むかえごと
久慈川栞
第1話(前編)
緑色というには碧みが強い苔に踏み込むと、思いのほか深く沈みこむような感覚がありわたしは咄嗟に足を引いた。残った足跡の周辺から小さな光の粒が浮き上がり、風に乗って木立の向こうへと消えていった。足元が明るいのは苔が蓄光性なのだと思っていたが、どうやら正体は胞子だったようだ。たたらを踏んだわたしに前を行く子犬が気付いたらしく、木立の間で立ち止まりゆらりゆらりと尻尾を振った。
「大丈夫ですよ。沼地に入らない限り、沈むことはないですから」
安心させようとしているのは分かるが、しかしそれは道を誤ったら終わりということではないか。全然大丈夫じゃない。このまま引き返したい衝動に駆られるが、しかしそういうわけにもいかないのだ。私はリュックの肩ひもをぐっと握りこんで、小さな案内人の後を追うべく碧い世界へと足を踏み入れたのだった。
いやに背の高い木々の間を縫うように進む。幹にはほとんど枝が無く、はるか上空で茂る葉が日光を遮りここまでは届かない。しかし歩くたびに舞い上がる胞子がわたしの足元を照らしていたし、なにより空からそれとは違う粒子が幾多も舞い降りていて、世界を仄かに照らしては地面に落ちて輝きを失う。鳥の羽か? と思ったがどうやら違うらしい。掌で受け止めてみると、それは羽というより薄く削いだ貝殻のようだった。小指の爪よりも小さなそれは、つまみ上げると角度によって色を変えてわたしの目と好奇心を刺激した。
「それは竜の鱗ですよ」
「竜、ですか」
立ち止まったわたしにやきもきしたらしい案内人が、いつの間にか足元にいた。わたしに比べると苔の深みに沈み込んでいる様子もない。体重は圧倒的に彼の方が軽いのだろうが、それだけではない気がする。彼らは時として我々には理解できない性質を持つ。遠くから風の音とも何かの鳴き声ともつかぬ音が耳に届いた。
「上空が竜の通り道なので、鱗がこうして降るのです」
「なる、ほど」
見たこともない竜という生物に思いをはせる。果たしてわたしの想像する竜と実際の彼らは似ているのだろうか、それでとも全く違うのだろうか。嫌でも数年後にはその答え合わせができるのだ、とは分かってはいても現実味がなくて上の空で返事をした。その間に指先の虹は次第に色を失い、風に撫でられてさらさらと崩れてしまった。
「地面に落ちるとすぐに消えてしまうんですが、稀に消える前のものを蛇が食べてしまうんです。そうすると、その蛇は死後竜になるという伝説があります」
「蛇が、竜に?」
そういった話は父からも聞いたことがなく、思わず聞き返すと子犬はニッと笑った。といっても口を開けるだけで笑っているように見えるので、実際に笑ったのかは定かではないけれど。
「あくまで伝説ですから。このあたりでは蛇がいないので、我々も実際に見たことはないんです。ネズミが拾い上げているのを見ることはありますよ」
「そのネズミはどうなるんでしょう」
「そういえば、聞いたことはないですね」
なんだそれは。眉間に皺を寄せたまま見下ろすとばっちり目が合って、子犬はハッハッと舌を出して荒く息をついた。馬鹿にされているのか、何なのか意図がつかめない。しかし案内人は次会う時には当主になっているかもしれないのだ。あまり余計なことも言えず、わたしは小さく息を吐いて「行きましょうか」と告げた。木の根元に小さな穴が口を開けていて、ちょうどネズミが鼻先を出している。お前も食べたのか、と聞いても答えは返ってこないだろう。彼らは声を持たざる者だから。
わたしとあまり距離を取ると先に進まないと判断されたようで、案内人は数歩先を歩くことにしたらしい。規則正しく並ぶ彼の小さな足跡に、わたしの足跡を重ねて歩く。彼の足跡ふたつ分が、わたしの足に吸い込まれていく。胞子が舞い上がる。
と、頭上で大きく枝葉のこすれる音がして、途端に光の雨が降り注ぎ、わたしは眩しさに目をすがめた。なんだろう、まさか竜がここまで降りてくることもなかろうし、猿だろうか。しかし枝の少ない木々を移動するのは至難の業だろう。頭上を仰ぎ見るも、何も目に留まらず既に静けさを取り戻した木々が囁きあっているだけだった。あれだけの音を出しておいて、と怪訝に思いつつ頭上をちらちらと確認しつつ歩いていると、兎の穴らしきものに足を取られて尻もちをついてしまい、案内人が呆れたような笑い声をたてた。
それで緊張も解けたようで、本来おしゃべり好きらしい案内人は、たまにこちらを振り向きながら矢継ぎ早に質問をしてきた。初対面で、今後も長い付き合いになる予定なのだ。お互いのことを知りたいのはわたしも同じなので友好的なのは喜ばしいことだった。
「我々の境界まで乗ってきていた、馬はどうされましたか?」
「帰るよう言っておきました。彼はわたしよりも道をよく知っているし、父からもそう聞いていたので」
「お父上はお会いしたことが無いのですが、容態は思わしくないのでしょうか」
「命に関わることではないんです、ただ腰を痛めたため長距離の移動が厳しくなったので。きちんとしたご挨拶はいずれ、と本人は言っておりますが……」
笑いながらわたしを送り出した父の顔を思い出して、思わずため息が漏れた。こんなに早く跡を継ぐことになるとは、想定外だった。そろそろ仕事を覚えるために、挨拶も兼ねて父の仕事へ同行し始めたのは三年前のこと。幼少時からどのような仕事をしているのかは聞いてはいたが、実際に目にして体感するとなると全く別物だった。年によっては足場の悪いところも行くし、当主以外は言葉を持たざる者であることも少なくない。と言われ慄いたわたしはやはり継ぐのは無理なのではないか、などと考えていた矢先だった。
牛舎の掃除中に足を滑らせ腰を強打した父は、霜月の半ばにあっさりと引退を宣言したのだった。
「突然のことで、驚いたことでしょう」
「ええ、そりゃあ、もう」
思わず語気が強くなったわたしに、子犬はおかしそうに鼻を鳴らして尾を振った。
元々わたしが跡を継ぐ予定にはなっていたのだ。しかし、こんなに早くその日が来るとは思っていなかった。心の準備もまだだったし、父に教わるべきことも数えきれないほど残っている。しかし年が巡るのを誰にも止めることはできないし、つまるところわたしに拒否権などなかったのだ。拒否するつもりはなかったが、「ちょっと数年考えさせて」という選択肢があったら迷うことなく選んでいたと思う。
わたしが務めを果たせるのだろうか、何度も自問したことを考えながら数歩前で揺れる茶色い尾を見るともなしに見ていると、突然ぴたりと動きが止まった。子犬が首をひねってこちらを見やる。
「着きましたよ」
顔を上げたわたしの目の前には、澄んだ水をたたえた泉が広がっていた。
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