第34話 一年きりの転校、だったけど。
職員室に向かう途中、お客さま用玄関でスリッパからヒールに履き替えているお母さんを見つけて、日菜はあわてて足を止めた。
「お母さん……!」
お母さんはパッと顔をあげたかと思うと、
「日菜! あなた、どこ行ってたの!?」
目をつり上げて怒鳴った。でも、すぐに額を押さえて、息を吐き出した。
「まぁ、いいわ。話は帰ってからゆっくりとするから。午後の授業が始まるでしょ? 早く教室に戻りなさい」
お母さんに駆け寄ろうとしていた日菜は、その言葉に足を止めた。
まだ距離がある。もう少し、近くに行かないと話しにくい。わかってはいるのだけれど、それ以上、足が動かなかった。
――するから。
聞くから、でも。話し合おう、でもなく――話を、するから。
一方的な言い方に、日菜はうつむいた。
やっぱり、お母さんに何を言っても無駄なのかもしれない。それならいっそ、このまま飲み込んでしまおうか。
あきらめかけて。日菜はそっと唇にふれた。
――がんばれ。
悠斗の声が、聞こえた気がして。きゅっと唇を引き結ぶと、
「お母さん、私……転校なんてしたくなかった」
日菜は顔をあげて、真っ直ぐにお母さんの目を見つめた。
お母さんは目を見開いた。口を開いて何かを言いかけて。でも結局、何も言わずに腕を組むと、じっと日菜を見つめた。
話しなさい、ということだろう。
日菜は息を吸い込むと、
「東中を離れたくなんてなかった。奈々や彩乃と一年も離れるなんて嫌だった」
一歩、踏み出した。
「制服も体操服も、一人だけ違うなんていやだった。一年きりのことでも、恥ずかしかった」
一歩。そのたびに、飲み込んだ言葉を一つ。
「今も、転校なんてしたくない。たった一年だったけど、こっちで……西中で友達ができた。おじいちゃんのこと、たくさん知れた。大好きな人ができた。みんなと、離れたくなんてない」
踏み出して、飲み込んでいた言葉を吐き出して。日菜は足を止めた。
お母さんから日菜にも。日菜からお母さんにも。十分に手が届く距離まで歩いて、
「私……転校なんて、したくない」
日菜はゆっくりと、言葉を区切って言った。
言った拍子に悠斗が止めてくれた涙が、またぽろぽろと落ちてきた。手の甲でぬぐっていると、
「あなた、何も言わないんだもの。何も考えていないんだと、大して気にしてないんだと思ってた」
ぽつりと。お母さんが言った。
「奈々ちゃんや彩乃ちゃんと離れるのはさみしいんだろうけど、一年だけのことだからって割り切ってるんだと思ってた」
ため息混じりに言って、でも、お母さんはくしゃりと前髪をかき上げた。
「そうよね。日菜くらいの年令での一年って……お母さんが思うよりもずっと長いのよね。わかってたつもりだったのに。あなた、不満も何も言わないんだもの」
ふと、そこで顔をあげたお母さんは、じっと日菜の顔を見つめた。
「……違うわね。言い出しにくかったのね。おじいちゃんの家に引っ越す直前。お父さんとお母さん、ケンカばかりしてたものね」
そう言うと、自嘲気味に笑った。そして、
「ごめんなさい、日菜」
お母さんは深く頭を下げた。
お母さんとお父さんがケンカをしているのを見て、言葉を飲み込んだのは本当だ。でも――。
「言わなかったのは。あのとき、飲み込もうって決めたのは、私だから」
お母さんが顔をあげるのを待って、日菜は首を横に振ると、にこりと微笑んだ。
日菜の笑顔を眩しそうに見つめて。お母さんはくすりと笑った。でも、すぐに真剣な表情になった。
「でもね、転校をやめることはできないの」
「うん、わかってる」
日菜があまりにもあっさりとうなずくものだから、お母さんは目を丸くした。
すねたり、泣いたり、食い下がられたりするんじゃないかと覚悟していたのだろう。
「わかってる。それでも、私の気持ちを、飲み込まずに、ちゃんとお母さんに言っておきたいって思ったんだ」
きっぱりとした口調で言う日菜に、お母さんはパチパチとまばたきしたあと、
「なんだか……少し離れていただけなのに。ずいぶんと大人びたみたいね」
困ったように微笑んだ。
「でも、そうね。日菜にはずいぶんと我慢させちゃったから、おわびをしないとね。何がいいかしら。日菜の誕生日にお父さんと美味しいものでも食べに行こうか」
「それなら、おじいちゃんもいっしょがいい!」
お母さんの提案にパッと笑顔を見せた日菜だったけど、
「あ、ごめん!」
すぐに首をすくめた。そして――。
「誕生日はもう、予定が入っちゃってるんだ」
そう言って、はにかんで笑って見せたのだった。
***
廊下は、しん……と、していた。当たり前だ。もうとっくに午後の授業は始まってる。すごく入りにくいけど、仕方がない。
日菜は教室のドアをそっと開けた。
後ろから入ろうかとも思ったけど、先生に遅くなったことをあやまらないといけない。後ろから入って、大きな声で言うなんて、恥ずかしくて日菜には無理だ。
なら……と、日菜は前から入って、教壇に駆け寄ると、
「すみません、遅くなりました」
小さな声で、そう言った。
せめてもの救いは五時間目の授業の担当が、担任の佐藤先生で。佐藤先生は優しい――と、いうことだ。
「いいのよ、白石くんから聞いてるから。……早退してもいいのよ?」
日菜にだけ聞こえる小さな声で言って、佐藤先生は目を細めて微笑んだ。日菜は首を横に振って微笑み返すと、
「いえ、大丈夫です」
会釈して自分の席へと向かった。
遅れて教室に戻ってきた日菜を、クラスメイトたちはじろじろと見つめた。恥ずかしくてうつむきそうになる。
でも、心配そうにしている真央と和真。悠斗とのことを察してか。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる千尋と大地と目があって、肩の力が抜けた。
転校してきたばかりの頃とは違う。
日菜にとってここは居心地の悪い場所なんかじゃなくて、ちゃんと居場所になったのだ。
日菜が席に座ると、ななめ前の窓際の席に座っている悠斗が頬杖をついて、こちらを見ていた。みんな、すぐに黒板に顔を向けたのに。悠斗だけがじっと日菜を見つめていた。
昼休みのキスを思い出して、顔が熱くなってきた――気がした日菜だったけど。それはすぐに治まった。
悠斗が声には出さずに、口をパクパクと動かしたからだ。
――よ……く……?
悠斗の唇はゆっくりと、一文字ずつ区切って動く。
よ・く・で・き・ま・し・た――。
たぶん、そう言ったのだ。日菜の顔を見て、お母さんと仲直りできたとわかったのだろう。
悠斗はにひっと歯を見せて笑うと、正面の黒板に向き直った。
悠斗の背中をじっと見つめていた日菜は、
「……っ」
不意にふき出しそうになって、あわてて口を押さえた。
でも、笑いが止まらない。声が漏れないように必死に我慢して、日菜はぷるぷると肩を震わせた。
前にもこんなことがあった。確か、転校してきたばかりの頃だ。
悠斗はそれを覚えていて、やったのだろうか。それとも偶然――?
――今夜、聞いてみればいいか。
当たり前のように考えて、日菜はまたくすりと笑った。
そうだ。喫茶・黒猫のしっぽで悠斗といっしょに夕ご飯を食べながら聞いてみればいいのだ。
いつものように、今夜も――。
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