様々な別離で生じた傷も、癒されるかもしれない。
身勝手な思い。
それでも、すがらずにはいられなかった。
「貴弘さん親子は希和子と一緒にホテルに滞在していたというので、家族と見られていたの。希和子がとても落ち着いていて、今更引き離すのが怖かった。また希和子の心が壊れてしまいそうで。ホテルの支配人や病院には希和子の恋人で身元は主人が保証するからと話したんです。希和子は貴弘さんの世話に夢中で、ヒロちゃんには目もくれなかったから、私が引き取りました。いくら何でも、この子から母親を奪うわけにはいかない。身元が分かったら、いつか、お返ししなくてはと思って、ママはお仕事に行ってる、パパの病気が治ったら会いにくるからって教えたんです」
調べようと思えば、すぐに調べることもできた。
けれど、そうなれば、全てが露見してしまうかもしれない。
思い悩みながらも、積極的に身元を調べようとしなかった。
そして、三年が過ぎ。
男性……貴弘さんの様子がおかしいと気付いた。
考えて見れば、徐々に口数や表情が減っていっていた気がした。
そのころには、全くと言っていいほど、無反応になっていた。
「もう、限界だと思いました」
明らかに心を閉ざしている男性に対して、嬉々として世話を焼く希和子さんの姿に違和感を覚え始めた。
「あの子の心は、壊れたままだったんです。記憶を失い、帰る場所をも失った人形のような貴弘さんを手にいれて、満足していたんです」
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